1節

 そんなに水を集めてどうするのだろう。

 私がこの研究所を訪れて、最初に思った印象がそれだった。海把かいぱ区脳科学研究所。入り口にそう書いてあった。山奥に建てられた、比較的大きな建物だった。

 内部は、壁のあちこちにパイプが張り巡らされていて、建物全体を水が循環する仕組みとなっている、との説明をされた。何のためかと同行者、もとい私の親友だった茅島ふくみが尋ねると、インフラに用いると所長は答えた。結局、どういうシステムなのかはよく理解できなかったけれど、そんなことは私達には何も関係がないのは、この依頼を受けたときから十分にわかっていた。

 通された部屋には、死体が、三つあった。

 なにかの実験部屋だろう。この研究所の二階、奥まった所に位置している。思うよりも広い。大きな、けれど空になった水槽が、部屋の象徴みたいに目立っていた。床は濡れていて、近くの、隅にある排水口まで続いていた。他にはコンピューターの類、実験器具、私にはよくわからないものばかりだった。

 明らかに、殺人事件だった。いざ本物の死体を目の前にすると、緊張すると思っていたけれど、私自身、既に死体くらいなら見慣れたものではあった。想像したよりも平常心を保っている自分に、少しだけ驚いた。

「溺死、ですか?」

 茅島ふくみは、長い髪を邪魔そうになびかせながら、膝に手を置いて前屈みになって死体を覗き込んだ。じっと眺めてしまうくらいの美人である彼女と、惨たらしい死体を同じ視界に入れていると、妙な背徳感を覚える。

 私の隣でメモを取っていたもうひとりの同行者、八頭司美雪が、私の顔を見ながら尋ねた。

「彩佳?」

「え、ああ……うん。平気……」

「辛かったら無理しないでね」

「うん……ありがとう」

 先程の茅島ふくみの問いに、所長、園部隆弘が死体にゆっくりと近づいて答える。

「そうだな、溺死みたいだけど……」

「見た限りはそうですね。警察には言わなくて良いんですか?」

 茅島さんが訊くと、所長は首を振った。彼はもちろん、今回の依頼人だった。

「出来れば言いたくない……いや、言わなければならないんだろうけど、まず犯人を捕まえてほしいんだよ。それから伝えれば良い。もうこれは説明したし、君たちの上司もそれでいいって答えたと思うけど、伝わってるよね?」

「ええ。ですが、簡単な事件でもなさそうなので」

「そんな事言わずにさあ……それ専門の人達だろ?」

「まあ、最善は尽くしますよ」

 茅島ふくみはにっこりと微笑んだ。その顔を見ると、すべてを彼女に任せていれば安心だという気分になる。

「なにか、事件に対して心当たりはありますか?」

「ああ……これも、最初に説明したとおりだ。この死体の中の誰かが……ナノマシンに自分の人格を写して、ここから逃げ出したんだ。これは間違いない。そこの排水溝だ。あのナノマシンは、自分を中心とした、ある一定量の水分なら、他のナノマシンの子機と連動して操ることが出来るんだよ」

 三つの死体。水槽の近くに並んで倒れている。男の人と、女の人が二人。いずれも完全に息絶えていた。こんな場所で溺死と言われても、何度聞いても信じられない。じっと見ていると、気持ち悪いというよりも、悲しい気持ちになってくる。

 被害者はそれぞれ、男の人が山際雅人。女の人が菅谷二葉。加藤さえ。そう聞いた。いずれも所員で、事件当時は三人でナノマシン実験を行っていたらしい。

 この中に犯人がいる、と所長は言っている。

 水を操るナノマシンに、自分の人格を移して、逃走した……。

 隅にある排水溝を、いつの間にか移動して来ていたもう一人の同行者、精密女(本名不詳)が指差した。背が高く、適当に長い髪を結んだだけの風貌が、異様に威圧感を覚えてしまう。なにより、完全に人口皮膜で覆われることもなく、機械部分がむき出しになった両腕は、何度見ても怖かった。

