アンドリュー・エドワーズの告解

 炸裂する小さな太陽が俺の網膜を焼く。

 響く銃声が耳から脳を撃ち抜く。

 鬱蒼と茂る森の中では、北は南。

 方角は導くものではなく、惑わすもの。

 ただ、足を動かし続けるしか無い。

 俺は左へ視線を向ける。

 傍らにいるのはケビン。

 厳しい現状からか、ブロンドの眉は皺を寄せている。

  

 俺達は時折振り返ってアサルトライフルを撃ちながら戦線を離脱している。

 背後から迫るのは緑の迷彩服を着た敵兵が5人。

 こっちは疲労困憊。あっちは気力充分。

 分の悪い撤退戦だ。

 …死ぬかもしれない…

 俺は覚悟を決める。

 

 不意に、俺の傍らにあった気配が消える。

 足を止めること無く振り返ると、ケビンが立ち止まって銃撃を始めていた。

 

 「行け!逃げろ!」


 ケビンは叫び、頭だけで振り返る。

 その顔は…

 その顔は…!!



 

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァ!!!」 




 男は雄叫びを上げながら鉄パイプのベッドから上半身を起こした。

 目を見開くスキンヘッドの男は、大きく息を切らせて隆起した胸板を膨縮させる。

 限界までガス交換を行う肺に使役された喉は掠れた声を漏らす。

 男の両手両足にはゴムバンドで出来た手枷と足枷。

 それぞれからチューブが伸びてベッドの支柱に固定されている。


「ハァッ…ハッ…ハッ……またか…」


 その呟きに答える者はいない。


 男は慣れた手付きでゴムバンドの手枷と足枷を外す。

 ベッドから降りて支柱の根本を確認してみれば、フローリングの凹みから数センチ程ズレているのが分かる。

 男は軽く溜息を吐くと、寝室を後にした。


 


 白い壁と茶色のフローリングに囲われた一室。

 男は木の椅子に座って朝食のトーストを齧りながらテレビのニュースを眺める。

 テレビのコメンテーターは映画俳優の不倫について真剣な表情で語っていた。

 トーストを食べ終えた男は手元の朝食へと目を見遣る。

 濃げ茶色をした木のテーブルには目玉焼きとコールスローのワンディッシュ、グラス、瓶入りのミルク。

 右手を伸ばしてミルクをグラスに注ぐと一口飲んだ。

 グラスをテーブルに置くと、食事を進める男の手が止まる。 

 視線の先には、キャビネットに乗っている写真立てに飾られた1枚の写真。

 そこに写っているのは緑の軍服を着た男と、同様の服を着た兵士たち。

 微笑む男が肩を組んでいるのはブロンドの眉と青い瞳を持つ青年。

 写真を眺めること数秒。男は軽く息を吐くと、視線を切って食事を再開した。




 レンガの外壁で出来た安アパートから男は出てきた。

 上半身に張り付いた白無地のTシャツは生き物の様に伸縮し、ブルーのデニムジーンズは下半身の筋肉をすっぽりと覆う。

 赤いスニーカーをギュッ、ギュッと鳴らしながらコンクリートの通りを3ブロックほど歩くと、地下鉄の駅へと入っていった。

 階段を降りた先には改札と券売機。

 切符を買おうとジーンズのポケットに手を突っ込めば、握られているのは10ドル紙幣が1枚。


「はぁっ、外食は無理か。」 


 男はこの日何度目かの嘆息を漏らす。


 数駅先の地下鉄駅で降りると、男は迷いのない足取りで歩を進める。

 着いたのは大通りから1本路地を入った所にある7階建ての茶色いビル。

 慣れた様子でエレベーター乗り場まで歩き、5階のボタンを押す。

 ボタン脇には『ブラウンクリニック』の文字。

 男は小気味よい到着音を鳴らしたエレベーターの中へと入っていった。




「こんにちは、エドワーズ君。調子はどうだね?」


 薄い白髪を刈り込んだ初老の男は茶色のソファに座りながら、丸眼鏡の奥から男の様子を覗き込む。

  

