雪を溶く熱

雨野愁也

来訪

 「はあ……はあ……」


 霧雨が降りしきる夜、肌を突き刺すような厳しい冷気の中、俺は白い息を吐きながら、目的地への道を急いでいた。


 傘を持つ手の感覚がだんだんなくなってきた。今の気温は零度を下回っているんじゃないだろうか。骨の髄まで冷え切ってしまいそうだ。


 目の前を白いものがチラチラしたのに気づいてふと顔をあげると、いつの間にか雨が雪に変わっていた。……この雪は水分量が多いな。さっきまで雨が降ってたから、積もるかは分からないが、用を済ませたら早く撤収しよう。


 雪、か。子どもの頃は好きだった。雪が降った時には、それはもう大喜びで、みんなで雪合戦したり、かまくら作ったりしたなぁ。そうだ、いつもムッツリしてたあいつですら、その時ばかりははしゃいでたな。


 ……などと、とりとめのないことを考えながら、俺は歩きに歩いた。


 俺はもうすぐ、旅に出る。当てもない旅だ。……こんなことを言うと、何言ってんだこいつ、と思われそうだが、本当にそうなのだから、それ以外言いようがない。


 俺は半月ほど前に、4年勤めた会社に辞表を出した。今は旅支度を進めているところだ。辞めてから今まで何してたかっていうと……まあ、いろいろあってな。


 俺は、幼馴染の美冬みふゆに会いに来たのだ。


 美冬とは小学校に入る前からの付き合いで、小さい頃はよく一緒に遊んだ。単純に家が近かったからという理由だったが、俺は結構美冬と遊ぶのが好きだった。普段はクールなあいつだったが、勝負に負けると本気で悔しがった。あいつの今にも泣き出しそうな顔が可愛くて、それが見たいがために、俺はついからかってしまった。……そのせいで嫌われたのかもな。


 中学に入ったら、なぜかあいつは俺と口を利いてくれなくなった。廊下ですれ違っても、目が合っても、すぐに顔を背けられてしまうようになったのだ。絶対俺に原因があるんだろうとは思ったが、具体的に俺の何がまずかったのか分からなかった。かといって、呼び止めて直接訊く勇気もなかった。泣き虫とか言ったのが気に入らなかったのか、それともふざけてあいつのノートに落書きしたのが悪かったのか……要するに、心当たりがありすぎたのだ。結局何もできないうちに、月日は過ぎて、俺たちは疎遠になってしまったのだ。


 ……あの時、もし俺があいつと腹を割って話せていたら、今頃もうちょっとまともな関係が築けていたのかな。今となっては分からないけど。


 そんななのに、なんで俺が今更美冬に会おうとしているのかというと、どうしてもあいつに渡しておきたい物があるからだ。あれを返さない限り、俺の気持ちは晴れることはないだろうから。


「冷てっ!」


 傘についていた雪が落ちてきて、俺の頰に触れた。ぞくっとするほど冷たかった。……当たり前だけど。そういや、あいつと初めて会った時も、雪が降ってたっけ。


 美冬が近所に引っ越してきたのは、俺とあいつが4歳の時だった。俺は新しい隣人が気になって、好奇心の赴くまま、雪の中を飛び出していった。真っ白な雪がはらはらと降る中、俺は美冬と出会った。その時のあいつは、雪に溶け込みそうな白いコートを着ていて、赤い頰がそれと対照的でよく映えたのを覚えている。


 初対面が雪の中だったことや、名前に「冬」が入っていることもあって、俺はいつしか、雪が降ると美冬のことを思い出すようになった。あと、美冬は、無口なくせに一度口を開けば毒舌で、ちょっと目つきが悪かったから、陰で「氷の女王」とか呼ばれていた。俺流にアレンジするなら、「雪の女王」ってところだけど。でも美冬は悪い奴じゃない。ちょっとコミュ障気味なだけで。


 ……最後に会った時から随分時間が経ってるから、あいつ、変わっちゃってるかもな。男子三日会わざれば刮目して見よって言うけど、それはむしろ女子に対して使うべき言葉なんじゃなかろうか。女子の方が成熟早いって言うし。