「これですね。確かに……濡れているみたいですけど」

「床にも続いているから、そこから下水に逃げたのかな」美雪が自身のノート型のコンピューターに、メモを打ち込みながら言う。「所長、この研究所の見取り図はありますか?」

「ああ……後で君の端末にデータを送信しておくよ」

 私は、

 結局私は、こんなところまで着いてきて、何をすれば良いんだっけ。



 茅島ふくみから連絡があったのはつい今朝。

 詳細は省くが、茅島さんたちの所属する施設は、まあ、こういった特殊な犯罪を解決するために、それに適した人員を派遣することを生業としている。私はその施設にアルバイトという名目で雇われており(施設には行ったことはないが)、危険でない範囲で、事件の捜査を手伝う契約になっていた。

 彼女から事件の説明を受けて、断る理由もないので呑気に同行した。殺人事件を請け負うのだって、そう珍しくはないらしいと、彼女からの世間話で日頃から理解していた。それでも着いて来たのは、生活費にも少し困っていたし、なにより茅島さんに会いたかったからだった。

 美雪も精密女も、茅島さんと同じ施設の人間で、三人チームで事件に当たるのが彼女らのいつもの仕事だった。

 そう、彼女たちだけで完結しているし、どう考えても私の仕事なんて無いのに、彼女たちの上司は私をアルバイトとして雇うと決めたのが、つい先月。理由を問うと、茅島さんには私が必要だからだ、と答えたけれど、仕事の上では私ができそうなことは、こうして現場に赴いてみると、何も見当たらなかった。

 せめて邪魔しないように、隅の方にいたほうが良いのかもしれない。

 そう思って腰を下ろしていると、茅島さんが私の隣に座った。

「彩佳? 気分、悪い?」

「ああ、いえ、そうじゃないんです」私は首を振った。「邪魔したら悪いなって……。茅島さんこそ、もう良いんですか?」

「ちょうどそこを通っているパイプを調べようと思ってたところ」

 微笑みながら、彼女が指差す。私の背中を預けていた壁に、パイプがあった。

「あ、ごめんなさい」私は慌てて立ち上がった。

「ううん、こっちこそごめん。無理しないでね」

「はい……」

 茅島さんはパイプに耳を押し付ける。

 彼女の耳は、見た目ではわからないが機械化されており、常人では考えられないほどの聴力を有している。彼女が施設で頼りにされている最大の理由でもあった。彼女らのような、身体の一部を特殊な機械に換装して、強力な機能を搭載している人間を、機械化能力者という俗称で世間は呼んでいるが、正式な名称はない。

「所長。これは何処へつながっているんです?」

 訊かれると、まるまると太った身体を揺らせて、園部所長はこちらに歩み寄って答えた。年齢を見るに、五十代。もはや白髪のほうが多くなっている。よくいるおじさんという趣だった。

「排水ブロックだよ。地下にあるんだ。直接下水に流し込むと足りなくなるから、そこで一旦浄水してから不必要な水を下水に流してる。そのことは……所員のほうが詳しいよ。呼ぼうか?」

