世界はエガヲで満たされる ~掌の中にある世界~ 後編
表だった交流があるわけじゃない。
会話だって少ないし、一緒に出かける事も無い。
それでも、父は家族の為に働いてくれている。
母は何だかんだと僕の心配をしてくれている。
不器用ではあるけれど、僕は家族からの愛情を感じている。
むしろ、表には出さない真心が尊い物だと思っていた。
だから、母の浮かべた笑顔。
あれは違う。
そこにはメッセージなど何もない、ただの形状。
あんな物は僕の母がするべき物では無い。
世界が笑顔で満たされますように
青く光る球体へ向けた願い。
いや、願いなんて物じゃない。
意思なんぞ微塵も籠めていない空っぽの言葉。
頭に浮かんではグルグル廻る。
回る、周る。
本当は、学校に居た時から薄々勘付いていた。
校内を満たす異常現象と、昨夜にワールドクリエーションへ向けた指令との相関性。
馬鹿げている。
そんなはずはない。
心の中でスコップを持ち、湧き上がる疑念へ土をかぶせ続けた。
僕自身にその疑念を悟らせないように。
でも、もう無理だ。
自室のドアの前でうずくまっていた僕は、両手を使って地面を這いながらベッドへと向かう。
震える下半身に檄を飛ばしてベッドへよじ登ると、すぐ隣のテーブルへ左手を伸ばす。
掴んだのは薄っすらと青く光る玉。
起動するように念じると、青はより一層鮮やかに輝き出す。
『コネクテッド。こんばんは。和人様。』
表面に浮かび上がるのは世界地図。
右手の親指と人差し指で日本の大地をズームする。
拡大される関東地方。
更にズームすると、詳細に描写されている東京。
もう一度ズーム。
映し出されたのは都心にあるオフィスビルの一部屋。
室内の時計は8時27分。
机のパソコンに向かってキーボードを叩く30人程のホワイトカラー達。
画面を覗く表情は画一化された笑顔。
球体の表面を右下へとスワイプする。
建物のネオンに照らされた大通りを行き交う車と大勢の人々。
ドライバー、スーツ姿、私服の人、男、女。
一様に浮かべているのは笑顔。
微笑みで埋め尽くされた雑踏。
「…ウッ…ウゥ…ウゥウ…」
湧き上がる悪寒は喉を遡上して嗚咽となる。
目尻から溢れる液体は頬を伝い、ベッドに染みを作る。
それでも足りず、
トイレへは行けない。部屋を出るわけにはいかない。
急いで左手の玉をテーブルへ置き、ベッドから体を起こして部屋の窓を開ける。
窓から頭を突き出して階下を見下ろすと、視線の先に映るのは誰もいない地面。
「…ウップ…ヴェェェエエエエエエエェェェ…オエッ…ヴォェェエエエェェ…」
食道の戒めを解くと、液体と固体が混ざり合った淀みが吐き出された。
口の中に広がる酸味。
数秒後に地面から響いたのはパシャッ、という粘液の着陸音。
「ハァッ、ハァッ…ハァッ…ハァ…」
全てを吐き出し終えると、窓から頭を引っ込めて鍵を締める。
悪寒は幾分か収まり、僕の体は力なくベッドへと崩れ落ちた。
目を閉じよう。
これはきっと夢の中なんだ。
悪い夢だ。
だから、夢を終らせるために目を閉じよう。
朝になれば全てが元に戻るはずだ。
僕は必死に目を閉じる
口内に残る吐瀉物が不快だが、濯ぐために部屋を出る気は起きない。
朝起きたら口臭が凄いことになっていそうだ。
それもきっと夢の中なのだろう。
朝が来れば、繰り返されてきた日常がまた繰り返されるんだ。
繰り返し、繰り返し。
だから…大丈夫…。
ジリリリリリリリリ!!!
