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 我われはその足で、さらに北に十分くらい歩いた所にある妙覚寺ミョーカクジという寺に滞在しているという信長殿の長男、城介ジョーノスケ勘九郎カンクロー殿を訪ねた。

 年の頃は二十代半ばの若者だ。それでも信長殿のお子だけあって、しっかりとした「殿トノ」であった。城介ジョーノスケというのは名前ではなく彼の官職名で、正式には秋田城介アキタジョーノスケというのだそうだ。勘九郎カンクローは通称で、実の名は信忠ノブタダというらしい。

 妙覚寺も本能寺に負けないくらいの大きな寺で、勘九郎カンクロー殿はここに屋敷を造営しているわけではなく純粋にテラの建物に投宿しているようだった。

 そこで型通りの挨拶をすると我われはフロイス師の提案を受け、信長殿がこの都の所司代、すなわち総督あるいは市長のような役に任じていた村井殿ムライ・ドノを訪ねた。妙覚寺の脇の室町通りをそのまま南下すれば教会なのだが、本能寺の隣に居を構えている村井殿を訪ねるためにはほんの少し寄り道をすることになる。だが、たいした距離ではなかった。

 村井殿は気のいい老人で、信長殿と同様愛想よく我われを迎えてくれた。

 

 教会に帰ってから何か気の抜けたような感じで、皆で集会所の木の床の上に足を延ばして座っていると、しばらくしてから信長殿の使いの者が大きな籠と共にやってきた。信長殿が言っていた贈り物のようだが、出てみると籠の中は大きな鳥が十羽ほど入っていた。

「バテレン殿のお体がお悪いようなので、このキジの肉で精力をつけてくださいとの、上様の仰せです」

 運んできた信長殿の家来ケライたちはそう説明してくれた。彼らがキジと呼んだ鳥は、我われにとって見たこともない美しい鳥だった。これを食べてしまうのはもったいないような気もしたが、日本でも坂東バンドーと呼ばれている地方にしか生息しない鳥だという。アーナトラに似ているが明らかに鴨ではない。鴨よりも一回り大きい。

 こんなところにも信長殿の人柄が表れているような気がした。

 

 三日後、とうとう四月になった。その四月一日の土曜日は、信長殿が言っていた馬揃えウマゾロエの日だ。

 この日は朝早くから町全体が騒がしく、我われは朝の七時にはもう教会を出て教えられた見物の席へと向かった。会場は内裏ダイリの東側ということで、教会からは少し東へ行ってから大通りである烏丸通りヴィア・カラスマを左に折れてずっと北上していった。かれこれ三十分も歩いてからようやく内裏ダイリの森が見えてきた。そのあたりまで来ると信長殿の織田家からの案内の武士サムライが待っていてくれており、その誘導に従って内裏の南側を東へ向かうと、そこにはかなり広い空間があった。

 この国の町中ではローマのような広場プラザというものを見たことがなかったが、ここはむしろローマの広場というよりもむしろチルコ・マッシモといってもよかった。内裏の東側の黄色い土の塀に沿って南北に遥か彼方までその日本のチルコ・マッシモは広がっていた。そんな私の感想は、私だけではなかったようだ。

「おお、チルコ・マッシモ」

 と、ヴァリニャーノ師もうなっていたし、オルガンティーノ師もうなずいていた。

「まさにそうですね。いやあ、驚いた」

 笑いながらそういうオルガンティーノ師に、ヴァリニャーノ師は少し首をかしげた。

神父パードレも初めて見るのですか?」

 そう聞かれて、オルガンティーノ師は、

「そりゃそうですよ。だって、このような施設は今までなかったのですから。信長殿は今日の催しのためにわざわざ作らせたのでしょう」

 と言ってから高らかに笑った。

 南北に細長い広場の両脇には、ずっと少し高くなった見物席があって、その上が貴人の席のようだ。その下のところにすでに多くの庶民で埋め尽くされていたが、広場と庶民たちが立って見物する間には縄が張られていた。細長いといっても幅も相当なもので、向かい合っている席の人びとの顔は見えないほどだ。

 私たちはずっと北の方に案内されたので、そこからまたさらに五分ほど歩かねばならなかった。見物席は桟敷サジキと呼ばれ、立って見ている庶民の見物人の頭くらいの高さの台の上に座布団ザブトンが敷いてあった。縁には低い手すりが付いており、背後は布の幕で織田家のステンマ・ディ・ファミーリア( フ ァ ミ リ ー ・ ク レ ス ト )(これを家紋カモンという)である花が染められている。そんな桟敷サジキが広場の両側に延々とつながっているのだ。幕の上からはずっとサクラの木の枝がのび、満開の花がきらびやかに咲き誇って幕と一緒に遠くまで続く。

 桟敷の上には貴人が座るようになっているが、よく見ると手前が男性、向こう側が女性の席と別れていた。

 我われの席の斜め前方の向かい側の桟敷の中央あたりには、一つの特殊な建物があった。建築様式からしてこの国の宮殿を一回り小さくしたような形で臨時の建物のようだが、それでもきらびやかな金で装飾されている。そしてその周りを多くの兵が警護しているのが見えた。どうもあそこがミカドの玉座、すなわちチルコ・マッシモでいう皇帝観覧席プルウィナルのようだ。もちろん。中は見えない。

 この細長い広場の向こう側は端から端まですべて深い森で、つまりはそれが全部内裏ダイリの敷地であろう。信長公のミヤコでの屋敷があのようなこじんまりとしたものだったのに対し、やはり内裏はその規模も比べものにならないくらい大きい。やはりミカドこそがこの国の帝王なのかと、私はぼんやりと思っていた。


 そのまま待つこと一時間くらいで、人びとの間からどよめきが上がった。馬に乗った武将らしき人を中央に何騎かの馬と徒歩の兵たちの集団が広場の隅から入場してきた。馬もそれに乗る人も甲冑姿ではあっても派手に着飾っており、また徒歩の兵たちもそれぞれきらびやかな贅を尽くした意匠をこらし、色とりどりの旗を無数に従えていた。人びとの歓声を受けて、その集団は広場を行進する。それに合わせて笛や太鼓の音楽も奏でられ、それが軽快なリートゥモ(リズム)であった。

 歓声に応えながらその集団が過ぎると、少し間をおいて次の集団が入ってくる。やはり十五騎ほどの馬で、先頭はやはり着飾った武将であった。そんな集団が十あたり続いて入ってきた。馬は隊列を組んで帝の玉座の前を通過すると向こうの方から折り返してくる。次々に入場してくる一団とはすれ違う形になって、途切れなく行進は続く。

「これ、みんな信長殿の軍事力なのですね」

 私がふとつぶやいたように、まさしくこれは天下に己の武力を見せつけるペルフォルマンス(パフォーマンス)でもあるが、その軍事パラータ《(パレード)》的要素にも娯楽が散りばめられていた。とりわけ、五つ目の騎馬団は、総て信長殿の一族である織田家の親族たちだということだ。

 ひと通り入場が終わり、広場が騎馬武者であふれると、最後にやはりきらびやかに着飾った多くの従者に杖や長刀、太刀タチなどを持たせ、さらにこれまたきらびやかな衣装の三十人弱の少年に囲まれて、黒い馬に乗った信長殿が登場した。

 その服装たるや誰よりもきらびやかではあったが、我われを驚かせたのはその赤いヴェルート(ビードロ)マンテッロ(マント)シャボラ(サーベル)スティバリ(ブーツ)、そして襞襟ゴルジェーラを着け帽子カッペーロをかぶった姿だった。それらは皆、ほんの三日前にヴァリニャーノ師が信長公に贈ったものだった。

 南の方角の方へと退き、最初に入ってきた集団の馬から一斉に駆けだしはじめた。十五騎が一斉に駆けだすのだから壮観だ。馬が駆けだすと楽の音に重ねて爆竹トラーキーも鳴らされた。あのマカオで、チーナの暦による正月に町中を包みこんでいたあの音だ。この国にも同じものがあったことを初めて知った。

 十五騎の馬が駆けだすとさすがの日本のチルコ・マッシモも、所狭しという感じだ。広場の北の端まで行ったら折り返して南の端へ、そしてまた折り返しと、今ではただの広場にすぎないローマのチルコ・マッシモがかつてのローマ帝国時代にはこんな感じだったのだろうかと想像を掻き立てられた。