「ええ、お願いします」

 所長が端末で呼び出しを掛けると、三人の所員が扉をくぐって現れた。

 同じような白衣を着た三人は、それぞれ名乗った。

 女の人が二人。データ整理や事務処理を行っていた所員の那須由加、所長の秘書まがいのことをしていた倉田静。残る男の人が、実験の要とされる大川崇。

 三人の話を詳しく聞く前に、茅島さんが言い出した。

「私は先に排水ブロックを調べるわ。犯人が逃げ込んだのなら、まだそこにいるもの」

「そうですか。じゃあ私達は事情聴取を進めておきますね」

 精密女が茅島さんを止める様子もなく、そう口にした。

「あ、なら私、排水ブロックまで案内しますよ」

 髪を結んで溌剌な感じがする、那須さんが手を挙げた。茅島さんもそれを断らないで、素直に受け入れた。

「由加、大丈夫? その人が言うには、ナノマシンが流れ込んでるんでしょ?」

 けれど、難色を示したのは、倉田さんだった。何処か冷たい印象のある、如何にも仕事が得意そうな人だった。彼女は睨むような視線を、茅島さんに向けていた。

「大丈夫よ。こういう犯罪の専門家でしょ、彼女」

「…………気をつけてね」

 妙に寂しそうな顔をして、倉田さんが呟いたのを見ても、ヘラヘラと那須さんは笑うだけだった。

 いつの間にか隣に来ていた茅島さんが、私に耳打ちをする。

「彩佳。あなたには現場の調査と、犯人が誰なのかの目処を立ててほしいの」

「え……私が、ですか?」

「大丈夫よ、出来るわ。私は信じてる」

 そんな自信はまるでなかった。だけど私は、精一杯頷いた。

 彼女に必要とされるためでもあった。



 扉から消えてゆく茅島さんを見送ると、私はそれでもきちんと奮起していた。

 彼女が期待してくれている。アルバイトと言えども、彼女の役に立ちたいと強く思う。チームの一員、とまではいかなくてもいいけれど、もう少しだけでも彼女を助けたかった。

 兎に角、現場を改めよう。茅島さんがやるように、気をつけて順次調べていけば、だいたいのことは素人の目でもわかるだろう。観察眼だけは、人よりも優れているという自負もあった。それは、茅島さんが前に褒めてくれたからだったけれど。

 美雪に声をかけて、念の為どうすれば良いのかも尋ねた。この金髪の、一見話しかけづらい年下の女でも、私なんかよりもこういう事件によく携わっていた。

「じゃあ、関係者から話を聞いてみようか。被害者のことがわからないと、なんとも言えないからね。端末のボイスレコーダー、回してもらっても良い?」

「うん、わかった」

 私は言われた通りにした。指輪型の端末(現代社会では主流のタイプ)の起動ボタンを押すと、目の前の虚空に画面が浮かび上がった。そこから指で操作して、ボイスレコーダーを起動させた。そんなものは普段は全く使わないので、探すのに少し手間取った。

「では、私は死体を調べてますね」

 と精密女が死体の隣から、大きめの声を出して私達に告げた。

「出来るの?」

 美雪が眉をひそめて尋ねると、精密女は鼻で笑った。

「まあ、警察の検死ほど正確ではありませんけど、素人よりは詳しいかと」

「じゃあ、お願い」

「了解」

 精密女は機械の腕で、慎重に死体を調べ始めた。彼女の腕は脳波コントロールによる精密動作が可能なのだが、それ故に神経も通っておらず、普段も暴走しやすいとしてあまり動かすことはない。間違って死体を握り潰してしまうかもしれないと思うと、少しだけ冷や汗をかいた。

「順番に……所長から聞こうか」

 美雪が園部所長を手招きして呼んだ。彼は緊張した表情を保ったままだった。私はさっそく、ボイスレコーダーの録音ボタンを押した。自分の声が入るのが嫌だったので、なるべく喋らないようにして息を止めた。

 すると、

 その時、異音が耳を突いた。

「何?」倉田さんが真っ先に反応した。彼女の視線は、壁際のパイプを向いた。「大川くん、今のは?」

「さあ……水道に大きめのゴミでも入ったんじゃないですか」

「そうかしら……」

 私は首を回した。よく見ると、部屋のいたる所にはパイプが通っている。所長が言っていた話を私は思い出す。パイプの中を流れる水は、インフラに用いると。それは、単に水道や下水のためだけではなく、どういう理屈なのか発電にも使うとも聞いた。つまり、この研究所のエネルギーは、すべて大量の水で賄われている。

