前編
とんでもない美人と一緒にコーヒーを啜っている。
時刻は、昼を回ったところだった。冬になろうとしている外気温は、少し肌寒い。小腹は空いていたけれど、私達は食事のためにこの店に入ったわけではないことを、忘れてはいなかった。
最近流行っている、地上から五階の所に、設置された野外カフェから見下ろす風景は、食事代だけではもったいない、とさえ思った。普段はごった返していて、汚らしいとさえ感じる時もあるこの街だったが、遠くから見れば間違いなく綺麗だった。発展した都市の利点だとも言える。
天気が良い。昼間に出歩くなんてあまりないから、私にとっては妙に新鮮だった。
「良いところね。デートに最適ってね」
コーヒーを一口啜ると、私の目の前に座っていた友人、茅島ふくみは少しだけバカにしたような意味を抱えて、そう口にした。
周りを見ると、一緒にいる男女ばかりだった。二人がけの洒落たテーブルと椅子、全員が、当たり前だがそれに腰掛けていた。混雑の具合はまあまあと言ったところだろうか。ガラス越しに見える、店内の注文カウンターでは、まだ並んでいる連中が三組ほどいた。
「……本当ですね。話題なんですよ、ここ」
私は言いながら、彼女の姿を、もう何度眺めたか忘れてしまったけれど、また光に集まる虫みたいに、習性に抗えないで、じっと観察してしまう。
彼女がこんな格好をしているところは、いままで見たことがなかった。
いつもはひらひらと投げ出されている長い髪を、櫛で整えた後に、装飾性のある髪飾りで左右一本ずつ止めている。ツーサイドアップだとかいうらしい。私なんかがしても当然似合うはずがなかったが、少し稚気なその髪型は、平均よりも華奢な体躯を持つ彼女にとっては、プラモデルを組み合わせた時くらいに、気持ちよくハマっていた。
更に服装。薄ピンク色のぶわぶわしたロングスカートに、冬物らしい上着を羽織っている。これは私が貸したものだが、私が着ていた時の記憶は、もう上書きされてしまった。
それに合わさるように薄いサングラス。これはその辺りで買っていた。変装用らしい。まとめるみたいに、頭には大きめの丸い帽子を被っている。
可愛い。
なんて可愛いんだろう。
そんな、ため息のような言葉しか出てこない。もともとが圧倒的な美人だったが、その彼女が着飾るとこうなる。ぎゅっと抱きしめたくなるという感情を、私は初めて理解していた。
私はと言うと、一応変装ということを念頭に置いてコーディネートを考えていた。長めのコートに、余裕のあるジーンズ。身体のラインが出る服は、結局あまり好きじゃないので殆ど持っていなかった。髪型はいつもと同じ(セミロングだとか言われる)だが、伊達眼鏡を掛けた。茅島さんには似合うじゃない、と褒められてわりかし気持ちよくなったのだけ覚えている。
「……彩佳、どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもありません」
「もう、しっかりしてよ。趣旨を忘れないで」
「大丈夫です。わかってます……」
そして私達は、ターゲットのいる方を見つめる。
少し離れた席に座っている男女。彼らが調査対象だった。依頼人の女と、ターゲットの男。なんだってこんなことをしなくちゃいけないのだろうと、私は朝から彼らを尾行している時に、何度かそう思った。好き好んで他人の恋愛に首を突っ込む趣味は、私にはまるで無かった。
私は思い出す。依頼内容はこうだった。
『彼が私を好きなのかどうか調べて』
そして芳しくない場合、上手くいくように協力してほしいとも、あの女は付け加えた。そんな依頼、まとまった報酬ももらえないというのに、断ればよかったと何度も考えたのだけれど、茅島さんは意外なほどの興味を見せていた。
「よーし、雑音も少ないし、丁度いいわ。待ってて、彼の感情を割り出すから」
そう言うと、彼女はじっと耳を澄ませた。その様子を見て私は、邪魔にならないように息を止めた。
彼女の耳は、見た目ではわからないが、精密な機械で出来ていて、とにかくなんでも聞こえるらしい。そういった、身体を機械化して特殊機能を搭載している人間を、機械化能力者という俗称で世間は呼んでいるが、正式名称は特に無い。
