媒介
今居一彦
1
日が昇ってから一時間ほどたつが、外はすっきりしない曇り空に覆われ、日差しも弱く薄暗かった。大気には夜明けの涼しげな空気と、これから今にも雨が降り出しそうな予感をさせる湿気と蒸し暑さが入り混じっていた。ときどきカラスが人間の叫び声に似た奇妙な鳴き声を上げる意外には、朝の活動が始まった気配を感じさせるものはほとんどなかった。
それもそのはず、新型ウイルスの蔓延によるロックダウンが宣言されておよそ一か月。誰もが思うように外出できない日々が続き、街中ひっそりと静まりかえっている。もはやそれが当たり前の光景になっていたのだった。
「人が少し外に出ないだけで、これほど世界が変わるものか」
そうささやいたのはダイニングキッチンにたたずむ一人の男。コーヒーの入ったマグカップを片手に、眠気まなこで窓の外を眺めていた。大事そうにマグカップを持ってはいるが、たいして口にすることもなかった。男は加熱式タバコの充電が終わるのを待っているところだったのだ。
男の名前はスズキ=ユウジ。不動産会社の企画部長をしている。朝一番のオンライン部長会議の前に一息ついているところだった。ここ数日間うんざりするほどの在宅勤務を余儀なくされるなか、始業前のコーヒーとタバコは欠かせないルーティンとなっていた。
「もうすぐ梅雨か。このウイルスはいつになったら終息するんだ」
ため息まじりにそうつぶやくと、ダイニングテーブルに置いたノートパソコンの前に座った。
「パパ、おはよう」
そこに現れたのは小学五年生の息子だ。
「おはよう、ケン」
ユウジはノートパソコンを開きかけた手を止めて、ケンに応えた。
「朝ごはんはそこにシリアルがあるから。ミルクもまだあるよな?悪いけどこれから会議だから、適当に食べてくれ」
「あ、うん、わかった」
パジャマ姿のケンは大きなあくびをしてから、冷蔵庫の中を確認した。しかしたしかにミルクがあるのを見届けただけで、取り出すこともなく冷蔵庫を閉じ、父親の向かいの席についた。
「食べないのか?」
ユウジはパソコンのキーボードをたたきながら尋ねた。
「あ、うん、もう少しあとにするよ」
ケンはパソコンの背にあしらわれたリンゴのロゴマークが光を反射してテーブルの上をチラチラ動く様子をボーッと見つめていた。そしておもむろに父親に話しかけた。
「パパ?昨日の夜、蚊がいなかった?ボクの部屋に入り込んできたみたいなんだよ。足とか腕とかいっぱい刺されちゃった」
ケンはそう言うと急に思い出したかのようにふくらはぎあたりを何度かかいた。
「うん?そう?パパは大丈夫だったけど」
ユウジはパソコンの画面を見つめたままそっけなく答えた。
「パパ?」
「うん?」
「大丈夫だと思う?」
「なにが?」
「蚊に刺されて」
「ははは。なに言ってんの。蚊ぐらい大丈夫だろ。これからが夏本番だぞ。そんなこと言ってたらどうするんだ。あとで虫刺されの薬は出しておいてやるよ。変なこというな」
「うん、そうだけど。ボクが心配してるのはね?ウイルスのことなんだよ」
「ウイルス?なんで?」
「だってさ、蚊がさ、ウイルスの人を刺してさ、蚊もウイルスに感染してさ、なんていうか…『バイカイ』?つまり…だから…、うつる?うつらない?」
「え?『媒介』?蚊が?ウイルスを?いやぁ…それはどうかな…。大丈夫じゃないか?そんな話聞いたことないし…。ま、検索してみなよ。ネットで検索して出てこなければ、そんことはないってことだよ」
「検索して出てこなければホントに大丈夫なの?」
ユウジは困惑しながらイヤホンを耳にしようとしたが、ふと手を止めて、息子の質問をはぐらかすかのように言った。
「それにしても『媒介』なんて、そんな言葉よく知ってるな、おまえ」
「え?うん、この前ネットの動画でやってたんだ。それにパパもよく会議で媒介って言ってるから、それですぐ覚えちゃった」
「あー、聞いてたのか。それは同じ媒介でもパパは不動産の仕事の話だからな〜。だいぶ違うかな。あ、ごめんもう会議始まるから」
ユウジは話をたち切るように慌ててイヤホンを耳にはめた。
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