「変だな、ゴミが入る隙はないと思うけど……」所長が難しそうに漏らす。「……浄水施設が狂ったかな……」

 私は、近づいてパイプを凝視する。何もおかしなところは無いようだが……。

「あ、所長……」

 じっと見つめていると、つなぎ目の部分に気がついた。

 そこから水が、ぽたぽたと血液みたいに滴っていた。

「水が、漏れているみたいです」

「本当か? まいったな……こんな時に」

 床に滴った水。

 そのまま排水口に流れていくものだと思ったが、

 水は、

 何故か私の方に向かってきた。

「危ない!」

 精密女が走って、私の腕を掴んで引っ張った。彼女に抱きすくめられる。

 何が起こったのかわからないで振り返ると、水が、鋭く跳ねていた。

 さっきまで私がいた場所に、突き刺さるようにして落ちた。

「ナ……ナノマシンだ!」

 所長の叫びが届くと、所員の二人がどよめいた。倉田さんは急いで扉の方に向かった。実験室なので、開閉に少々の時間を要する。大川さんはその後ろで、焦りながら周りを見ている。

「……彩佳さん、大丈夫ですか?」精密女が私に囁く。

「ええ……ありがとうございます……」息を荒らげたまま、私は答える。

 今、死にかけたのか……?

「所長! ナノマシンって、こんなことも出来るんですか!?」八頭司美雪が、水が落ちた場所を迂回しながら訊く。水はそれきり動かない。「私達を、狙ってるんじゃないんですか……?」

「ああ……そうだ」所長が壁際に退きながら、頷く。「水を自在に操れるようにしてあるからな……本体から切り離された水分はどうしようもないが、流れを利用して、こうやって鋭く飛ばすくらいなら……」

「じゃあ、これは明確な殺意ですね」私を身体で覆って保護しながら、精密女は言う。機械の腕が冷たかった。

 刹那、また水が、パイプからまっすぐに吹き出した。

「きゃあ!」美雪が声を上げて、情けないくらい床に転がった。

 弾き飛ばされた水は、コンピューターのディスプレイを、綺麗に貫いていた。これが肉体だったら、大怪我では済まない。太ももにぽっかりと穴が空いてもおかしくはなかった。

「なんで、こんな危険な性能をもたせてるんですか?」

「そ、そういう研究だったからだ……」所長が、言いづらそうに紡いだ。

「とにかく、ここから避難しましょう。倉田さん」

「はい、既に解錠しました」扉の前で何かをやっていた倉田静が答える。「所長、早く逃げてください」

「どこか安全な場所は?」精密女が、私を入り口の方に導きながら尋ねる。

「えっと……そうだ、私の部屋だ。三階にある居住スペースと一緒になっている。そこはパイプが通っていないはずだ!」

「わかりました。とにかくそこへ逃げましょう。美雪さん、大丈夫ですか?」

「うん、驚いただけ……」

 所長を優先して、私達は実験室を飛び出した。三階への階段は目の前にあった。

 これでは、現場調査なんか出来ないな……

 私は愚痴のように、内心でそう漏らした。



 所長室。逃げ込んだときには、息が切れていた。

 六人も入るのは流石に無謀だろうと思ったけれど、存外、所長室は広めに作られていた。半分が居間、もう半分が事務室となっていた。今、私達は事務室の方に集まっていたが、窮屈さはあまり感じなかった。

 確かに、部屋にはパイプが通っていない。居住性を考慮した結果だろう。壁の中に埋められていると所長は説明したが、まさか壁を貫いてくる可能性も拭いきれないところが怖かった。

 所長は自分の事務椅子に、倉田さんはそのそばに立ち、大川さんは適当な机に腰掛けていた。私達は揃って、並んで本棚にもたれかかっていた。

「……比較的簡単だと聞いたんですけどね、今回の事件」精密女が、睨むように所長を見つめた。「これでも警察には言わないんですか? 私達も機能を用いた犯罪に関しては専門といえばそうですけど、結局それでも素人なんですよ。人手という面でも、通報するべきでは?」