「…………」
「どうですか?」彼女がすこし眉をひそめたのを見て、私は尋ねた。
「うーん、なんだろう。耳鳴りがかすかにするような」
「ええ、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。平気。騒がしい街ではよくあるわ」
また彼女は集中する。
私も、目で分かる範囲で、依頼人とターゲットを観察した。なんてことはない、普通の男女の会話にしか見えない。有浦は少し仰々しい服を着ていたがおかしなものではないし、川面に至ってはただの普段着だった。普通に食事をし、普通に飲み物を流し込んで、普通に雑談をしているだけだった。それ以外に、特筆するべき点は、私には見当たらなかった。
しばらくすると、茅島さんが面食らったような表情を見せて、口を開いた。
「……ねえ、あの人、ちゃんとアプローチを掛けてたのよね?」
「え? そうらしいですけど……」
茅島さんは、言いづらそうにしながら、私に耳を貸すように命じた。
彼女の唇に、私は耳を近づける。
「彼……彼女に殺意を抱いているみたい」
おおよそ恋愛とは結びつかないほど物騒な単語が囁かれて、私は狼狽えてコーヒーを零してしまいそうになった。
ことの発端を説明すると、一週間ほど遡る。
記憶喪失を患った茅島ふくみが、一身上の都合で所属している組織の任務(業務内容は主に機械化能力者による犯罪の調査と制圧)のために、私の住む海沿いに位置する
適当にその辺りを歩いていると、後ろから声をかけられた。知り合いなんてそういないのに、誰だろうと思って振り返ると、見たくもない女がそこにいた。
「茅島さん? 茅島さんよね」
私のことなんてまるで見えていないみたいに、その女、有浦チサは口にした。
彼女は大学の同窓で、目つきが怖くてよく目立つ、そして傲慢で嫌な女だった。きっちりと分けられた髪型を見ても、いつも似合っていると思ったことはない。高圧的で、他人の考えを支配しようとする言動が、私の癇に障ったのを時間が空いた今でも、古傷みたいにずっと覚えている。
茅島さんも昔は同じ大学に通っていたが、記憶喪失で当然何も覚えていない。不思議そうに首を傾げている彼女を遮って、私は言う。
「ごめん、忙しいから……」
「ちょ、ちょっと、加賀谷さん! 加賀谷彩佳! 話だけでも聞いてよ」
私の名前を連呼されて、にらみつけるように彼女を見る。有浦にしては珍しく、本気で困ったような犬みたいな顔をしていた。少しも可愛いとは思わないけれど、何が彼女をそうさせるのかは、まあちょっとくらいは気になった。
関係ないけれど。
「……なんの得があるの」
「なによ、人でなし!」
「あんたに言われたく……」
「まあまあ、彩佳、この人、困ってるみたいじゃない?」
茅島さんは少しだけ面倒くさそうな顔を見せながら、私を止めた。
私に耳打ちをする彼女。
「なにか本気で深刻そうよ、彼女」
耳で何かを聞いたのだろう、彼女はそんな信じられない事を言う。
「演技ですよどうせ」
「そうかも知れないけど……昔の私を知ってるみたいだから、一度だけでも話してみたいわ。もちろん記憶喪失は伏せるけど」
「いや、こんな女と話したって、利益なんかないと思いますよ」
「まあまあ。私が責任を持つから」
そこまで言われると、私も断る気にはなれなかった。茅島さんがしたいと言っているのだから私が遮って、それをなかったことにするのも、後味が悪い話だ。
渋々、有浦に話だけは聞く、と伝えると有浦は「ちょっと、ご飯でも食べながら、どう? 奢るわ」と胸を張って嬉しそうに答えた。
彼女に連れられて行った先は、うどん専門の無人ファストフード店だった。なんだ、結局そんなものか、といった感想が、正直なところ頭を離れなかった。
狭い店内で三人並んでうどんを飲み込みながら、有浦は言った。
「恋の相談なんだけど」
「私、そういう方面に詳しく見える?」
茅島さんが首を傾げた。うどんを食べ慣れていないのか、あまり減っていない。
「いえ、違うの、聞いて」
彼女の話をまとめると、なんてことはないくらいシンプルな内容だった。