スマートフォンのアラーム音は朝の静寂を突き破る。
ぼやけた視界の中、右手を右に、左に。
スマートフォンを掴んでアラームを停止させる。
重力の権化となった体をベッドから引き剥がし、足を地面に擦らせながら洗面所へと向かう。
歯磨きと洗顔は微睡む意識へのカンフル剤。
明確に一日が始まる瞬間。
自室へ戻り、タンスをひっくり返す。
最初に取り出したのは黒のTシャツと薄茶色のチノパン。
迷わず袖を通して黒の靴下も履いてからリビングへと向かう。
「おはよう。」
僕を見かけた母は笑顔で挨拶をする。
弾んだ虚ろな声色。
「おはようございます。」
いつも通り、僕は教育の成果を披露する。
そのまま朝食が並べられたテーブルの席へと向かう。
斜め向かいには朝食を摂りながら電子タブレットでニュースを見る笑顔の父。
テーブルの上には生温いトーストといちごジャム、キャベツの千切り、目玉焼き、リンゴが2切れ、コップと紙パックの牛乳、青く光る玉。
まずはいちごジャムに手を伸ばし、トーストへ塗ってから齧りつく。
味わうことなどせず、流し込むようにして牛乳を摂取する。
食卓を包むのは食器が当たる音と一方的に流れてくるテレビのノイズ。
ただただ食事は進んでいく。
食べ終わったお皿を流し台へ置くと、授業の準備をするために自室へと向かう。
登校バックに授業で使う教科書と弁当を入れる。
壁にかかった時計を確認すると、そろそろ出発する時間のようだ。
「行ってきます。」
誰に掛けるでもなく呟いてから自宅のドアを開けた。
僕の家は笑顔で満たされている。
あの日からちょうど1週間が経った。
今のところ、世界は問題なく回っている様に見える。
むしろ、人影のある所では笑い声が絶えず、そこかしこが和やかな雰囲気に包まれている。
行き交うサラリーマンの顔を覗けば、誰一人として例外無く希望に満ちているような笑顔を浮かべている。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、前を、今日という一日を見据えて確かな足取りで歩むホワイトカラー。
僕の未来予想図であった者達。
屍人はこの世から一掃された。
労働者は笑顔で満たされている。
フワフワした朝礼を終わらせ、1時間目は数学の授業。
50代女性吊り目の教師は屈託の無い笑顔で教鞭を取る。
その目元は本来の形が想像も付かないほどに目尻を垂らしている。
弾んだ声で指導するその姿は、かつて教室内にピリついた雰囲気をもたらしていた者とは思えない。
だが、寝ているクラスメート、ふざけているクラスメートを見つけては笑顔のまま注意する。
クラスメートたちは注意されてはたまらないので、笑顔のまま沈黙を守り、ペンを走らせる。
弛緩した緊張感。
慣れればそう悪くもない。
4時間目の授業を終らせ、僕は食堂へと向かう。
廊下を満たす笑い声のアーチを潜り抜けて階段を降りれば、食堂から発せられる音波に撃ち抜かれる。
束ねられた音波の波状攻撃は3本の矢どころでは済まない。
慌ててポケットに手を突っ込み、取り出したのは耳栓。
これを付けておかないと頭が痛くてしょうがない。
音波を防ぐ唯一の手段。
食堂へ入ると向かう先はいつものカウンター席。
爆音に包まれている周囲を意に介さず、ナプキンを広げて母の弁当を啄む。
不意に、視線を上げて辺りを見回す。
爆音を上げるスピーカーは笑顔。
ブルースやクラシックなどは流さない。
放課後の教室。
終業の挨拶をしたクラスメート達は一斉に自身のカバンへと手を突っ込む。
取り出したのは青く光る玉。
クラスメート達は一つの大きな円を作ると、それぞれの玉について笑顔で語り始めた。
片岡と進藤も随分楽しそうだ。
その様相は偶像崇拝者達が行う儀式。
笑顔に乗っている瞳は意思の光がなく、それが却って恍惚とした雰囲気を醸し出す。
人形を崇める人形達。
僕はクラスメート達を尻目に教室を抜け出した。
学校は笑顔で満たされている。
この日、僕は初めて放課後に買い物をした。
100円ショップでプラスチックの箱と鉄のシャベルを買う。
商品を物色する客、レジを打つ店員。
みんな笑顔だ。
商店街の電気屋でボイスレコーダーを買う。
老夫婦が営む小ぢんまりとしたお店。
レジでは笑顔のお婆ちゃんが僕を観察し、店の奥からはお爺ちゃんの笑い声が響く。
電気屋を出た僕は、確かな足取りで歩き始める。
右手にビニール袋を2つ持ったまま、笑顔の人混みを抜けて路地に入り階段を登る。
現れたのは人気の無い公園。
1週間前に訪れた公園だ。
僕は公園の中を歩く。
ブランコの脇を抜け、すべり台の側を通り過ぎると、目の前には大きなイチョウの木があった。
遊具だけが乱雑に置かれた公園の敷地に1本だけ聳える大きな木。
この木を囲んで近所の子供たちと鬼ごっこをする少年の姿が目に浮かぶ。
「…懐かしいな…」
呟きが漏れた。
ザッ…ザッ…ザッ…ザッ…
「よし、こんなもんでいいか。」
膝立ちになっている僕の右手には鉄のシャベルが握られている。
木の根本には先程100円ショップで買ったプラスチックのケースが入る大きさの穴。
シャベルを傍らに置くと、僕は満足して背中を木の幹に預けた。
空を見つめると、青い晴れ間には薄っすらとオレンジが刺してきている。
漂う白い雲は時が止まってしまったかのようにその場から微動だにしない。
「さてと…」
ビニール袋をガサガサと漁り、取り出したのは電気屋で買ったボイスレコーダー。
それからスクールバッグに手を突っ込み、掴んだのは青く光る玉。
一度、玉を腹の上に乗せてから、ボイスレコーダーをパッケージから取り出す。
パッケージのゴミをビニール袋の中へ突っ込むと、ボイスレコーダーの電源を入れる。
改めて周囲に人がいない事を確認する。
視界に動くものはなく、辺りを包むのは静寂。
とても心地の良い静けさだ。
気持ちを落ち着かせて小さく息を吐くと、そっとボイスレコーダーの録音ボタンを押した。
世界は僕の掌の中にある。
例え話?
