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 誰もが顔色を変え、殿たちは一斉にその書状に対してひれ伏した。

「これは、関白殿下のご朱印」

 殿たちは口々にそう言って驚いていた。事情を知っているドン・ジョアキムとジュストだけが、にこりと笑っていた。

「これは、もしやキリシタン布教安堵のご朱印状」

 一番驚いた顔をしていたのは、黒田殿ドン・シメオンであった。関白殿下の軍事顧問で、受洗してからまだ二年ほどしかたっていないが熱心な信徒クリスティアーノである。

「これがあれば天下無敵ですな」

 そう呟いてから、ドン・シメオンはコエリョ師やフロイス師の方に向き直って座り直した。初めて会った時からびっこを引いていたが足が悪いようで、ほかの人のようにきちんとあぐらをかいては座れず、足を投げ出していた。我われは皆彼が足を悪くしているのは知っていたので、誰もそれを失礼だとは思わなった。

「実はそれがし、関白殿下のご命令で明日にでも安芸あき吉田の毛利少輔太郎殿の元へ参上することになっております。此度こたびの関白殿下の九州ご出征の段取りの打ち合わせでござるが、その際にバテレン様方が領内にお入りになることを許可するよう説得致しましょう」

「しかし私たちも、あさってには堺を出発します。間に合うでしょうか」

 フロイス師が少し首をかしげると、ドン・シメオンはにっこりとほほ笑んだ。

「この関白殿下のご朱印状があれば、あっという間に話はつきます。バテレン様、この写しはございますか?」

 フロイス師はすぐにヴィセンテ兄を呼んだ。

「ヴィセンテイルマン・ヴィセンテ、写しはまだありますか?」

「はい、すぐにお持ちします」

 この朱印状は日本の総ての教会に送り届けるために、その内容をヴィセンテ兄が書き写していたのだが、まだその余分があった。フロイス師がそれを黒田殿ドン・シメオンに託した。

「それは本物ではなくて内容を移しただけですけれど、大丈夫ですか? 関白殿下の朱印もない」

 オルガンティーノ師が心配そうに、ドン・シメオンに言った。ドン・シメオンは笑っていた。

「本物は私がこの目で見ました。それを伝えれば十分です。なにしろ毛利殿とはまだ毛利殿が織田家と敵対していた頃から、和平の交渉役が私だったのです。いわば毛利殿とはもう古い付き合いなのです」

 それを聞いて、オルガンティーノ師もうなずいた。すると、また別の殿から声が上がった。

「いや、いつの間にこのようなご朱印状を」

 あらためて驚いていたのは、明石親子だった。明石飛騨とその息子の十七歳くらいの若者である明石掃部かもんの親子だが、二人はまだ洗礼を受けていはいない。

 黒田殿ドン・シメオンの縁者ということでこの教会に通って説教を聞き、いずれはと洗礼を志願している。それがなかなか実現しないことについてフロイス師は、悪魔のお邪魔によるものだと主張していた。

 私だけでなくオルガンティーノ師もそうだが、このフロイス師のうまくいかないことを何でもかんでも悪魔のせいにする考え方には首をかしげてしまう。いや、フロイス師がというよりも、エウローパの人々は往々にしてそうなのだ。なんでもかんでも善と悪の二元論でとらえてしまう。絶対善である『天主ディオ』と絶対悪の悪魔サタンの対局で物事を考える。

 だが、この日本の人たちはそうではない。善も悪もすべて呑み込んだ調和、それを日本語では「」という。その「」の精神で物事をとらえようとする。

 日本通のオルガンティーノ師よりも遥かに長く日本にいるはずのフロイス師でさえまだエウローパ式の善悪二元論から脱することができず、日本の「」の精神はあまり理解していないような気がする。

 それはさておき、この明石親子は実はもう一人の殿の家来であって、その殿の護衛という感じでこの教会には来ていた。実は関白殿下の朱印状に驚きの声を発していたのは、明石親子だけではなくその主君であるこの殿だった。

 若い明石の息子よりも、この殿はさらに若い。まだ少年といってもいいくらいだ。だが、この国ではもう立派な一人前の大人扱いだ。それに恥じずに聡明で堂々とした振る舞いは、若くてもさすがに殿だった。あの有馬の殿のドン・プロタジオとてそうだった。

 この宇喜多八郎という若い殿もまだ洗礼は受けていないが、キリストの教えに興味を持って教会に通っていた。彼を導いたのは明石親子だけではなかった。

 実はこの宇喜多八郎殿の父親こそ、小西殿ドン・アゴスティーノが以前に仕えていた主君なのだ。そういう関係で、宇喜多殿はいつも明石親子とともに教会に来ていた。

「関白殿下からこのようなご朱印状がくだされ以上、我が領国にも同じようにキリシタン布教を認める書状を私は書くべきですね」

 若いながらもそう呟いて明石親子と顔を見合わせていた宇喜多殿の姿に、私も、そこに居合わせたどの司祭も皆胸を熱くしていた。

 その言葉はコエリョ師にも、フロイス師の通訳によって伝えられた。

「あなたの治める国はどこですか?」

 この宇喜多主従と初対面のコエリョ師は、フロイス師を通じてそう聞いた。

「備前、備中、美作の三国を治めております。城は備前の岡山にございます」

 岡山といえば今の関白殿下と柴田殿との戦いで亡くなった結城ジョアン殿の城も岡山城で、それは河内にあった。その岡山城の城下の教会を移築したのが今のこの大坂の教会である。