この有浦チサは、同級生の川面という男のことが好きなのだが、自信がないので茅島さんの機能を使って、彼が有浦に好意を抱いているのか確かめて欲しい、らしい。
自信がない、だなんていつも偉そうな有浦の口からは、想像もできないくらい珍しいセリフだった。
「そんなの、あなたが一番良くわかるんじゃない? 普段話すんでしょう?」
「そうだけど、それがおかしいのよね……。よく話すんだからそれなりにでも、仲は進展するはずなのに、全く変化がないっていうか……」
「そういう自信はあるの」
「私は……彼にだけは好かれるように接してきたつもり。それでももし、私のことを嫌っているなら、理由を聞きたい」有浦は、箸を弄んでいる。「でも、直接尋ねるなんて怖すぎる。私の勘違いだとしても嫌だし。そこであなたの出番ってこと。あなたの耳を使ったら、調べられるんじゃないかって思って、さっきあなたを久しぶりに見かけた時、ピンときた」
「好みの問題じゃない? 彼の好みじゃないのよ、あなた」
「そんなわけ……ないわよ」
有浦が、不意にうどんに目を落とした。
「……彼には良くしてきたもの」
食べ終えると私達は、とりあえず返事は保留にして、その日は家に帰った。いちどよく考えてから、請け負うかどうかを決めたかったからだった。彼女の提示した報酬も、内容通り大したものではない。
考えると言っても結局の所、話題は有浦の頼みを聞くことの利点と、それに伴う労力を天秤にかけるだけにとどまっていた。
割りに合わない。有浦という人間を知っている私は、はじめからその結論以外を出すつもりはなかった。茅島さんの耳を、そうやすやすと用いるのもどうかと思ったし、単純に有浦という人間が嫌いだった。嫌いな女が、私の好きな友人を使って、私腹を肥やそうとしているなんて、普通の神経だったら耐えきれるものではない。
それでも、茅島さんは興味を崩さなかった。炬燵で、私に合わせて得意でもないお酒を飲み、くつろぎながら彼女は言う。
「他人の恋愛に、興味があるってわけじゃないけれど……ほら、私って記憶喪失じゃない? そういうのを観察する良い機会だと思って」
「……そんな良いものじゃないですよ」
「あら、美雪なんて、楽しそうにそんな話ばっかりするわよ」
美雪とは、彼女と同じ施設に属する明るい金髪ギャルだけれど、今回は関係がない。
有浦に対する不信感しか無いまでも、言われてみれば、有浦に人間らしい悩みがあるなんて、少しは可愛らしいところもあるんだな、というのが正直な感想だった。もっと他人が傷つこうが、笑うことすら無いやつだと、私は一方的に思っていた。
次第に私は彼女と話していると、茅島さんが強くそう願うのなら、やっぱり受けるべきなのだろう、そういう心境にたどり着いていた。
その日のうちに、私は了承したとのメッセージを有浦に飛ばして、泥に足を突っ込んだ時にも似た後悔を抱えた気分になった。
やはり辞めておけばよかった、としか思えない。
どんな要求が出されるのか、そればかりを心配しながら、茅島さんの隣で不安な表情を隠しきれないまま私は眠った。
そうして迎えた一週間後の今日。
まさか、こんなことになるなんて。
有浦の言う作戦は、至極簡単だった。私達が街中でデートをしているから、気付かれないように変装をして尾行してこい、そしてその間に、川面が私に好意を抱いているのかを調べて欲しい、芳しくない場合は報告して何処かで落ち合う、私もその時は川面に待ってもらって抜け出てくる、合流したのち私が好かれるように、一緒に作戦を考えて欲しい。以上だった。バカバカしかったが、私達はこれも了承した。
変装も、あまりに茅島さんが舌の上で転がしたくなるくらいだったのを除けば、完璧だっただろう。変装のそもそもの理由は、私達とも一応面識のある川面に悟られないようにする目的だった。
まさか、川面が殺意を抱いているなんて。
一体、彼は何を考えているのだろう。
「殺意って…………殺したいってことですか?」
私が尋ねると、茅島さんが当たり前だとでも言いたげに、深く頷いた。確かに有浦を殺してしまいたいという感情を、全く理解できないわけではなかったけれど、茅島さんに悟られる程度には、本気でそう感じているのだろう。