「ああ、今日も絶好調だよ、先生。いつものようにゴキゲンな夢で目が覚めたよ。」


 エドワーズと呼ばれた男は先生と呼んだ初老の男が座っているものと同じソファに座りながら、オーク材のテーブルを挟んで向かい側にいる先生へと答える。


「そうか、まだ続いてるのか。」


 先生はサンタクロースの様な豊かなヒゲを触る。


「ええ、もうずっとだよ先生。毎晩、毎晩。最後にぐっすり寝たのがいつだったか思い出せない程にね。」


 男は俯いた。


「そうか…」


 先生は深く息を吐くと、男をじっと見つめて彼が話し始めるのを待つ。


「先生の処方する眠剤は効いているし、安定剤も欠かさず飲んでいる。それでもあの日の悪夢が頭の中から離れてくれないんだ。」


 男は俯いたまま頭を抱えだした。


「エドワーズ君。私は先生である前に、君の良き理解者、良き隣人で有りたいと思っている。だから、もし話すのが辛くなければ、今日こそ、その夢について話してみないか?一人で抱えるのは辛くても、誰かと分け合うことで楽になる事もある。」


 先生は柔らかに微笑み、優しげな声色で問いかけた。


「……俺の居た部隊にケビンてのがいたんだ……」


 男は蚊の泣くような声で語り始めた。


「…士官学校からの知り合いで、何かと馬が合うヤツだったんです。トレーニングをサボった所がバレて一緒に罰走したりとか、プライベートでNBAの試合を見に行ったりとか。」


「エドワーズ君にとって、ケビンは友達だった。」


「ええ。アイツがどう思っていたかわからないけど、俺はアイツのことを親友だと思ってた。…あれはもう3年程前になるのか。俺とケビンでナイトクラブへ行った時に2人組の女をナンパしたんだ。その内のエミリーって女とケビンがいい感じになって、2人は付き合い出したんだ。2人の仲は順調で、2年前に婚約したってのをケビンから聞いたんだ。」


 昔を懐かしむ様に語る男は薄っすらと微笑んでいる。


「それは目出度い事だな。」


 先生も弾んだ声で男に合わせる。 


「その後、俺達のいた部隊が紛争地帯へ従軍する事が決まった。アイツらは任務を終えて国へ帰ってきたら挙式を挙げようって言ってたんだ。」


 男の表情が徐々に険しくなり、辺りに緊張感が走る。


「俺達の部隊は主に後方支援が中心で、そう危険の無い任務だった。部隊のみんなはジョークを言い合ったりして、それはもう緩んだもんだったよ。…だから、敵軍の補給基地への奇襲で俺達は散り散りになった。」


 男はひと呼吸置いてから両手を組んでギュッ、と握りしめた。


「…その時、俺とケビンはテントにある備品の管理をしていたんだ。俺達はこれから自分たちが襲われるなんて微塵も思ってなかったな。ケビンとジョークを言い合いながらレーションの在庫を数えてる時に銃声がしたんだ。最初は何かの間違いかと思ったよ。暫くしたら敵襲の叫び声と複数の銃声。俺達は慌てて銃を手にとってテントを飛び出したんだ。」


 俯きながら絞り出すように話す男の目には涙が浮かんでいた。

 

「辛かったら無理に話さなくても大丈夫だよ。」


 先生はエドワーズに無理をさせまいと、努めて優しく語りかける。


「いや、大丈夫だよ先生。…敵兵の数は多くて部隊はすぐに潰滅。俺達はバラバラになって逃げ始めた。俺とケビンは補給基地の裏手にあった森の中へ逃げ込んだ。俺達の位置からだと退路はそこしか残されてなかったんだ。でも、そんな事は向こうさんも分かっていて、森には敵の偵察兵がうじゃうじゃといたよ。それでも、上手く隠れながら森の中を進んだ俺達は、味方のキャンプ地がすぐそこの所まで来てたんだ。」


 男の全身に力が入り、脚が貧乏ゆすりのように震え始める。

 先生は男の様子を慎重に観察しながらも、沈黙を貫いた。


「…だが、そこで気が緩んだのか、俺達は敵兵に捕捉されたんだ。…俺達はひたすら走った。どこに向かっていたのかなんてわからない。ただひたすらに走ったんだ。…敵はいつでも俺達を仕留められたと思う。でも奴らは敢えて的を外したり、手榴弾を使ったりして、俺達で遊んでたんだ。…ケビンもその事に気づいてたんだと思う。…だから…ケビンは…」