「…………すまんが、穏便に、頼む」所長がうつむいたまま答える。「事故として処理したいんだ」

「三人も事故で死んだと? それで死んだ人が浮かばれるんですか?」

「……遺族には、いくらでも金は払う。済まないと思っているよ。だけど……殺人事件が起きるような場所だと思われたらどうなる? 世間的な評価は……」

「つまり、揉み消すと?」

「これはうちの問題です」倉田さんが、毅然とした態度で精密女に突っ込んだ。「運営の問題は、あなたには関係ありません。事件の調査だけをお願いします」

 ちっ、と珍しく普段はひょうひょうとしている精密女が、明らかな舌打ちを漏らして、それきり黙った。

 ナノマシンに乗り移ったのが誰なのかわかったら、所長はどうするんだろう。事実を叩き潰して、それで終わりなのだろうか。

 電話が鳴った。誰だろうと思っていたけれど、指先に震える振動があった。私の端末だ。表示を見ると、医師――つまり茅島さんたちの上司に当たる、これまた本名不詳の年上の女からだった。どうして私にかけてくるのだろう。疑問だったけれど、とりあえず応答した。

「もしもし……」

 恐る恐る声を掛けると、耳元から感情の薄そうな、尚且ストレスに耐え忍んでいるような声が聞こえた。

『もしもし加賀谷さん。定時連絡だ。約束していただろう』

 そういえば、そんなことを言われていた。他の三人は忙しい場合があるので、少し手の空いている私に今回は任せる、と。

 私は状況を説明した。慣れていなかったけれど、まあこんなものだろう。

『あいつ一人でか? まったく……』茅島さんが排水ブロックに向かったと伝えると、医師はめんどくさそうな声を上げた。『そんな危険なナノマシン、止められる算段でもあるのか……?』

「あの、大丈夫なんでしょうか?」

『……まあ、バイトの君には、あまり変な仕事はさせられないから、気をつけて、無理はするなよ。君は現場調査に注力してくれ。精密女と八頭司がいれば、危険度はずっと下がるだろう。いいか? 君はなるべく一人で行動せずに、出来れば信頼の置ける精密女と行動をともにしてくれ。君を守る能力が高いからな』

「……わかりました」

「ねえ、医師」八頭司美雪が割って入った。「難航しそうなんだけど、どうする?」

『警察にはこちらに任せるようにと、一応、先に私の方から告げてはいるから、滅多なことでは動かないんだろうな……。とにかく、期限はない。解決の目処が立つまでいくらでも滞在は許可する。だが、常識の範囲内でな』

「わかった」

『……無理そうなら、他のチームも応援に向かわせるさ。今は、出来ることをやっていてくれ』

 そう告げられるとさっさと電話が切れた。毎度ながら、結構勝手な人だ。

 すると、さっきの電話を聞いていたらしい所長の様子がおかしかった。視線をこちらから外して、唇を噛んでいた。変な汗も溢れ出ている。

「所長、どうしたんです?」

 訝しんで精密女が訊くと、彼はわざとらしく首を振ったが、すぐに諦めて内心を漏らした。

「実は……伝えていないことがある」

「なんですか?」

「ナノマシンのいる……排水ブロックの水だが、あと五時間で排水される」

 ……。

「それはつまり、あと五時間で犯人がここから逃げてしまうと?」

「端的に言えば、そうだ」所長は頭をかいた。「そして、放流される先は、海だ」

 この海把区はその名の通り海に面してはいた。

 水を操るナノマシンが、地球上で一番大きな水たまりになだれ込むと、どうなるのだろう。

「……ナノマシンが操れる水分量の限界は? 一定量だと言いましたよね?」

 精密女が机に脅しみたいに機械の腕を置いて、所長に詰め寄った。倉田も、もう何も言わなくなった。

「……正確にその分量を計ったわけではない。ナノマシン本体と子機の間には、通信距離の限界はもちろんあるが、それは空気中での話だ。水中では……おそらくそれは地球よりも広い」

