きょうだいの海‪

王子

きょうだいの海(改稿版)

 見慣れたはずの道もこの時間に歩いてみると、なんだかそわそわする。早朝の空気はみずみずしくて、出会うたびによそよそしい気持ちにさせられる。

 隣を歩くづきがやけに饒舌じょうぜつなのもなくて、胸のあたりがむずがゆかった。

「そんなに言うほど、いいところじゃないよ、きっと」

 さえぎると、杜月は早口でまくしたてていた海原への空想を飲み込んで「そうかなぁ」とうつむいた。

「ここよりはいいところだよ、絶対。だからみおちゃんは行くんでしょ」

 つま先をにらんでポツリとこぼし、ふてくされている。中学校生活も二年目に入ったというのに、不機嫌なふくれ面は幼い駄々っ子そのものだった。

「しかたないでしょ」

 言ってから、何がしかたないのだろうと思う。

 何かを取って、何かを捨てる。誰もがやっている繰り返し。私は海を知るために陸を離れる。ただそれだけのことなのに。でも選んだのは私自身で、杜月はそれが気に入らないのだろう。

「僕はまだ学校に行かなくちゃいけないのに」


 幼いとき水族館で交わした約束を思い出した。

 初めて見た海の生き物たちは、陸をせかせかと動き回る私達を笑うように、穏やかな世界を揺蕩たゆたっていた。アクリルガラスをへだてた向こう側はすぐに手が届きそうなのに、子供だった私達には触れることができなかった。手に入らないものを欲しがるのは子供の特権で、「いつか二人で、あっちの世界へ行こう」と密かに誓いを立てた。


 私はクラゲやイルカやイワシの大群を胸に大人になった。陽光に温められた水面を、耳を澄ませば聞こえる静けさを、触れればひやりと伝わる鱗の波を、ようやく手にすることができる。杜月だって大きな水槽を抱え続けてさえいれば、いつかは。

「約束は守りたいよ。だけど杜月はまだ……」

 海の中は常に平等なのに、こちらの世界は違う。未熟な命は守られる。守られなければならない。

 きょうだいのいない杜月とは、家が違うだけで、実の姉弟きょうだいのようだった。杜月の膜は透き通っていて、驚くほど薄い。私の庇護ひごが無かったら、真っ暗な世界につながる大魚の大口で、丸呑みにされていたに違いない。いつもそうするように、声をこらえて大粒の涙をこぼす間も無く。今だってそうだ。潮の流れが気に入らないからと、いじけていられるほど海は穏やかではない。海は心の弱い者を見逃さない。心が未熟な者を許しはしない。あちらの世界に足を踏み入れるには、資格が要るのだ。


 駅のホームは音も無く私達を待っていた。

 伝えておきたい言葉で満ちているのに、音に変えるところで泡と弾けて消えていく。十分に酸素が溶けていない水槽は、きっとこんな心地だ。

「澪ちゃん」

 杜月はズボンのポケットから引っ張り出したものを、私に差し出した。

「これあげる」

 私の手に乗ったのは、銀色の、チェーンがついた星型のペンダントだった。規則正しく頂点を張り伸ばした形はまるで……、

「ヒトデみたいだったから、好きかと思って」

 やっぱり私達は似た者同士だ。いつでも海を想っている。

「今日、ホワイトデーなんだよ。感謝とお返しの日」

 お別れの日だから、じゃなくて。

「バレンタインのお返し? ありがとう」

「それだけじゃなくて、今までの」

「今までのって」とたずねた瞬間、妙な感覚にとらわれた。

 地についていた両足が、ふっと地面からの反発を失った。

 耳に詰め物をしたように音は遠ざかり、かすかに頬をなでていた薄ら寒い風は途絶え、ぴたりと張り付くように冷たい液体が全身を包む。改札へ続く階段も、待ち合い用のベンチも、終わりの見えないレールも、青い揺らめきの中で少しずつ形を歪ませる。