 

 男の語り口に嗚咽が混ざる。


「…ケビンは…立ち止まって…銃を…構えだしたんだ。…絶対に立ち止まっちゃいけないのに。…俺は…アイツの方を振り返ったんだ…そしたら…アイツ…笑ってたんだ…」


 男は人目も憚らずに泣き出した。

 先生は大丈夫か、とか、辛かったな、と言いながら男を宥める。


「アイツ…笑ってたんだ…恨めしそうに…幸せになるはずの俺を置いてったなって…アイツ…笑顔で…俺に復讐しにくるんだ!!毎晩!!毎晩!!」


ガタッ!!


 男は勢いよく立ち上がると先生へと詰め寄り、シャツの襟元を掴む。

 目は血走り、ゴツゴツした両手はいつ首元へ廻されるかわからない。


「アイツが嗤ってるんだよ!!先生!!先生!!俺が死ねばよかったんだ!!そしたらアイツが!!嗤って!!」


「落ち着け!落ち着けエドワーズ!大丈夫だ。大丈夫。ここに怖いものは無い。」


 先生は強い口調で男へ怒鳴ると、次いで子供をあやすように優しく語りかけた。


「…あぁ…あぁ…先生…先生…俺は…俺はなんて事を…」


 力のこもっていた顔は瞬く間に情けないものへと変わり、両手を襟元から離すと膝からその場に崩れ落ちた。

 先生は大きく息を吐くと柔らかな笑顔を浮かべて男を見つめる。

 

「私は大丈夫だ。エドワーズ君。よく話してくれたね。辛かっただろう。」


 涙を流す男に答える余裕はない。

 そんな様子を見た先生は、男が落ち着くまで優しく彼を見守っていた。




「…先生…俺は赦されるのかな…」


 一通り泣き止んだ男はボソリと呟いた。


「それはわからない…だが、ゆっくりと時間を掛けて向き合えば、いずれ良い答えが見つかるかもしれん。」


 先生は努めて柔らかく語りかけるが、その声色は僅かにブレる。


「先生…今日はありがとうございました。」


 男は屈強な下半身に力を入れて立ち上がると、クリニックの待合室へ向かおうとした。


「エドワーズ君!」


 男はドアの前で先生に呼び止められ、後ろを振り返る。


「エドワーズ君。また来なさい。」


 先生は柔らかい笑みを浮かべていた。

 

 


 クリニックから帰宅し、朝食を摂った部屋へと戻った男は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、木のテーブルに置いた。

 そして、食器棚からグラスを一つ取り出すとテーブルの椅子へと腰掛けた。

 男はミネラルウォーターをグラスへと注ぐ。

 グラスに差し込んだ部屋の光は、揺れる水面に従って影を作る。

 動力を失ったミネラルウォーターは次第に波を収束させていき、終いには凪いだ水溜りを作り出した。

 男はグラスに入ったミネラルウォーターをグイッ、と飲み干すと、音を立ててグラスをテーブルの上へと置いた。

 虚空を彷徨っていた視線は一点へと向けられる。

 視線の先にあるのは写真が乗ったキャビネットの引き出し。

 男は徐に立ち上がるとキャビネットの元まで歩く。

 キャビネットの引き出しを開けると、中から取り出したのは黒い鉄の塊。

 螺旋状の溝が刻まれた筒と撃鉄を備えた鉄の塊だった。


「…もう…耐えられない…」


 呟きは静まる室内へと溶けていった。




 アパートの裏手にある屋根無しの小さな車庫。

 男は赤いハイラックスの運転席に乗り込んだ。

 助手席には数日分の食料と水が入った大きなバックパック。

 男は車の鍵を挿してエンジンのイグニッションを点火させる。

 吹き上がるエンジンを確認した男は、ゆっくりとアクセルを踏んで車庫を後にした。

 クリニックに行った時と同じ白の無地Tシャツと青いデニムジーンズの男。

 その腰元には一丁の銃が差してあった。


 