「聞き間違えという可能性は?」
「ない、と思うけど……」彼女は珍しいまでに自信もなさげに、髪を指で弄びながら口にする。「ただ嫌いな人の前でする反応じゃないわ。川面くん、本気で多大なストレスを感じてるみたい。私の耳で捉えられることに、もちろん限界はあるけれど、話し方と呼吸を聞けば、間違いはない、と思うんだけどな……」
彼女の機能に対しては、日頃の活躍を見ていると、その精度を私は疑いようもない。さっきかるい耳鳴りがしたと言うから、不調という線も考えられたが、少し前に個人でできる範囲だが、メンテナンスをしたばかりだった。
さらに茅島さんが、真面目な顔をして変な冗談を口にするような人間だとは思わなかった。
殺意か……。
なんだか気が重くなってしまって、私はコーヒーが綺麗に飲み込めなくなった。有浦だって、何も嫌われたくて頑張っていたわけではないのだから、川面にとっては普通に好きになれる相手、もしくはそれが全部空回りしていたとして、うざったい程度に嫌いな人間、そのどちらかだと思っていた。
茅島さんはふわふわと耳を触った。彼女自身が、一番信じられないみたいだ。
「どうしてかしら……私の耳、おかしくなっちゃった? やっぱり調子悪かったのかしら」
「試しに有浦の感情を計ってみてくださいよ」
「わかったわ」
目を閉じて、感じ入る。すると、ものの数秒もしないうちに茅島さんは息を吐いた。
「わかった。彼女は明らかに川面のことが好き。なによりずっと呼吸が荒いもの」
つまり、彼女の耳は正常。
川面の殺意の疑いも、間違いなく本当だった。
カフェを出て、私達は並んで手を繋げるくらいに距離を詰めながら、気に入らない女と、怪しげな男、その二人の背中を追っていた。
彼らが食事を終えたのは、ほんの数分前。次は何処へ行くのか、私達は有浦から何も知らされてはいなかった。移動するときは連絡をしろ、と伝えていたのにあの女ときたら。私は激しく憤った。
その間も、茅島さんは川面から目をそらさなかった。彼の一挙が、宝くじの番号みたいに大事なものになっている。私が見ても、川面の様子がおかしいなんて、少しもわからなかったけれど。
しばらく歩いていると、彼らは吸い込まれるみたいにデパートに入った。追う。エレベーターに一緒に乗り込むのはまずかったので、一本遅らせた。その間に、有浦からようやく連絡があって、私は嫌そうな顔をして端末を開いた。
『ごめん。屋上』
それだけ。当然この文面は、今屋上に行った、ということだろう。ここの屋上は、確か簡素な公園になっている。何処かから取ってきた緑を、申し訳程度に植えた、私には用事もなにもないようなところだった。
公園にたどり着くと、彼らはすぐに見つかった。
緑と緑の間に、ふらりと佇んでいた。備え付けられたフェンスから、街を見下ろしている。景色はいい。私だってそう思う。誰だって、高い場所から街を一望できる空間と状況には、ある程度の興味深さを覚えるだろう。
「あれ、まずいんじゃない?」
茅島さんが指しながら、私に向かって呟いた。
見やると、フェンスの網目が損傷しており、べろりとめくれ上がるようになっていた。風に吹かれて、奇妙な音を立てながら揺れている。彼女たちは、そんな危なっかしい場所の前を陣取って、適当な雑談をしていた。いや、有浦が一方的に話しているだけだったけれど。
「あそこから、突き落とされるんじゃないかしら」
「そんな……殺すつもりでここに呼んだって言うんですか?」
「あまり人の入りも良くないし、あのフェンスをデパート運営が直すつもりもないんだとして、川面が何かでここのことを知っていたとしたら、殺人に使おうって思うんじゃないかしら」
「……きっと、考えすぎですよ」
「だと言いけれど」
木のそばに置いてあるベンチに腰を下ろして、二人を眺める。高層だ。風が強い。茅島さんの髪の毛が揺れて、私の目に入り込みそうになった。
ずっと、飽きもせずに何かを話している有浦。川面は、相槌を打っているだけ。聞きたくもないのか、そういう性格の人間だったのかは判別がつかない。
すると、川面の手が動いた。
ゆっくりと、空気を動かさないくらい緩慢に、有浦の肩に置いた。
突き落とすつもり?
