きょうだいの海
王子
きょうだいの海(改稿版)
見慣れたはずの道もこの時間に歩いてみると、なんだかそわそわする。早朝の空気はみずみずしくて、出会うたびによそよそしい気持ちにさせられる。
隣を歩く
「そんなに言うほど、いいところじゃないよ、きっと」
「ここよりはいいところだよ、絶対。だから
つま先をにらんでポツリとこぼし、ふてくされている。中学校生活も二年目に入ったというのに、不機嫌なふくれ面は幼い駄々っ子そのものだった。
「しかたないでしょ」
言ってから、何がしかたないのだろうと思う。
何かを取って、何かを捨てる。誰もがやっている繰り返し。私は海を知るために陸を離れる。ただそれだけのことなのに。でも選んだのは私自身で、杜月はそれが気に入らないのだろう。
「僕はまだ学校に行かなくちゃいけないのに」
幼いとき水族館で交わした約束を思い出した。
初めて見た海の生き物たちは、陸をせかせかと動き回る私達を笑うように、穏やかな世界を
私はクラゲやイルカやイワシの大群を胸に大人になった。陽光に温められた水面を、耳を澄ませば聞こえる静けさを、触れればひやりと伝わる鱗の波を、ようやく手にすることができる。杜月だって大きな水槽を抱え続けてさえいれば、いつかは。
「約束は守りたいよ。だけど杜月はまだ……」
海の中は常に平等なのに、こちらの世界は違う。未熟な命は守られる。守られなければならない。
きょうだいのいない杜月とは、家が違うだけで、実の
駅のホームは音も無く私達を待っていた。
伝えておきたい言葉で満ちているのに、音に変えるところで泡と弾けて消えていく。十分に酸素が溶けていない水槽は、きっとこんな心地だ。
「澪ちゃん」
杜月はズボンのポケットから引っ張り出したものを、私に差し出した。
「これあげる」
私の手に乗ったのは、銀色の、チェーンがついた星型のペンダントだった。規則正しく頂点を張り伸ばした形はまるで……、
「ヒトデみたいだったから、好きかと思って」
やっぱり私達は似た者同士だ。いつでも海を想っている。
「今日、ホワイトデーなんだよ。感謝とお返しの日」
お別れの日だから、じゃなくて。
「バレンタインのお返し? ありがとう」
「それだけじゃなくて、今までの」
「今までのって」と
地についていた両足が、ふっと地面からの反発を失った。
耳に詰め物をしたように音は遠ざかり、かすかに頬をなでていた薄ら寒い風は途絶え、ぴたりと張り付くように冷たい液体が全身を包む。改札へ続く階段も、待ち合い用のベンチも、終わりの見えないレールも、青い揺らめきの中で少しずつ形を歪ませる。
海だ。私は今、海の中にいる。
杜月もまた、ふいに訪れた海水に身を預けていた。手足を引き寄せて丸くなり、目をぎゅっと閉じた姿は、まるで胎児だった。手を伸ばして抱き寄せると、杜月はゆっくりと目を開けた。
下り方面の線路上に、白く小さな光がぼんやりと見える。それが徐々に膨らんでいくのを見ているうちに、光はこちらに向かって近付いて来ているのだと分かった。
「澪ちゃん、あれ」
杜月の口から泡がぽこぽこと立ちのぼって、声が波紋を広げるように反響した。息を止めていた私は、それでようやく呼吸できるのだと気が付いた。
二人で手をとって見つめる先、線路に沿って押し寄せる光は、近付くにつれて輪郭がはっきりしてくる。
「シロナガスクジラだ」
杜月のつぶやきに
地球上のあらゆる動物の中で最大の種。個体によっては十一階建てのビルにも相当するという。
巨大な体は青白い光を放ったまま、
平たく
通りすがりに私達を
新幹線に似た流線体はゆったりとくねる。水の抵抗など露ほども感じさせない表皮。細長い胸びれが私達を照らしてはためく。腹はわずかに黄みを帯びていて、一面青だった空間にくまなく
まばゆいシロナガスクジラを送り出したホームは、あるべき姿を取り戻していた。
膝から力が抜け、その場に座り込んだ。服が汚れるのも気にならないほど、高鳴る鼓動を抑えるのに精一杯だった。
杜月は、横で仁王立ちしていた。もう見えなくなったクジラの軌跡を目に焼き付けるように。杜月の背中はこんなにも
「クジラが海を連れてきたんだ」
その目を覗き込めば、まだクジラの残光が見えるような気がした。
ふいに痛みが走って手のひらを開く。強く握りしめられていた、銀のヒトデ。
――感謝とお返しの日。
――それだけじゃなくて、今までの。
「澪ちゃん、これからは自分のことを気にかけてね。僕はもう大丈夫だから」
はたと気付いた。杜月はもう、あちらの世界へ行けるのだと。その資格があるのだ。クジラはそれを告げに来たのではないか。近すぎたせいで、気付けなかったのかもしれない。私よりも大いなる存在である海が、杜月を呼んでいる。
カンカンカン、と警報機が、一本目の上り列車が近付くことを知らせた。
跳ねるように立ち上がり、杜月を胸に抱きしめる。細い体の中心に確かな鼓動、呼吸。ひやりとした肌の下を巡る血液の熱。また会えるとしても、こうしてやれるのは、きっとこれで最後だ。杜月は海に認められた。いつまでも子供扱いするのは
私のヨットは、二百日か三百日か、それかもっと長いこと海を駆ける。杜月にも同じ時間が流れ、いつしか子供の殻を脱ぎ捨てる。大切にしまっていた水槽を掲げて、「あちらの世界が見たい」と叫ぶだろう。腕の中の体温がそれを証明している。
同じ青をクジラと泳ぎ、同じ海でつながった弟。どうか、今だけは守られていて。
銀のヒトデをコンパスにして、いつか必ず迎えに来るよ。
きょうだいの海 王子 @affe
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