 何だかんだ考えつつ、ようやくあいつの家に着いた。緊張と寒さで震える指で、インターホンのボタンを押す。


「すみません。草野くさの美冬さんはいらっしゃいますか? あ、僕は昔近所に住んでいた斎藤さいとう秋人あきひとと申します」


と、簡潔に用件を伝えた。


「……少々お待ちください」


 インターホン越しにハッという声が聞こえ、少しの間の後、そう返事があった。女性の声だった。もしかしたら応対したのは美冬本人かもしれないな、となんとなく思った。


 数分後、ガチャリと音がして、おもむろにドアが開いた。中から、いぶかしげな顔をした女性が顔を出した。


 間違いなく美冬だった。最後に会ったのは中学の卒業式だったが、それから10年以上たった今も当時の面影がはっきりと残っている。人懐っこさとはあまり縁のなさそうな、ジト目が特徴的な顔だ。長い黒髪が顔に一房かかっている。


「……秋人?」


 美冬は、驚いたような、怪しむような声を上げると、手で軽く髪を払いのけて俺の顔を凝視した。


「そうだよ、俺だよ。美冬、久しぶりだなー! 急に押しかけてごめん。元気にしてたか?」


 俺は美冬の警戒心を解こうと、なるべく明るい口調を心がけた。


「……なんで……」

「実を言うと、俺、もうすぐ旅に出るんだ」


 なんかいろいろ聞かれても面倒なので、俺は単刀直入に本題に入る。美冬は目を見開き、口を半開きにしたまま、その場に硬直している。……まあ、無理もないか。全然会ってなかった奴が突然来たんだからな。


「それでさ……その前に、どうしてもお前に渡したい物があって」

「……」


 美冬は黙ってうつむいている。そして何を思ったか、美冬はいきなり俺の手を取った。


「ちょ、おま、急に何だよ?」

「……冷たい」

「いや、当たり前だろ。この寒い中来たんだからさ」

「……そうね」


 美冬はしばらく俺の顔を見つめ続けた後、そっと俺の手を離した。


「……冷えるでしょ。中入る?」

「いや、いいよ。長居しないから」

「……そう」


 用事を済ませたらすぐに帰るつもりだったから、俺は美冬の申し出を断った。


「……で、渡したい物って何?」

「そうそう、これだよこれ!」


 俺は急いでポケットに手を突っ込み、中の物を取り出して、美冬に見せた。


「ほら、これ。見覚えないか?」

「……これは」


 美冬はそれをじっと見て、


「……『魔女っ子リリィ』の……」


と、一言だけ呟いた。


 それは、昔流行ったアニメのキャラクターが描かれたペンダントだった。


「あはは、そんな名前だったっけこのキャラ? よく覚えてんなー」

「これ、確かあんたが私から盗ったやつよね?」

「いや、盗ったってそれは言い方が悪すぎるだろ! 小さい頃ふざけて取り上げただけだって……」


 美冬に睨まれたので、俺は口をつぐんだ。


「……こんなの、わざわざ返しに来たの?」

「ああ。今はどうだか知らんが、少なくとも当時のお前にとっては大切なものだったんだろ? あと……俺、お前に謝りたくてさ」

「……?」

「……中学の時から、お前俺と口利いてくれなくなったろ? それ、やっぱ、俺がお前のこと散々からかったからだよな……? ……お前に嫌な思いさせちまったよな。悪かった。ごめん」


 やっと言えた。うまい言葉は見つからなかったけど、言いたかったことは言えた、と思う。ずっと胸につかえていた物が消えていくような感じがした。あとは美冬の返事を待つのみだ。どんな言葉をかけられても、全部受け入れるつもりだった。


「……何言ってんのよ、あんた」


 ややあって、美冬は、俺の目を真っ直ぐ見て言った。声が震えていた。……お、怒ってんのか? 思わず身構えた。しかし、彼女の反応は意外なものだった。


 彼女の目に、見る間に涙がこみ上げてきたのだ。


「……違うわよ。私は……あんたのこと、ずっと……」


 それだけ言うと、美冬はまた黙ってしまった。


「み、美冬? どうした……?」

「とにかく!」


 急に美冬が大きな声を出したので、俺はびっくりして「な、何!?」と叫んでしまった。


「……私は、あんたのこと嫌だって思ったことはないわ。ただ……話しかけづらくなっただけ。あんた、いつも多くの友達に囲まれてたから」

「美冬……」


 そうだったのか。それにしては、すごい勢いで避けられてた気がするんだが……。


「……そうか。なら良かった。もう許してもらえないのかと思ったからさ」


 俺はホッとした。思わず頰が緩んだ。


「じゃ、俺、もう帰るよ」

「えっ……もう?」

「ああ。元気でな」


 そう言って俺は、美冬の手にペンダントを乗せた後、美冬に背を向けた。


 これでいい。もう俺に、思い残すことは何も……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る