 赤のハイラックスは大通りを抜け、ハイウェイを高速走行し、ジャンクションを降りてからひたすら広大な荒野の一本道を進んだ。

 やがて日は傾き、辺りは夜の闇に包まれる。

 男は携帯食料を齧りながらハイラックスの荷台に幌を広げて寝床を作る。

 一度眠りに入れば夢遊病者のように暴れまわる男は、運転席の中で寝るのが危険だと理解しているからだ。

 シュラフを荷台に広げ終わると、バックパックから錠剤の入ったセルケースとミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。

 セルケースから夜の分の薬を取り出して口の中へと放り込み、ミネラルウォーターで流し込む。

 喉を抜ける奔流が胃へ到達したのを確認すると、男は両手両足にゴムバンドを巻きつけてから眠りについた。

 







「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァ!!!」






 男はいつものように叫び声を上げながら目を醒ました。

 太陽は地平線と被るように位置しており、辺りはまだ薄暗さを残す。

 乱れる呼吸を整えてから手足のゴムバンドを外し、ハイラックスの運転席へと向かう。

 ダッシュボードの上にあるデジタル時計は5時15分を指していた。


 男は路上で服を脱ぎ始めた。

 道端で服を脱ぎ始めるなど街中でやっては警察沙汰になるが、周囲が見渡す限りの荒野とあっては咎める者はいない。

 男は新たにグレーの無地Tシャツとインディゴのデニムジーンズを穿くと、薄暗闇の中で活動を始める。

 シュラフを畳み、荷台の幌を片付け、それから携帯食料と朝の薬を摂取する。

 全てを終わらせる頃には陽の光が大地を照らし、一日の始まりを宣言していた。

 男は赤いハイラックスのエンジンを吹かす。

 静止画のように動くもののない荒野において、唯一の赤い動的物体は地平線の果てを目指す。

 



 州の北東にある閑静な住宅街。

 軒を連ねる白い外壁の一軒家を彩るように植えられた街路樹。

 赤いハイラックスはその内の一本を目印にして車を停車する。

 車から降りた男は目的の一軒家へと目を向けた。

 周囲の物と同じく白い外壁をした一軒家。

 短く刈り込まれた芝が敷かれた庭には、主を待つかのように放置されているプラスチックのロッキングチェア。

 その庭を囲う様にして立てられた木の柵と入り口脇の柵に括り付けられた赤い郵便ポストと標札。

 そこにはケビン・パークスとエミリー・パークスの文字。

 

 男は家の敷地へと入っていき、茶色いドアの前に立つ。

 そして、恐る恐るインターホンのスイッチを押した。

 ベルの音と暫しの静寂。


「はい。どちら様ですか?」


 男はインターホンから聞こえる声に動揺する。

 ゴクリと生唾を飲み込み、そして意を決したように声を発した。


「…俺だ…アンドリュー・エドワーズだ。」


 数秒の沈黙。


「……嘘…ほんと?ほんとにアンディなの?」


 インターフォン越しに聞こえる声は驚きに満ちていた。


「…あぁ…俺だ…アンドリュー・エドワーズだ。」


 男は再度、震える声で答えた。


 インターフォンは再び沈黙する。


「……ちょっと待って。今行くわ。」


 インターフォンはプツリと音を立てた。

 数秒後、ドアが開く。

 出てきたの緑の瞳を潤ませ、薄い唇を震わせたエミリーだった。


「アンディ…良かった…本当に生きてたのね。何の連絡もないから心配したのよ。…さぁ、中に入って。」


 男は緊張した面持ちで玄関の中へ入ろうとした。

 その時、エミリーの顔へ向けていた視線がお腹へと向く。


「エミリー。お前、そのお腹…」


「えぇ、あの人の子よ。もう8ヶ月になるわね。」


 エミリーはお腹を撫でながら廊下の奥へと歩いていった。




「ちょっとそこで座ってて。今コーヒーを入れてくるわ。」


 エミリーはキッチンの奥へと消えていった。

 リビングのソファに座りながら、男は室内を眺める。

 白い壁にはカレンダーが貼られ、テーブルの上にはオレンジ色の花が挿された花瓶が置かれている。 

 男は更に室内を眺めていると、彷徨わせていた視線が一点で止まった。

 部屋の壁際にある本棚の上。

 そこには額縁に飾られた一枚の写真があった。

 写っているのは笑顔のエミリーとはにかんだ顔のケビン。

 湖をバックにした写真だった。

 

