セカイには、もう彼女はいない

辻野深由

A.D 12/31/2822(65534th time)

 大晦日の寒空に瞬く無数の星辰せいしんを見上げ、ロックは紫煙しえん混じりの溜息をこぼした。


この年の瀬、永遠の冬を抱え込んだ東京の片隅にある霊園の入口に人影などあるはずもなく、あたりは不気味なまでに静まりかえっている。


 身も凍るような冷気をはらんだ空気に煙草の煙を燻らせながら、切れかかった街灯を頼りに霊園へ踏み入る。数分かけて墓標に辿り着くと、吸いかけの煙草を携帯ケースに捨て、喉を奥から搾り出すような声で語りかけた。


「……よお」


実妹――イヴは、この極寒を吸い込んだかのように冷たく鎮座していた。


わずかに積もった名残雪を払い、かじかんだ手で黒曜石の墓標を撫でてやる。


「元気にしてたか? 俺はなんとかまっとうにやってるよ。この一ヶ月は本当に面白みがなかった。久々にアメリカまで足を伸ばしてみたんだが……だめだ、観光地はどこも閉店休業、そうでなけりゃどこもかしこも荒らされちまってて、とてもじゃないが観光気分に浸るなんて真似はできなかった。もしかすると、ずっと昔に似たような話をしてやったかもしれねぇな……。まぁ、なんだ、飽きずに聞いてくれよ」


 凍てつく寒さの只中で、ロックは他愛もない土産話に興じる。


 イヴが亡くなったのは一年前、クリスマスイヴの夜だった。


 鮮血で染まったブラウンのニットと純白のフレアスカート姿は、助かりようがないことを物語るには充分で、ロックはあの日以来、イヴを見放した運命とやらが嫌いになった。


 あの凄惨な事件が一年前という事実が嘘のようだ。

 この胸を締め付ける深い悲しみも絶望もいまだに色褪せてはくれない。


「そうだ……あっちのブルワリーでワインを買ってきたんだ。飲ませてやるよ」


 ボトルを空け、薄緑色マスカットの発酵酒を静かに垂らしていく。黒曜石に張り付いていた雪がぱちぱちと弾ける音を立てながら緩慢に溶けていく。


 未成年のままこの世を去ったイヴは葡萄や林檎といった果物が好物だった。果物を備えると霊園を寝床にする烏たちに持って行かれることを覚えてからは、形の残らないものを備えるようにしている。


「本当なら、お前と酒盛りをしてみたかったんだがな……」


 最後の一滴を注ぎ終え、叶わぬ願いを口にする。


 空になったボトルを置いて、墓標にもたれかかると、夜空を見上げた。


「……お前が生きようとした世界は、窮屈で、退屈で、つまらない」


 ――私のぶんまで、生きて。


 死の間際にイヴが放った懇願のろいは、いまもロックを現世に縛り続ける。


 おかげで、生きている価値など微塵もない世界にあって、ずっと死に損なったままだ。


「俺も、そっちに行きてぇな……」


 ここに来る前に一杯引っ掛けてしまったせいで、心の箍が緩んでいるの自覚してなお、叶わぬ願いを口にするのが止められない。


「まぁ、どうあがいたって死にきれないんだけどよ……」


 この世界では、死んでも死んでも死にきれない。


 無限に繰り返される永遠の十二月という時の牢獄に、全人類が囚われてしまった。


 人類は栄華と繁栄のため、神の権能という禁忌に手を伸ばし、世界の秩序を破壊した。


 倫理はとうに失われ、輪廻からの解脱を夢見た宗教集団が次々と無意味に自殺していく。

 法を遵守する者は少数派となって、誰も死を怖れず、厭わなくなった。


 イヴが必死に縋り付こうとした世界は、繰り返される歳月のなかで穢れてしまった。


 生きている価値など微塵もない。

 けれど、死ぬことは許されない。


 この世という地獄に縛り付けられたまま、クソッタレな生を謳歌し、大晦日にこうしてイヴの眠る場所へ土産話をもってくることだけが、ロックにできることのすべてだった。


「…………っ、きたか」


 唐突に目が眩んだ。幻覚に囚われたように、視界が極彩色に塗り染められはじめる。唐突に襲いかかってきた耳鳴りと頭痛に、ロックはこめかみを押さえ、苦虫を噛み潰したような顔をして紺碧の空を仰ぐ。


 どうやら巻き戻りまで一時間を切ったらしい。五感を襲う違和感はその兆候だ。無限の色彩を宿したオーロラが闇夜を切り裂いて世界を幻想的に染め上げる。幾度となく繰り返される世界の輪廻。そして胸に込み上げてくる虚無感。


 世界はまた、繰り返すのだ。

 まったくもって、嫌になる。


「……じゃあな。またくるよ」


 ロックは立ち上がり、ふらつく足取りで墓地を後にする。


 墓地に面した自然公園では、大晦日だというのに、いつもと同じように大々的で仰々しい会合が催されていた。目深なフード付きのコートを羽織った白装束の連中が熱心に祈りを捧げている。


「ああ、我らが神の堕とし子、レフィクール様。新たなる輪廻に祝福を」


「次こそは必ずや、理想郷への誘いを、我らに」


「新たなる輪廻の到来を祝福しよう。我らに神託のあらんことを」


 一心不乱に祈祷する彼らの視界に揺らめくのは、天上のカーテンが織りなす極彩色と、天を裂く一条の光の柱。


 あの光に導かれて天へ昇った者は、永劫に輪廻するこの地獄から解脱することができる――誰かが言い出した世迷い言は、いつしか教えとなり、長い年月をかけて信仰となった。


 くだらないと一蹴していた同胞や古い付き合いの仲間が、日を追うごとにロックの前から姿を消した。宗旨替えしたのか。あるいは信仰に飲まれたのか。そうでなければ、このクソッタレな世の中に嫌気がさしたのかもしれない。


 終わりなき一ヶ月を何万回も繰り返していれば、根も葉もない教えに救いを見出してしまうことは、なんらおかしなことではない。ましてその教えそのものが、この世界じごくからの解脱であるならば、なおさらに。


 こころや精神の強さなんて尺度で人間強度が測れるというのなら、怪しげな宗教といまだに相容あいいれないロックはとうに人間を辞めているに等しい強度を兼ね備えている。それもひとえにイヴが遺していった懇願のろいのせいだ。


 だが、そんな強靱さは、生きる上でなんの役にも立ちはしない。

 明日を生き抜く糧にはなり得ない。


 気を狂わせ、宗教にのめり込み、ありもしない赦しと救いに全霊を捧げることができたのなら、どれだけ楽になれるのだろうか、と考えたことすらある。


 数多の人間がそんな祈りに浸らなければ生き存えることができなくなるほど、イヴの生きたかった世界は生きる価値を喪失してしまった。


「…………っ、ああ、くそっ」


 幻想的な光景を瞼に焼き付けていると、視界がぐらつきだした。


 空気そのものが震撼している。

 もう間もなく、世界は巻き戻る。


 狂信者のごとく地にひれ伏して世迷い言を宣う集団を尻目に、ロックは路傍のベンチに腰掛ける。


 新たな十二月を迎える場所は決まってこのベンチと決めていた。黒革ジャケットの内ポケットに忍ばせている煙草ケースから最後の一本を取りだし、ジッポーで火を点す。


 次の一ヶ月はどう過ごしてやろう。久しぶりに稼業に専念してみるか。いや、たまには善行に励むのもいいかもしれない。


 ぼんやりと算段をたてながら、月に向かって紫煙を吹かしつけた。



「このクソッタレな世の中に祝福あれ」

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