 海だ。私は今、海の中にいる。

 杜月もまた、ふいに訪れた海水に身を預けていた。手足を引き寄せて丸くなり、目をぎゅっと閉じた姿は、まるで胎児だった。手を伸ばして抱き寄せると、杜月はゆっくりと目を開けた。

 下り方面の線路上に、白く小さな光がぼんやりと見える。それが徐々に膨らんでいくのを見ているうちに、光はこちらに向かって近付いて来ているのだと分かった。

「澪ちゃん、あれ」

 杜月の口から泡がぽこぽこと立ちのぼって、声が波紋を広げるように反響した。息を止めていた私は、それでようやく呼吸できるのだと気が付いた。

 二人で手をとって見つめる先、線路に沿って押し寄せる光は、近付くにつれて輪郭がはっきりしてくる。

「シロナガスクジラだ」

 杜月のつぶやきにうなずいた。私にも、そう見えた。

 地球上のあらゆる動物の中で最大の種。個体によっては十一階建てのビルにも相当するという。

 巨大な体は青白い光を放ったまま、またたく間にホームに滑り込んだ。

 平たくとがった頭が、眼前を横切っていく。

 通りすがりに私達をいちべつした瞳は、全長と比べれば不釣り合いなほど小ぶりなのに、何者も拒まない優しさをたたえていた。まぶたの奥に、つるりとした半球。人間と変わらない目。そうだ、クジラは哺乳類だ。陸に住む同族を珍しげに、あるいはびんに思って見つめているのかもしれない。この世界の中心が海なのは遥かいにしえから変わらない。クジラからすれば、陸地なんて新たに生まれたちっぽけな棲家に見えるだろう。

 新幹線に似た流線体はゆったりとくねる。水の抵抗など露ほども感じさせない表皮。細長い胸びれが私達を照らしてはためく。腹はわずかに黄みを帯びていて、一面青だった空間にくまなく琥珀こはく色の粒子を降らせる。

 ゆうに三十メートルはあろうかという発光生物の末端で、幅の広い尾びれがひと打ち。さらに深く潜ろうとするように速度を上げて、悠然と泳ぎ去って行った。

 まばゆいシロナガスクジラを送り出したホームは、あるべき姿を取り戻していた。

 膝から力が抜け、その場に座り込んだ。服が汚れるのも気にならないほど、高鳴る鼓動を抑えるのに精一杯だった。

 杜月は、横で仁王立ちしていた。もう見えなくなったクジラの軌跡を目に焼き付けるように。杜月の背中はこんなにもたくましかっただろうか。

「クジラが海を連れてきたんだ」

 その目を覗き込めば、まだクジラの残光が見えるような気がした。

 ふいに痛みが走って手のひらを開く。強く握りしめられていた、銀のヒトデ。

 ――感謝とお返しの日。

 ――それだけじゃなくて、今までの。

「澪ちゃん、これからは自分のことを気にかけてね。僕はもう大丈夫だから」

 はたと気付いた。杜月はもう、あちらの世界へ行けるのだと。その資格があるのだ。クジラはそれを告げに来たのではないか。近すぎたせいで、気付けなかったのかもしれない。私よりも大いなる存在である海が、杜月を呼んでいる。

 カンカンカン、と警報機が、一本目の上り列車が近付くことを知らせた。

 跳ねるように立ち上がり、杜月を胸に抱きしめる。細い体の中心に確かな鼓動、呼吸。ひやりとした肌の下を巡る血液の熱。また会えるとしても、こうしてやれるのは、きっとこれで最後だ。杜月は海に認められた。いつまでも子供扱いするのはごうまんというものだ。

 私のヨットは、二百日か三百日か、それかもっと長いこと海を駆ける。杜月にも同じ時間が流れ、いつしか子供の殻を脱ぎ捨てる。大切にしまっていた水槽を掲げて、「あちらの世界が見たい」と叫ぶだろう。腕の中の体温がそれを証明している。

 同じ青をクジラと泳ぎ、同じ海でつながった弟。どうか、今だけは守られていて。

 銀のヒトデをコンパスにして、いつか必ず迎えに来るよ。

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