「お待たせ。コーヒーとお菓子よ。…あぁ、その写真はあの人とヨセミテに行った時に撮った写真よ。」


 エミリーはコーヒーカップとお茶菓子の入ったお盆をテーブルの上に置いた。

 男はエミリーの説明が耳に入っているのかいないのか、曖昧な様子で写真を見つめていると、エミリーの方へ向き直った。


「済まない、エミリー。本当はもっと早く来るべきだったんだが、どうにも決心が付かなくてな。」


 男はコーヒーに口をつけた。


「大丈夫よ。あなたも辛かったでしょうから。」


 エミリーは男とテーブルを挟んで反対側のソファに腰掛けた。

 互いにするべき話題を口に出来ず、暫し流れる沈黙。

 その沈黙を破ったのはコーヒーカップをテーブルへと置いたエミリーだった。

 

「…大体の事は軍に聞いたけど…その…ケビンは…最後はどうだった。」


 恐る恐る口にするエミリーに対して、男は両手を組んで話し始めた。


「…とても勇敢だった。…アイツは俺を逃がすために身を挺して戦ったんだ。…でも、多分アイツは俺の事を恨んでると思う。」


「そんな事ないわよ。あの人はそんな人じゃない。それはアンディも分かってるでしょう。」


 エミリーは強い眼差しで男を見据える。


「…アイツ、最後笑ってたんだ。…アイツは婚約者もいて、幸せが目の前にあって、それでも俺を庇うために自ら身代わりになって。…死んだほうがいいのは俺だったのに。」


「アンディ…」


 エミリーは二の句を告げられずに俯いてしまう。

 再び流れる沈黙。

 そして、静まった空間を打破したのはまたしてもエミリーだった。


「…それは、貴方に生きて欲しかったからよ。アンディ。…だから、あなたが死んだほうが良いなんて言ったら、ケビンが怒るわよ。」


 男はハッとしてエミリーの方を向く。


「ケビンにとってあなたはそれだけ大事な人だったのよ。アンディ。だから、死んだほうが良いなんて言わないで。」


 エミリーは静かに呟く。


「…でも…俺は…アイツは…」


「大丈夫よアンディ。あなたは悪くないわ。あなたは悪くない。それに、私は大丈夫よ。だってお腹にはあの人の赤ちゃんがいるんだから。」


 エミリーは丸々としたお腹を擦る。


「…エミリー…俺は赦されるべきじゃないんだ。俺は責められるべきなんだ。俺は、アイツの幸せを奪ってまでのうのうと生きる事に耐えられないんだ。」


 男は目に涙を浮かべている。


「アンディ。私は最初から貴方を責めるつもりはないわ。むしろ、勝手に死んだあの人に文句を言ってやりたいわよ。子供も出来たのに、何で帰ってこなかったんだって。でもね、あの人らしいと言えばあの人らしいし、今のあなたがそんなに苦しんでいてはあの人も天国で心配するわよ…だから大丈夫なのよ。アンディ。」


「ウッ…ウゥ…ウゥ…」


 リビングには男のすすり泣く声が響いた。

 エミリーはそんな男を優しく見守っていた。


 


「エミリー。今日はありがとう。」


 目を腫らした男は玄関先で声を掛ける。


「大丈夫よアンディ。何かあったらまたいらっしゃい。まぁここまでは遠いと思うけど。そうね、赤ちゃんが産まれたらあなたに見てほしいから、少なくともその時には連絡するわ。」


 互いに挨拶を交わすと、男は赤いハイラックスへと歩いていった。 

 運転席のドアを開け、シートに座った男の顔は晴れ晴れとしたものだ。


「…今日は良く眠れるかもしれないな。…」


 男は目を瞑りながら口元を僅かに緩ませて呟く。

 瞼の裏には、一点の曇りも無い笑顔のケビンが映っていた。

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