「そんなものが海に放たれるとどうなるんです?」

「…………わからん、想像もしたくない」

「しなさい」

「……どうなるかは具体的には……。だが、海が一人の人間の意志を宿す可能性が高い。それがどういった被害を引き起こすのか、杞憂で実際は何も起きないのか……それすらも、私には想像もつかない」

 机を殴る精密女。木材が割れるような音がした。

「だから警察に言いたくなかったんですか? 問題が大きすぎるから」

「こんな危険な事故を起こした研究所なんか、確実に凍結だ。そうなったら、私達、従業員はどうなるんだ……? たかが一人の謀反で、私達全体が死ぬなんて、非合理だよ……理不尽だ……」

「もういいです。黙って」

 心臓が引き絞られるような静寂を残して、精密女はくるりと私達に向き直った。

 その表情はいつもの、事件に携わっている時のものと何も変わらなかった。

「二人共。あと五時間です。五時間以内にとにかくナノマシンをどうにかしなければ、大変なことになります。彩佳さん、ふくみさんに連絡を」

「はい……」

 思ったよりも大きな事件だ。

 絶対に解決しないと……想像もできないような事態になってしまったら、困る。とくに、現場調査を茅島さんから仰せつかった私が頑張らないと……。

 まずは落ち着いて、指は震えていたけれど、茅島さんに連絡を入れた。

 しかし……

「出ない……」

 空き缶を捻り潰すみたいな電子音が、ただ鳴るだけだった。

「忙しいのかな」眉をひそめながら美雪が言う。「……考えたくないことだけど、ナノマシンと交戦してるなら、私達も排水ブロックに向かったほうが良いよ」

「ですが、ここから動くのも得策ではありません」精密女はため息を吐く。「さっきも見たでしょう? パイプのあるところは、水が吹き出してきても、おかしくはありませんし、この研究所に於いて、そんな場所は殆どありません」

「じゃあ茅島さんはどうすれば……!?」

 狼狽えた私を、精密女が宥める。

「まあ、無理をする人ではないのと、危機察知能力に長けていますから、恐らくは大丈夫ですよ。彼女のことを一番知っているのは、あなたではありませんか?」

「…………はい」

 そう頷かされたとしか言えなかった。



 何かあればいいなという、期待もなにもない、暇をつぶすような感覚でさえある行為だった。

 茅島ふくみは、那須とともに実験室を出たあと、倉庫に立ち寄っていた。一階に下りたところに、そのカビでも生えていそうな部屋は存在した。もちろん、きちんと許可を得ている、と那須は話す。

 水に浸透しているナノマシンか……。人間ならともかく、そんなものを制圧した記憶は茅島ふくみにはなかった。ナノマシンがどんなものであるか、の想像は出来るつもりだったが、何をすれば有効打になるのかは、どれだけ考えてもいまいち答えが見つからなかった。

 それほど広い倉庫でもない。仕事中といえども、あまり使わないような工具の類がしまわれている。積もった埃を見れば歴然としていた。つまり、置き場に困った邪魔なものがここに集まっている。

 配管、小型のライト、溶接用の工具、チェーンソー。そんな中で、妙なくらいに彼女の目に留まる物があった。

「液体窒素……?」

 ラベルには、確かにそう書かれていた。大きな牛乳瓶みたいな容器だった。棚の真ん中に置かれていて、倉庫では無秩序なくらいに目立っていた。軽く揺すってみると、それなりの重みを感じた。中身は満たされている。

「これ水に掛けたらナノマシンごと凍るかしら……」

 独り言のつもりだったけれど、後ろの方で物色していた那須が唸る。

「うーん、どうですかね。うまくナノマシンに直接掛けることが出来れば良いですけど。何せ液体窒素事態の温度はマイナス百九十ぐらいらしくて。その温度じゃ、ナノマシンが活動できる保証はされてないはずです。あんまり高い温度も同様ですけど」

