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それからの毎日も、関白殿下が到着するまで暇かというとそんなこともなく、毎日我われに会いにいろいろな人がフスタ船を訪ねてきた。
中には船を見に来るのが目的の者もいたが、キリストの教えを聞きたいという者もいた。博多に教会があった頃の
中でも関白殿下の配下の武将の天徳寺
若い頃に関東の最高教育機関である足利学校というところを首席で卒業したらしく、知識欲旺盛で、キリストの教えをただ聞きに来たというだけでなく細かく疑問点を自ら納得のいくまで質問した。
今は
そうして本当に一週間くらいして、次の週の木曜日には関白殿下の大軍が博多に到着した。前日に大宰府というところに宿営していた時に知らせはもう入ったので、早速翌日面会を申請するために修道士を博多の町まで行かせた。
返事はしばらく戦後処理の九州における殿の新しい配置などを協議するので、二、三日待ってほしいとのことだった。準備ができ次第、連絡をくれるとのことであった。
またしばらく待たされることになるが、では我われは暇になったかというとそのようなことはなかった。
今まではキリストの教えを知りたいという人たちや船が見たいという人たちが押し寄せてきていたが、それに加えて関白殿下の軍に参加していた武将や兵たちの中のかなりの数の
出陣の時に天満橋を渡る彼らの様子を大坂の教会の窓から見ていた限り、軍勢の中に多くの十字架の旗や武具が見えたので相当数の信徒がいることは分かっていた。
彼らは罪の告解のためや、戦争という非日常の異常な状況の中で感じた精神の不均衡を訴えて、光を求めてきていたのである。
そんなある日、長崎の教会から修道士が二人、かなり速く馬を駆けさせて我われの船が停泊しいている姪の浜までやってきた。
かなり疲れて息も切らしていたのでとりあえず水をのませ、二人を船室に招き入れた。
「どうしました?」
コエリョ師が直接対応した。彼らのうち一人は、手紙をコエリョ師にさしだした。
「とりあえず、こちらをお読みください」
私がちらりとのぞくと、ポルトガル語の手紙だったから、どこかの教会の司祭からだろう。
読んでいたコエリョ師は、途中で何度も大きく息を吸っていた。そして、読み終わったらフロイス師に渡した。
「豊後の
私と同期のその司祭はあの豊後の騒乱の時も下関や山口に行かず、臼杵でたった一人大友殿ドン・フランシスコに付き添っていたはずだ。
そのラグーナ師からの手紙、それが早馬で届けられ、コエリョ師の悲痛な顔……言われなくてもあまりいい知らせではないことは分かる。読み終えたフロイス師も目を閉じて祈りを捧げているようだった。
なんだかついでという感じで、手紙は私にも回ってきた。
やはり予感は的中で、そこにはドン・フランシスコの帰天のことが書かれていた。病気のためだという。
その亡くなった日付を見て、私は唖然とした。六月二十八日……つまり先週の日曜日だ。平戸にいて参列した主日のミサで、朗読されたパウロの手紙が私の印象に残っていた。
「もしキリスト、汝らに
そういうことだったのかと思う。この日にドン・フランシスコは亡くなっていた。だからこそこのパウロの書簡のこの部分が耳に残ったのだ。ラグーナ師の手紙にも、やはりこの朗読箇所のことは書かれていた。
「日本のキリスト教界にとって、大村のドン・バルトロメウ、豊後のドン・フランシスコが相次いで天に召されたということは、大きな損失だ」
フロイス師は、ぼそっと言った。コエリョ師もつぶやいていた。なにしろ知らせはまず馬で長崎にもたらされ、そこからまた長崎の修道士が準管区長に知らせるためにまず平戸に行ったという。だが、コエリョ師はとっくに平戸を後にした後だったので、そのままこの博多まで馬を走らせてきたという。だから、知らせが届くまでに十日もかかったのだ。
ドン・バルトロメウはその子息サンチェスはまだ若い。ドン・フランシスコの場合は長男のドン・コンスタンティーノは本当にぎりぎりでの入信だった。もし、彼がまだ洗礼を受けていないうちにドン・フランシスコが帰天したら、豊後での布教も厳しいものとなっただろう。すべてが『
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