「だめ、止めなきゃ!」
急いで茅島さんが腰を浮かせると、こちらの人影に気づいたのか、慌てて川面は手を止めた。
彼に姿を見られた。私はまずいと思って、茅島さんの腕を引っ張って、木の陰に隠れた。しばらく息を殺していたが、川面は何も言ってこない。私達だとは気づいていないみたいだった。
「どうしたの?」
有浦の声が聞こえる。川面は、なんでもない、と口にしてもとに戻る。
……良かった。
それは、殺人が行われなかったことに対してなのか、自分たちの正体が川面にバレなかったことに対する安堵なのか、自分でもよくわからなかった。
「……彩佳、ごめん。飛び出したのは、まずかったわ」
「いえ、あのまま有浦が殺されてたかもしれませんし、正解ですよ。私もごめんなさい、考えすぎかと思ったんですけど……」
私は川面の方を見ながら答える。彼は、今度は有浦から距離を保っている。思い直したのかもしれない。
「どうですか、川面の様子は」
耳に集中する茅島さん。
「……イライラしてるみたい。でも有浦の顔を見るたびに。まだちゃんと、殺したいって思ってるわ」
その後も川面の、釈然としない殺意は続いた。
デパートを出た後は、また近くの公園へ行き、池の水面を眺めながら、有浦に手を出そうかどうしようかと、川面はひとしきり迷っている様子を見せたが、結局何事もなくそこを素通りした。これでは、見ているこっちの気分が落ち着かない。止めようと飛び出すのも、これ以上は望ましい行動ではなかった。何か、有浦に危険が迫っているときは、私が彼女に電話を掛けるということで、私達は一致はしたけれど、それでも殺人を未然に防げるといえば、確実性には疑問が残った。
茅島さんが、そのうちある一つの仮説を口にした。
川面は、自分の殺意を認めたくない、というものだった。
殺意はもちろんだが、自分の感情にずっと思い悩んでいるのも、また間違いのない事実だと茅島さんは言った。
「受け入れたくないんじゃないかしら、彼……」
受け入れきれていない? だったら、本当は殺したくない?
私なんかでは到達できないような心境に、彼は陥っているのかもしれなかった。
地下鉄の駅は、なんだかその息苦しさがむしろ落ち着く。
到着した電車に乗り込んだ私達は隣、人も混み入っていたので密着して座った。こうして見ると、自分と茅島さんの体格の違いが浮き彫りになって、僅かな嫉妬心や明らかな羨望が浮かび上がってくるのを、はっきりと感じた。
彼女は少し疲れているのか、じっと目を瞑った。耳だけは、おそらく川面に集中しているに違いはないだろうけれど。
有浦はまた、何処へ行くのかを私達には何も知らせてはいなかった。彼女たちは、今私達の反対側、つまり正面の座席に、二人並んで腰掛けていた。立っている数人に遮られはしていたが、見えないと言うほどではない。会話のネタも尽きたのか、それとも疲れたのか、二人は携帯端末を触っていた。
『何処で降りる?』
私は有浦にメッセージを飛ばした。暇だろうから、返事はすぐに来る。
『四駅後』
そこは、もう隣の区に差し掛かっている。なにか遊ぶところはあるのだろうか。一度も足を踏み入れたことがないから、よくわからない。
耳が痛くなるような空気感の電車から伝わってくる、何処か心地の良い振動を浴びながら、私は川面を見る。
別に、はっとするような美形だとは思えない。有浦がそこまで入れ込む理由が、私には釈然としなかった。大学でもどんな生活をしているのか知らないが、それは私が彼に対してあまりにも興味が持てないからというのも一因ではあった。
そういえば、少し話したことがあるような。掴みどころがなくて、変わった人間だなというカテゴリに差し込んだまま、私の評価が改まることはなかったけれど、
……。
はっ、と。そこで、私は思い出した。
あの男、そうか。顔には、認めたくないけれど、明確に見覚えがあった。
あれは去年だっただろうか。その頃はまだ茅島さんも記憶を失っておらず、同じ大学に通っており、私も、変に心に不安を感じて休学をする前だった。
授業の後、突然川面が私に話しかけてきた。普段は異性と交流なんてないから、余計に驚いてしまった。
用件を訊くと、なんてことはない。彼は茅島ふくみのことが好きだった。当然だろう。彼女の容姿は、私でさえ見惚れてしまうのだから。だけど、恋愛という面に於いては、少し近寄りがたい雰囲気を覚えるのもまた事実だった。
そこで彼は私に、茅島ふくみとの仲を取り持って欲しいと頼んだ。彼女と一番仲がいいのは、恐縮ながら誰がどう見たって私だったからだ。