 最初の一団の十五騎がひと通り駆け回るとやがて退場していき、次の一団の十五騎がまた造られたチルコ・マッシモを駆け巡り始める。馬だけでなくたくさんの旗も一緒になって動くから、それがまたいかにも「動」という感じで目を奪われる。

 これが次々に、入れ替わり立ち替わり続く。最初は十五騎ずつの一団での早駆けハヤガケだったが、そのうち騎馬団同士二団で一つ、三団で一つとどんどん数が増えていき、よくぞ互いにぶつからないものだと感心するくらいひしめき合いながらも素早い馬足と洗練された手綱さばきで、全くぶつかる馬はなかった。

 信長殿もともに馬を走らせ、また途中で何回も馬を乗り換えたりしていた。彼は赤いマンテッロ(マント)を着用しているだけに、走るたびにそれが風になびいてはためき、まるで巨大な赤い鳥が大空を舞っているかのようであった。

 ヴァリニャーノ師はじめ我われは皆息を呑んで、その華やかで勇ましい行事に見入っていた。都での生活が長いフロイス師やオルガンティーノ師でさえ、このような行事を見るのは初めてだという。朝の九時ごろから始まった行事だが、もうすでに昼を過ぎていた。

 そしていよいよ最後のクリーマックス(クライマックス)で、騎馬武者たちの早駆けを静めた後信長公は、そのまま皇帝観覧席プルウィナルの前へ進み、馬を止めた。するといつの間にかそれに付き従う少年たちの何人かが、大きな椅子を乗せた台を運んできた。その椅子もまた、三日前にヴァリニャーノ師が信長に贈ったあのヴェルート(ビードロ)の椅子だった。

 その椅子を皇帝観覧席プルウィナルのまん前まで運ばせた信長殿は、その椅子を高らかに二回ほど上にあげさせた後、一度地に降ろし、自分は馬から飛び降りるとその椅子に座って見せた。彼はその椅子を最初に見た時に、帝王の座る椅子なのかと質問していたはずだ。その帝王の椅子に、この国の皇帝ともいえるミカドの御前で、信長殿は自らが座って見せたのである。

 信長殿が座ると、再びその椅子はやはりきらびやかな衣装の四人の男に担がれ、信長殿は椅子の上から威圧するかのように周囲を見ていた。自然と皇帝観覧席プルウィナルをも見下す形となる。

 それを見ていたヴァリニャーノ師が驚きの表情を見せたのを、私は横目で見た。

「信じられない」

 と、ヴァリニャーノ師はイタリア語で、小声でつぶやいていたのである。

「どういうことですか?」

 私が聞くと、ヴァリニャーノ師は私を見て、そのままイタリア語で言った。

ミカドといえばこの国の皇帝インペラトーレ、信長殿はその大臣ミニストロにすぎないはずだ。しかも、その地位からすでに離れているとも聞く。我がナポリ王国では皇帝インペラトーレ国王の前で大臣ミニストロ、まして前大臣ミニストロがあのような素行をしたら、即刻首をはねられる」

 貴族の出身であるヴァリニャーノ師だけに、そういうところには目聡い。私はそれを聞いて、それまでただただ行事の華やかさに目を奪われてそこまで深い考えを持っていなかったが、言われてみれば確かにそうだと思った。信長殿との会見でヴァリニャーノ師がミカドへの謁見を求めたが、信長殿がそれを一笑に付したことともなんとなく関係があるような気もした。

 その後、多くの騎馬団に分かれていた信長殿の家臣団も、一団ずつゆっくりと馬を進め、総ての桟敷の前を通るように場内を一巡した後に北側から退場していった。その最後が信長殿で、信長殿はずっと四人の男が担ぐ台の上の椅子に座ったまま、騎馬団と同様に場内を一巡した。そして、我われの席の前にもさしかかったので、今までは遠くたよく見えなかったその顔がはっきりと見えた。高く掲げられた椅子に座っていた男の顔は、三日前に我われを迎えてくれたときのような慈愛あふれる笑顔の信長殿ではなく、威厳に満ちた帝王の顔だった。

 こうして、華々しくも錦に染まるような一日の時間が流れた。しかしそれは確実に流れており、とどまることを知るすべもなかった。

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