 ふくみは蓋を触る。簡単に外れた。固定もされておらず、フィット感もない。ただ被せてあるだけだった。こんなものを、雑な管理で倉庫に置いてあって良いのか、と少しだけ怖くなった。

「……なんで液体窒素があるんですか?」

「さあ……なにかの実験に使っていたんでしょうね」那須は首を振る。「私は使ったことはありませんけど、所長の私物なんですよね、これ。だから何であるのかは、よくわかりません」

「ふうん……」

 所長は以前、水道関係の仕事をしていたと、医師から聞いたような気がする。なにかの設備の耐久実験にでも用いたのだろうと、ふくみは勝手に溜飲を下げた。

 しかしいろいろ見ていくと、彼女の目には珍しい道具ばかりだった。思わず仕事のことを忘れてしまう所だった。

「なんですかこれ」

 鉄パイプみたいなものを、ふくみは手に取る。

「なんだっけな、そっちにあるホルダーに取り付けて使う器具だったような……なんでコードが繋がっているのかは、私じゃわかりません……。所長の前の仕事で使われていたんじゃないですかね」

「……水道関係のなにかですかね」

 ひとしきり物色したところで、二人は事務室に向かった。そこに排水ブロックがあるという。事務所の隅、そこに電子ロックで封をされたハッチがある。那須が手間取りながら、それをこじ開けた。普段は誰も立ち入らないことは、ふくみの目から見ても歴然としていた。

 現れた階段を下って、中を見回した。

 パイプが、四方に張り巡らされていた。それら全てが、角に置いてある何かの機械につながっている。施設全体に、水を循環させるものだろう。まるで心臓だ。月並みな比喩を、ふくみは口にせずに飲み込んだ。

 潜水艦に入ったことはなかったが、おそらくイラストや写真で見かけるイメージとしては、この部屋はその潜水艦にかなり近かった。無機質さや、外界から隔離されたような疎外感が何よりも似ていた。

 さて、ここに逃げ込んだであろうナノマシンを探すのが、彼女の目的だった。パイプの数こそ多かったし、部屋もそれ相応に広いが、彼女の耳ならナノマシンを見つけるのはそう難しいわけでもない。

「あとは、私一人でも大丈夫です」

 茅島ふくみは、ナノマシンの所在を調べる前に、那須に声をかけた。

「いえ、せっかくですから、見学していいですか?」

 意外にも興味を隠さないで、那須はふくみを見つめた。楽しそうだった。

「……機械化能力者が珍しいんですか?」

「はい。周りにはいなかったので……迷惑ですか?」

「別に……」

 見られていたところで、問題はなかったけれど、元々この機能の所為で疎まれることもあった。機能を行使するときに人を遠ざけるのは、半ば癖というか決まり事だった。主に医師の奴がうるさいのだけれど。

 近くのパイプに耳を当てて、靴で蹴った。音が響いていく。水が通っているのが、手のひらを漬けているみたいに感じる。ずっと遠くの方まで、自分の手元に手繰り寄せているようだ。水は、空気よりも音を伝えやすい。

「…………何か、奥に異物があるような」

「わかるんですか?」

「ええ……。パイプの掃除はされていますか?」

「はい……週に一回は。今週は、二日前ほどに。大変なんですよね、掃除の時って。電気も使えなくなるので……」

 雑談を聞きながら、二人は奥の方へ進んでいった。変な湿気を孕んだ金属製の床を踏みしめると、滑って転んでしまいそうな妄想を、何故か手首を切るような感覚でする。

「……那須さんは、殺された人とはどんな関係だったんですか?」

 事情聴取のつもりで、ふくみは那須に尋ねた。せめて、暇な移動時間くらい、そんな話でもしないと、精密女あたりに愚痴を漏らされそうだった。

「……悪く言ってしまえば、特に私とは仲はよくありません。死んだって聞いた時も、薄情かもしれませんけど、悲しいとかそんなことよりも、自分が殺されるんじゃないかって思いました」那須は雑談をしているときと同じような口調でそう口にする。「ただの仕事仲間ですよ。余計な感情を持つほうが、リスキーだと私は考えますけど。まあ、殺された三人は、揃いも揃って後輩でしたから、接する機会は多かったかもしれませんけど……でも、扱いづらかったな、あの三人」