腹が立った。他人の思惑に利用されたことよりも、こんな彼女を何も知らないような人間に、茅島さんを取られてしまうなんて耐えられない。そんな傲慢な憤りを少しだけ覚えたのが、なによりの理由でもあった。
結局そのまま無視して、茅島さんにも川面の頼みを一言も伝えなかったのだけれど、だけどそのことを踏まえると、彼が有浦に微塵も興味がないのは明らかでもあった。一年で心変わりする可能性も、もちろん否定はできないけれど、有浦と茅島さんでは、あまりにタイプが違いすぎた。
一瞬、茅島さんに伝えようとも思ったけれど、川面の想いを彼女に知られるのが嫌で、私は奥歯を噛んで口をつぐんだ。
「ねえ、有浦さんってどういう人?」
「え、え?」
悟られたとしか思えない瞬間に、茅島さんが私に質問を投げた。
私は、不自然なくらいうろたえる。
「有浦?」
「そうよ。彩佳、川面さんのことは知らないんでしょう? 有浦さんのことも、あなた、話すの嫌そうだったから、詳しく尋ねてないけれど……何か恨まれるような人?」
有浦については、あまり思い出したくもない。
そうは言っても、彼女が知りたがっているのだから、私は嫌々だったが説明した。
「……私の個人感情として、彼女は嫌いですけど、でもそういう人、多いんですよ」
「性格の問題ね?」
「まあ、平たく言うとそうですね……。昔は、理解できないですけど、友人も多かったみたいですけど、あのキツイ性格ですから、今ではきちんと嫌われています。好かれていた方がおかしいと思いますね。なにより口うるさいんですよね。私もそれが嫌で、関わりたくないなって……。それが……川面に集中した結果、殺意を抱かれているんじゃないんでしょうかね」
「……まあ、無理もないわ。私だってその気持ち、わかるもの」
有浦の方を苦虫を噛み潰したような顔をして睨みながら、珍しいことを口にする茅島さん。彼女には、汚い感情なんて縁遠いものだと、私は勝手に思っていた。
私はどうすればいいのだろう。
川面と茅島さんを接触させたら、彼が恋心を思い出して茅島さんを手に入れてしまうかもしれない。そうなって欲しくない。私は、なんの権利があるのかわからないけれど、とにかく強く思った。
私にとって一番いいのは、有浦と川面がくっついてくれることだが、川面的にそれはあり得なさそうだった。それをよく理解しているのは、私だけ。
本当に…………
本当に有浦を、殺してしまってくれないかな、
と、一瞬でも私は願ってしまった。
「あれでも昔は、友人に好かれてたのね……」
茅島さんが腕を組みながら、呟く。
「好きな男ができたから切ったんだとしたら、愚かというほか無いわ」
目的の駅にたどり着く。
有浦と川面は、さっさと地上に上がった。今度は何処へ行くのかを私達にきちんと伝えはしたが、少し改札を潜る前に待っていて欲しいと言われた。
「なんだって待たないといけないのよ。殺されても知らないわよ……」
電車の中で川面の様子がおかしい、殺意を抱いているかもしれないと有浦に連絡したが、まったく相手にされないで、次の行き先だけを彼女は伝えてきた。殺意なんて、私達のなにかのやっかみからの冗談だとでも思っているのだろうか。
次の電車が来る。人の乗り降りをボーッと眺めていると、見覚えのある女が私達に近づき、恐る恐る話しかけてきた。
「あの…………加賀谷さんと、茅島さん、ですか……?」
私達が変装しているから、確証が持てないのだろう。
適当に結ばれた髪。暗い表情。地味で、目立つことを嫌うような格好をした女だった。薄暗い地下鉄にいると、一瞬本当にそこに存在しているのか、ホログラムなのかわからなくなってくる。
「あなたは確か……比留川さん?」
私は思い出して話しかける。
比留川吉奈。いつも有浦と一緒にいた女だ。彼女だけは、有浦を見捨てないで、ずっと友達をやっているらしい。物好きも極まれば逞しいものだ、と私は感じた。
「どうしたの? こんなところで」
茅島さんが、見覚えもないのに、私に合わせて知り合いのふりをした。
「有浦さんに言われてきたんだけど……手伝ってほしいって」
手伝う?
「聞いてないわよ」
「え、でも、加賀谷さんと茅島さんがいるから合流してって……」
「……彩佳、有浦に電話、かけてくれる?」
「わかりました」
私は頷いて、有浦の電話番号を呼び出した。
憎しみが少しも伝わらないような、電子呼び出し音が、私の耳に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます