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 翌日は、枝の主日のミサだった。

 ミサの最初に棕櫚しゅろの木の枝が祝別されるが、日本には棕櫚がないのでネコヤナギフィーガ・サーリツェで代用している。

 そしてミサに参列する人びとはそのネコヤナギを手に聖歌をラテン語で歌いながら行列をなして教会に入る。実は堺には独立した教会はなく、この日比屋の屋敷の中の一室が御聖堂おみどうとなっていた。いわばディオゴは自宅の一部を開放して教会にしていたのである。

 もちろん聖職者が常駐していないので、正式な教会ではない。ところがこの日ばかりは、そう広くない御聖堂は多くの人でひしめき合っていた。それでも御聖堂に入れたのは、詰めかけた信徒クリスティアーニのうちの三分の一程度だった。

 その日の午後、我われは堺の町を散策した。府内と同じくらいの大きな町で、やはり道は縦と横の整然としたつくりだった。総じて日本の町はエウローパのように城壁に囲まれているということはないが、この町の場合は城壁ではなく日本のシロの周りにあるような人工の水路――ホリで海に面した港以外の三方が囲まれていた。その水面に映る町の美しさは、私が日本に来て以来最高の美と言ってもよかった。特に讃嘆していたのはトスカネロ兄で、イルマンはナポリ王国出身だが、イタリア半島北部を旅したこともあるということだった。だから、

「ここはヴェネツィアだ」

 と、イタリア語で何度もつぶやいていた。イタリア語は知らなくてもラテン語は知っているフロイス師はその地名を聞きとったようで、

「風景だけではなく、この町は会合衆カイゴウシューという町民の代表の執政官コンスルによって治められています。ディオゴもその一人です。つまり、この堺はどの殿トノの支配も受けていませんでした。どの殿の領地でもなかったのです。そういう意味では、まさしく東洋のヴェネーザ(ヴェネツィア)でしたでしょうな」

 と、フロイス師も堀端を歩きながら言った。だが、その表現がことごとく過去形であるのが私には気になった。それを聞くまでもなく、フロイス師は話を続けた。

「ただ、今は信長殿ノブナガ・ドノ奉行マジストラードを派遣するようになりました。でも、それでもだいたいの政治は会合衆の自治に任されています」

 我われがこれから会うことになるというこの国の帝王――信長ノブナガの力は、確実にここまで伸びているのだ。

 そのようなことを考えながら日比屋の屋敷に戻ろうとしていた時に、

「あの、もし、バテレン様方」

 と、背後で我われを呼ぶ声がした。


 振り返ると明らかに貴人と思われるような身なりの若者が、さっとヴァリニャーノ師の前で片膝を地について跪いた。その隣には、旅装束のやはり若い女が立っていた。

「天竺から起こしの偉いバテレン様とお見受け致す」

 そう言ってから目を上げた若者は、上品で利発そうであり、いかにも高貴な出のような顔つきだった。胸にはしっかりと十字架が輝いていた。

「拙者、豊後の国でかつて臼杵のお殿さまにお仕えする重臣の田原親賢タバルチカカタの養子であった柳原ヤナギハラ勝之四郎カツノシロウ親虎チカトラ、霊名をシモンと申します」

「豊後の国におられましたか」

 豊後と聞いて、ヴァリニャーノ師は親しみを感じたのだろう。だが次の瞬間、

「あなたは」

 と、横から声をかけたのはフロイス師だった。その顔を見たとたんに若者ははっとした顔になり、フロイス師も複雑な表情をしていた。

「バテレン・フロイス様…」

 どうも気まずい空気が流れていた。

「どうしました?」

 と、ヴァリニャーノ師が日本語で聞いた。

「実は拙者、今は伊予で暮らしています。こちらは伊予で娶った妻です」

 隣に立っていた女が、我われに頭を下げた。

「実は仔細あって都へ上ろうと今日、この堺に到着致しましたら、なにか偉いバテレン様が来ておられるということで町中のキリシタンが騒いでおりましたので、今からお伺いするところでございました」

「とりあえず、ディオゴの所に戻りましょう」

 と、ヴァリニャーノ師はシモンという若者を立たせて、その妻と共に日比屋の屋敷に戻った。


 屋敷の、我われにあてがわれていた三階の一室で、シモン夫妻と共に畳の上に座った。あてがわれていたというよりも、実はこの屋敷の三階は常に我われの用な司祭が堺を訪れた時の宿泊のためだけに用いられているようで、いわばちょっとした司祭館であった。その部屋で、まずはシモンはフロイス師の前にかしこまった。

「あの節は大変お世話になりました。それなのに、いろいろと我が生業なりわいのためにも便宜を図ってくれたにもかかわらず突然出奔致し、恩を仇で返すようなこととなり面目次第もございません」

「まあ、確かに、あの後バテレン・カブラルはかんかんでしたよ」

 フロイス師はそう言ってから、さすがにヴァリニャーノ師やメシア師がそこまでは日本語が聞き取れないようだったので、彼らにシモンの話の内容を伝えた。シモンは、ばつが悪そうにしていた。