 その同じ名前の岡山という街で布教の許可を城主の殿が下さるという。日本人はよくそれを「何かの因縁インネン」という言葉で表す。目には見えない世界での何かつながりがあって、仕組みが働いているということらしい。

「いずれはその備前の岡山にも教会ができて、司祭を派遣できる日が来ることを祈りましょう」

 オルガンティーノ師が陽気に、しかし厳かに言った。

 

 翌月曜日、黒田殿ドン・シメオンの行列は、かなりの人数で西に向かって行った。

 我われもコエリョ師とフロイス師を送って堺まで行くことになっている。大坂の教会は修道士たちに任せて、我われ全司祭はコエリョ師らとと主に堺に向かった。セスペデス師とジアン兄はこのまま堺からコエリョ師らとともに小豆島まで出発する。

 その日の夜は堺の日比屋の大広間で、コエリョ師らの送別の宴が開かれた。四月の末に堺に到着していら、コエリョ師とフロイス師は大坂から都に向かうまで、約二カ月近くもこの堺の日比屋の屋敷に滞在していた。

 宴には我われ聖職者のほかにはドン・ジョアキム、そしてその息子でコエリョ師らを小豆島経由で山口まで送る船団を指揮するドン・アゴスティーノの姿もあった。

 私とドン・アゴスティーノはあの室の港で初めて会ったときしかゆっくりと話をしたことはなかった。その後は大坂の教会ではいつもすれ違いで、私が高槻から大坂に異動になったあとは彼はほとんど大坂にはいないかったからだ。

 私は宴が進むと、ドン・アゴスティーノとも久しぶりに親しく話をした。日本の宴会は一人ひとりが小さな膳なので、席の移動が非常に簡単である。

 そしてこの日は日比屋の主人のディオゴをはじめ、その一族もすべて顔をそろえていた。私も五年前にヴァリニャーノ師とともに初めてこの堺に到着した時、日比屋の一族については簡単な紹介を聞いたが、その時のことはもう忘却の彼方で、またあらためて紹介を受けるといった感じだった。

 席が乱れて行くうちに、私はジョアキムに促されて日比屋の一族と対座し、杯を交わした。さすがにディオゴ老人とはもう顔見知りだ。そしてその息子のヴィセンテは、ほぼ私と同世代である。

 そして娘婿のルカスだ。この時初めて聞いたのだが、ルカスはディオゴの娘婿というだけでなく、ディオゴの妻のイネスの弟なのだそうだ。つまり、ディオゴの義理の弟でもある。

 その妻のサビーナはディオゴの娘である。そしれルカスの弟の未信者の了勘リョーカンがどうもいやな目つきでそばに座って酒を手酌で飲んでいた。

 他には少し遠い座だったからジョアキムからその名前を聞いただけだったが、ディオゴの弟で未信者の藤庵トーアン、同じくディオゴの弟で信徒クリスティアーノのガスパルらの名前が、ジョアキムによってそっと私に告げられた。

 さらにジョアキムに紹介された商人風体の男は、ジョアキムの長男、すなわちドン・アゴスティーノの兄であるベントであるということだった。フロイス師やオルガンティーノ師などとは顔見知りのようだったが、私は初対面だった。今はこの堺で、父の本来の家業であった薬屋の小西屋を継いでいるという。そしてその妻のアガタが、ディオゴの娘なのだそうだ。

 やがてルカスが私の前に来て、酒を継ぎ、堺の町の良さについていろいろと話を始めた。

 この男についてはいろいろと聞かされている。もともとはディオゴの次女で自分の姪でもあるのモニカにそうとう執心で、かなり強引に結婚したのだということだ。だが、モニカもすでに亡くなり、今度はその妹でディオゴの三女の今の妻のサビーナと結ばれた。

 本来は義理の妹である。私がそのようなことを知っていることは伏せていろいろとルカスとは語ったが、どうも今一つ何を考えているか分からない男だった。

 そして二日後の水曜日、つまり七月二十三日にドン・アゴスティーノが指揮する大船団に守られて、よく晴れた空のもと穏やかな海に向かってコエリョ師、フロイス師、ディアス師、マリン師、そしてセスペデス師、ジアン兄を乗せた船は見る見る遠ざかって行った。

 準管区長が都布教区に滞在中も、最初の二カ月は堺に、最後のひと月は都にいたわけで、大坂で顔を突き合わせていた時間はほとんどなかった。それでも都布教区にいるというだけでかなりの重圧を感じていたが、やっとそれから解き放たれて肩が軽くなった気がした。おそらく、オルガンティーノ師もそうではないかと思う。

 とにかく、本当の意味で我われの日常が取り戻せた。

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