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 そうこうしているうちに季節は少しずつ春めいてきて、すぐに三月となった。

 いよいよこの豊後を離れて都へと出発する日が近づいている。

 我われは最後の挨拶に、臼杵の城に登城してドン・フランシスコと面会した。彼と話しながら、私は彼の例の前夫人のことを思い出していた。彼女には本当に幸せになってもらいたい、「列王記リーブロ・ドス・ヘイス」のジェザベルのような非業の死は遂げてほしくないと心から願った。

 ドン・フランシスコは、都の近くのサカイという町まで船を出して我われを送り届けてくれることを申し出てくれた。ただ、船は臼杵ではなく府内からしか出ないというので、我われはもう一度府内に戻らねばならないことになる。それだけでなく、ドン・フランシスコは気になることを言い出した。

 ドン・フランシスコが頼んだ船の主はとある海運業者の船頭で彦左衛門ヒコザエモンというが信徒クリスティアーノではなく、それどころか今の日本でいちばん大きな勢力となっている一向宗イッコーシューという仏教の宗派の門徒モントなのだという。

「一向宗というと摂津セッツという所に大きなテラを構えている一大勢力で、その力は強大であり、安土アヅチ織田オダ・信長ノブナガ公にとっても対抗勢力となっているくらいです。だから気がかりなのですが、今のところ出せる船はその船しかないのですよ。ま、自分で言うのもなんですが、彦左衛門は私がキリシタンということは抜きにして、ずっと昔から私を慕ってくれている人ですから大丈夫だろうと思うのですが」

 そこですかさずヴァリニャーノ師は、

「船を出して頂けるだけでも光栄の至り。あとのことはすべて『天主デウス』に委ね、お任せするのみです」

 という内容を、フロイス師に日本語で伝えてもらっていた。

 ところがさらに我われは、ドン・フランシスコから気になることを聞くことになる。

「実は皆さんが恐らく寄港するであろう塩飽シワクの宿の主からふみがまいりまして、ちょっと面倒なことになっています」

「宿の主とは、あのジョアンですか?」

 フロイス師が日本語で尋ねると、ドン・フランシスコは首を縦に振った。

 そこでフロイス師はヴァリニャーノ師や我われの方を向き、

「ジュアンとは塩飽という島の船宿の主で、八年ほど前にカブラル神父パードレ・カブラルが都に向かう途中にこの島に立ち寄った際、病気になって八日間逗留し、その間いろいろと親切に世話してくれた人です。その時にカブラル神父パードレ・カブラルから洗礼を受けて信徒になり、その後も都と豊後を船で我われが行き来するときには必ず立ち寄り、彼もまた我われにとても親切にしてくれています。私が都から豊後に来た時も塩飽で船の便がなくて困っていたら、いろいろと便宜を図ってくれましたよ。今回も当然そこに寄るつもりでおりましたが」

 と説明してくれてから、ドン・フランシスコから聞いたジュアンの手紙の内容を伝えてくれた。

 それによると、我われが瀬戸内海を通って都に向かうことが、なぜか毛利モーリ殿トノの耳に入っているという。かつて安岐アキの城に立て籠もっていた大友オートモへの反乱軍に対し、援軍として船手衆を送ってきた殿トノだ。大友の船手衆との海戦を、私が目の当たりに見たあの相手である。

 その毛利の殿の領地には、あの山口ヤマグチが含まれる。かつてフランシスコ・ザビエル師が日本での福音宣教の拠点としていた教会があった地だ。あの頃の領主は大内殿オーウチ・ドノといって、信徒クリスティアーノにはならなかったがザビエル師の布教には好意的であった。

 しかしその大内殿は家来ケライ陶殿スエ・ドノに討たれ、さらにその陶殿を討って山口ヤマグチを含む地方を今領有しているのが安芸アキの毛利殿である。

 家来が主人を討ってのし上がり、さらにその家来に討たれる…今の日本ではそのような状況が横行しているといってもいい。これを下剋上ゲコクジョーというそうだ。その毛利殿は大友を敵視しており、これまでも実際に毛利と大友は何度も戦争をしてきた。

 そんな毛利だから教会の布教を認めるはずもなく、今や山口の教会は司祭も不在で信徒だけが取り残された形になっているという。

 だから、大友の船に乗って我われが領内を通過するとなると、毛利は黙っていないというのだ。

「その宿主からのふみによると、もしその港にバテレン一行の船が寄港することがあれば直ちに捕らえよという命が毛利殿から下されたということです。だから、くれぐれも今回は塩飽には寄港しないようにとのことでありました。そこで、私は皆さんを堺まで送り届けるように命じた彦左衛門にも、毛利の領内の港にはなるべく立ち寄らぬよう、また塩飽にも寄港しないようにと指示しておきました。しかし、なにぶんにも一向宗門徒ですから心配ではありますので、皆さまもくれぐれもお気を付けください」

 そういうドン・フランシスコも心配そうであった。

 

 こうして三月になってすぐ、我われは臼杵を後にした。我われとはヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、フロイス師、ヤスフェ、昨年末に洗礼を受けた伊東ジェロニモの七人だった。

 思えば私が日本に来てから、いちばん長い時間を過ごしたのがこの臼杵の町だった。

 府内に着くと、半年ぶりなだけに府内の町がやたらと懐かしく感じられた。やはりここは臼杵と違って町並みが東西と南北の真っ直ぐな道が縦横に条理的に規格されているので、広々とした感じがした。遠くに山はあるものの平野の部分が広くて、臼杵のように山に囲まれている町ではない。

 ここで目に着いたのは、大友の殿の屋敷に隣接する教会のすぐそばに、すでに学院コレジオの建築が始まっていて、外観はほぼ完成しているといってもよかった。臼杵の修練院ノビツィアードよりも一回り大きい白亜の三階建てで、これも外観からは分からないが、総てが木でできた木造建築だった。私がかつて学んでいたゴアの聖パウロ学院コレジオに比べたら規模ははるかに小さいが、それでも周りの建物を十分に凌駕し、圧倒していた。

 こちらは今年の九月開校を目指しており、院長はすでにビルヒオール・デ・フィゲイレド師に決定していた。当面はポルトガル人修道士への日本語の講義のほかは、人文科学の講義が行われることになっている。この学院コレジオには、ポルトガル国王から多額の運営資金が下賜されることになっているという。

 今回、府内に滞在する期間は長くはないが、ヴァリニャーノ師はフィゲイレド師および学院コレジオで教学に当たることになっているかつては臼杵にいたアントニーノ師に対し、こちらもすでに臼杵から府内に来ていた養方軒ヨーホーケンパウロ老人と協力して一刻も早く日本語とポルトガル語の辞書を完成させるように指示した。養方軒パウロ老人は、臼杵で私が日本語の特訓を受けた日本人説教師だ。

 その後、すでに屋敷に戻っていた府内の殿トノ、すなわちドン・フランシスコの長男、五郎義統殿に挨拶のため、屋敷へと出向いた。前に戦争の陣中で会って以来で、屋敷で会うのは初めてだ。ここでは型どおりに、平伏している我われの前に五郎殿が現れ、

おもてをお上げください」

 のひと言で顔を上げて対面した。挨拶の言葉も本当に形通りの二言、三言で、我われに接する接し方は親子といえどもドン・フランシスコとは雲泥の差であった。

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