 その時、臼杵にいた時にたしかカブラル師から、このシモンという若者について聞いたことがあったような気がしたのを私は思い出した。受洗まで導き、目をかけてその信仰を深めさせていったのに、ある日突然船で伊予イヨへと行ってしまったということで、かなり不快に語っていた。

「実は今日お声をかけましたのは、私どもは今、伊予では全くの異教徒の中で生活をしております。周りにキリシタンは一人もおらず、当然教会もなければバテレン様もイルマン様も一人もおられません。そこで、長いこと告解をしておりませんので、今日はぜひ告解をお願い致したく」

 シモンがもともと我われを訪ねようとしたのは、そういうことだったのだ。さっそくその願いを聞きと届けることにしたが、ヴァリニャーノ師は告解を聞くには日本語に自信がないと言い、メシア師も然りだった。いちばん日本語が堪能なのは言うまでもなくフロイス師だが、やはり過去に何かあったようでどうも具合が悪そうだった。それを機敏に察したヴァリニャーノ師は、私に告解を聞くように言いつけた。そこで私は二人を伴って、屋敷内の階下の一室にある御聖堂へと連れて行った。


 二人の罪の告白の内容を述べることはできないが、そのあとの聖堂内で私は彼らからその身の上話を延々と聞いた。

 もともとは都の貴族の子であったシモンは十歳の時に豊後の田原親賢の養子として迎えられ、府内に渡ったのだそうだ。だが、ふとしたきっかけで教会の前を通った時に司祭パードレの説教が耳に入り、それから興味を引かれて教会に出入りするようになり、受洗を決意したという。

 だが養父はあのジェザベルの兄弟であり、大のキリシタン嫌で彼の受洗に大反対し、ジェザベルとともに妨害さえしてくるようになった。それでも受洗の決意は変わらず、しばらく様子を見るようにというカブラル師の助言も押し切って無理やり洗礼を受けた。

 そうしたら妨害工作はますますインテンフィシカーレ( エ ス カ レ ー ト )し、ついに彼の養父は領地から軍勢まで呼び寄せて教会を包囲し、彼を棄教させなければ教会を焼き払い司祭を全員殺すと脅しをかけてきたのだそうだ。その時はまだ洗礼を受ける前だった大友殿ドン・フランシスコが間に入ってなんとかことは収まったが、彼は田原の家の養子の縁を切られ、しばらくは教会で生活し、ドン・フランシスコへ仕官する話にまでなったということだった。

 しかしカブラル師はことあるにつけ、自分があれほど止めたのに強引に洗礼を受けた結果、教会までもが危険にさらされたと彼をなじり、とりわけ彼を苦しめたのはふた言目にカブラル師が言う「この日本人め」とか「しょせんは日本人だ」という見下した言葉だったということだ。

 これが本当に『天主デウス』に仕えるバテレンなのかと悩んだ彼はついにいたたまれなくなり、伊予へと逃げだしたのだということだ。今は都へ、実の親に会いに行くのだという。

「しかしよく、それで信仰を棄てませんでしたね。私はそこに感動しました」

 と、私は言ったが、それが私の本心だった。

「たしかに、バテレン・カブラル様のお蔭様で、信仰を棄てて棄教した人も何人かいます。しかし、私は違う。私の信仰は『天主デウス様』に直接向いているのであって、教会やバテレン様を信仰しているわけではありませんから」

 そして、彼はさらに話を続けた。

「教会がどうあれ、バテレン様がどうあれ、そんなの関係ありません。天地の創造主であらせられる『天主デウス様』は厳としておわしてそのみ手内てぬちに我われが生かされている、これは動かざる真理ですし、イエズス様のみ言葉も絶対です。拙者、先ほども申しました通り、伊予では教会もなくバテレン様もおられない状態で異教徒に囲まれて生活しておりますが、妻と二人でますます信仰を深めております。なぜなら、『天主デウス様』は常にともにいてくださいます」

 私は不思議な感覚だった。『天主デウス』もキリストの教えも絶対だというのは分かる。だが、教会も司祭もなしで信仰を深めるなどという考え方は私には思いもつかない発想だったからだ。

 信仰とは教会の共同体との交わりの中でこそ成立するものであり、教会を離れての信仰は傲慢からくると教えられてきた私だったが、彼の姿には傲慢のかけらもなかった。エウローパではローマ教皇に属さない異端の新教の教会もたくさんできて問題になっているが、それともまた違う。このような考え方に至るのは、やはり日本人の霊性の高さからだろうか。

 ふとそんな時私の中で、「『天主デウス』あっての教会であって、教会があって『天主デウス』があるのではない」という言葉がひらめいた。


 このシモン夫婦も、ディオゴの好意で屋敷内に泊まり、翌日二人は都の教会での再会を約して我われより一足先に早朝に都へと出発していった。そして我われも、多くの人に別れを惜しまれながら堺を後にすることになった。

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