「というと?」

「まあ、我が強いと言いますか……先輩としては、教えづらかったですよ……。でも、三人が険悪な感じには見えなかったんですけど、不思議ですね。犯人は、あの三人の誰かなんでしょう?」

「所長が言うには、そうですね」

「じゃあ、静ちゃんが犯人じゃないんだ。それだけでもう安心ですよ」

「静?」

「倉田静、ほら、さっき見かけたでしょ? 秘書のような役割をやってる、ちょっと目つきの鋭い美人」

「ああ……」

 ふくみは思い出した。まああっちのことは、彩佳たちが調べておいてくれるだろう。

「私、彼女とは同期なんですよね。向こうはもう秘書みたいな仕事をやってて、随分差がついちゃいましたけど、昔は一緒に飲むような仲で……彼女の海外出張が多くなってきたくらいから、疎遠になってるかな……また飲みたいのに」

「そうなんですか……」

「それでもね、静ちゃんは私の誇りなんですよ。私じゃ、絶対到達できないところまで、彼女なら行ってくれそうで。期待してるんです、私」

「……仲良いんですね」

「いえ、今はそうでもないですって……」苦笑いをする那須。「それが、寂しいって思うんですけど、向こうは気づいてくれないですよね。忙しいですから」

「所長はどんな人なんですか?」

 那須の気持ちを察して、ふくみは話題を変えた。目の前には手頃なパイプがあったが、少し今は那須の話の方に興味が向いていた。

「信頼はしています。いい人だとも思います。でも、頼りがいはないです……。いえ、なにか悪いことをやってるとかじゃないんですよ。ただなんとなく、今回の件でもそうですけど、対処がずれてるところがあるので」

「確かに警察にも言うべきでしたね。そこから、どうせ私達にも要請がかかるんですから、同じです」

「そうでしょ……大丈夫かなこの職場ってなります」

 那須はパイプの一本に腰掛ける。話しているのが、楽しくなったのかもしれない。

「そうだ、茅島さん。一つ面白い話があるんですよ。もしかしたら、犯人につながる手がかりかも」

「なんですか?」

 自信満々に口を開く那須に、訝りながら茅島ふくみは首を向けた。

「死んだ所員の一人、山際さん。男性なんですけど、この人、他の所員からいじめを受けていたみたいで……死んだ他の二人も、それに関与していたかもしれないですよ」

「いじめ?」

「はい。具体的に、その現場を見たわけではありませんけど。でも山際くん、結構嫌われてるしな……。なんでそんなことするんだろう。私には不思議なんですよね。怖いな……」

 そう語る那須を、まっすぐに見つめる茅島ふくみ。

 彼女の耳は、少しだけ異変を察知した。

「嘘ね」

「え?」

「あなたも、いじめてたんじゃないですか?」

「な……何を言って」

 また異音が聞こえる。

 那須の呼吸音かと思った。本当のことを指摘されて動揺しているのだろう。

 しかし、どう聞いてもそうじゃない。そんな類の音ではなかった。

 パイプ。

 耳を澄ます。

 那須にどこかに隠れるように告げようとした、

 その瞬間に、パイプから水が吹き出した。

 一瞬だ。

 水は、

 一直線に那須の額を貫いた。

 倒れ込む那須。

 明らかに死んだ。助けて起こすという判断すら棄てた。

 ふくみはパイプの物陰に転がり込んだ。

 息が荒くなる。

 パイプからは、未だに水が垂れ続けている。

「……難儀ね」

 そんな愚痴を漏らしたところで、状況が良くなるわけでもないのに。

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