そんなんじゃない。
くだらないデマ?
残念ながら本当のことだ。
ついに頭がイカれたのか?
…ははっ。ある意味そうかもしれないな。
…僕の掌にある地球で世界を見てみよう。
ニューヨークは夜の闇に包まれている。
高層マンションで眠る人、ダウンタウンのボロアパートで寝静まる人、公園のガード下にあるダンボールハウスで寝る人。
みんな笑顔で満たされている。
パリの朝は道行く人で一杯だ。
地元の人、観光客、白い人や黒い人、黄色い人、様々な人種。
みんな笑顔で満たされている。
アフリカの貧しい村。
あばら家に住む骨と皮だけの痩せこけた少年。
彼は笑顔で目を瞑る。
中東の紛争地帯。
響く銃声、轟く爆音、飛び散る肉片。
目を血走らせた彼らの笑い声が木霊している。
世界は笑顔で満たされているけど、本質的には何も変わらない。
富める者、貧しき者、争う者、喜ぶ者。
社会の抱える問題が解決した訳じゃない。
人類が前へと歩みを進めた訳でもない。
ただ、みんな笑顔なんだ。
ただの笑顔
それだけの事。
地球は今日も世界を回している。
…それで、何で僕はこんな事をしているのかなんだけど、実の所、僕自身もよく分かってない。
こんな事をした所で何かが変わる訳でもないし、世界には何の影響も及ぼさない、全く意味の無い行動だと思う。
僕は意味の無いことが嫌いだったのにね。
…1つ、理由を付けるんであれば、僕は誰かに打ち明けたかったんだと思う。
僕以外がおかしくなってしまった世界では、おかしいのは僕だから、誰にも話せなかったんだ。
そう、世界を狂わせたのは僕だって。
世界が笑顔で満たされますように。
ほんの出来心でワールドクリエーションに乗せた願いが世界中に伝播し、人々から表情を奪ってしまった。
みんなが浮かべるのは、最早笑顔では無い。
内側には様々な感情があるのに、それを笑顔でしか表せないんだ。
笑顔しか無いんだから、それを特別なものとして定義する事は出来ない。
だって、比べるものが無いから。
本来だと、僕には世界を狂わせたワールドクリエーションの謎を解き明かし、世界を正常な状態に戻す使命があるんだと思う。
パンドラの箱を開けてしまったんだから、その先にある希望を見つけるまで頑張らなきゃいけない。
でも、僕はこのボイスレコーダーと一緒にワールドクリエーションを埋めた。
ハハッ、僕には世界の救世主になるとか、そんな重たいものは抱えられないよ。
僕は平凡な日常を繰り返して、たまに小さな非日常を感じられればそれで良かった。
ただ、それだけで良かったんだ。
それに、僕は存外、この笑顔で埋め尽くされた世界を気に入り始めている。
人々は様々な感情、様々な境遇を抱えているけれど、みんな等しく幸せそうなんだ。
これは案外悪くない。
…悪くない。
だから狂わせておいて何なんだけど、世界を元に戻すとか、そういった意思は僕には無い。
…あぁ、そうか。
さっき、この行為は誰かに打ち明けたかったからと言ったけど、もちろんそれもあるけど、本当は精算したかったのかもしれない。
今までの自分を埋めて、新しい狂った世界を生きていく為の。
僕はきっかけを作りたかったのかもしれないな。
…これを聞いているあなた。
表情を取り上げられてしまったあなた。
あなたがもし、自身の笑顔を憎むのであれば、僕を殺してくれても構わない。
僕はそれを甘んじて受けなければならない業を背負っていると自覚している。
ただ、最後に1つ。もしかしたら繰り返しになるかもだけど言っておかなければならない。
世界は変わらない。
世界は変わらないんだ。
平 和人。
僕はボイスレコーダーの録音を止めた。
抱えていた悪寒が嘘みたいに散っていくのを感じる。
ビニール袋からプラスチックのケースを取り出すと、その中に青く光る玉とボイスレコーダーを入れて、地面の窪みに埋め込む。
それからシャベルで土を被せれば、何の変哲も無い地面が完成した。
「…ふぅ…生きていこう…生きて…」
僕は黄昏の空を見上げた。
僕は笑顔の世界を生きる。
世界は笑顔で満たされている。
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