3.東西応酬 / 鬼

 何度も何度もお礼を言い歩いて行った少年の姿が見えなくなった後。

 讃岐と楠は来た道を引き返した。


 降りて来た地点まで戻ると、楠は壁の凹みをいじる国相に呼び掛ける。


「よろしいでしょうか、国相」


「なんだい、楠君」


 彼が手を離すと壁の一部が扉となって開き、中から受話器とコードが現れた。

「先程あの少年に『千古』には話を通しておいたと仰っていましたが、一体いつされたので?」


「いつだと思う?」


 壁の中からコードを引っ張り、讃岐は意味深な笑みを浮かべた。

 嫌な予感がする。目を顰めた楠の手に、怪しい御札が貼り付けられたアンテナが手渡された。

「このぐらいかぁ。楠君、ちゃんと持っててくれる?そうその向きで」


「……はっ」


 讃岐はラッパ型の小型受話器についたダイヤルを回した。しばらく耳に当てた後、彼は満面の笑顔で口を開いた。


「あ、『左方さのかた』殿!ご無沙汰しております。はい、桜都国相の讃岐栄です。どうですか千古そちらの様子は?そうですか、それは良かった。みかども貴殿もお変わりないようで何より」



「……話通してなかったんですね」



「はい。ご察しの通りです、左方さのかた殿。相変わらずの御慧眼、私感服いたしました。え?……いやぁそんな寂しい事言わないでくださいよ」


 彼の台詞から、向こうがどう顔を歪めているかが手に取るように分かる。


「そうです。実は私からお願いがございまして。そうですね、急を要する類のお願いです。そんな嫌そうな声なさらずとも、そちらの不利益にはならないと思いますよ」

 

 受話器に向けて紡がれるのは明るく、朗らかな声。終始浮かべているのは人当たりの良い笑顔。


「ええ、お約束いたします。実は、こちらから一人、異国の少年を其方に送りまして。ええ、たった今」


 受話器の向こうから楠の耳にも届く程の盛大な舌打ちが聞こえた。

「ただの異国の少年ではございません。『技術者』については……ああご存知でしたか。なら話は早い。そうです。『中央政府』から逃げ出した『技術者』の少年です。こちらに流れ着きましてね。そちらで匿っていただけるとありがたい。もちろん彼は好きに扱ってくれて構いません。曲りなりにも『技術者』です、お役に立つことでしょう。ご心配なさらず、素直ないい子ですよ」


 後半部分だけ聞くとまるで奴隷商人のような物言いである。

 しばらくやり取りしていた讃岐国相は「おや」と目を丸くした。

「……何故、と来ましたか。貴殿程の方ならお分かりでしょう、千古左方せんこさのかた定道常さだのみちつね殿。私は、もとい桜都はまだ『中央政府』に逆らう気はありません。ええ今のところは。だから」

 そこで一旦言葉を切る。先程と全く変わらない笑顔で、彼は恐ろしい事を告げた。



「来たるべきその日の為に、『中央政府』の弱みはできるだけ握っておきたいんですよ」


(恐ろしい)

 楠は内心で唇を噛む。


『君がこちら側についてくれて助かったよ。これで華都をひっくり返せる。侵略戦争なんて馬鹿げた夢を騙る軍部を全滅せしめるためには、君の力が必要だ』

 

 二十五年前、知識人を集め、学生たちを立ち上がらせ、都民を糾合し、軍部を殲滅させたのは他ならない彼だ。

(……全く変わっていない)



「……ええ。貴殿としても気になっている事と思います。その少年が何の『技術者』なのか。私にも分かりません。ええ、本人にも分かっていないようです」


 彼と相手の会話はまだ続いている。


「はい。はい。分かっております。世界を創造すると言わしめた『技術』です。危険である事に変わりはない。確認はこれから致します。はい。力試しというものです。なので」



「あの少年が生きてそちらに辿り着けたのなら、そちらで彼を歓迎してやってください。無論死体ならこちらで回収いたします。……まぁ生きていたのなら自ずと、自分の技術について把握も出来るでしょう」



                 ※



 歩いても歩いても、霧はまだ現れない。

 本当に霧なんて出てくるのだろうか。疑念がむくむくと大きくなり、さっきから止まっては進み、止まっては進みを繰り返していた。


 まだ霧が出ていない今なら、後ろを振り向いてもいい筈だ。

 振り返っても、後方に続くトンネルには誰もいなかった。


「……当然か」

 忙しい彼らはとっくに地上に戻っているだろう。


「『自由と尊厳を手に生きていきたいと願うなら、君自身の手でそれを掴まなくては』」


 彼の言葉を反芻し、「よし」と膝に力を入れる。


『白い病棟』から逃げ出し、無我夢中で走ってようやくここまでこぎつけたのだ。

 あとは彼に言われた事を信じ、真っ直ぐ歩いていくしかない。


「いくぞ」

 息を吸った瞬間、ある物音が耳の中に飛び込んできた。


 息を止めて立ち止まる。

 音の出所は、……この先の道からだ。暗がりになっている所からだろう。誰かがいるのだろうか。


(いや。……それにしては)

 音が奇妙だった。

 何か濡れた、重たいものを引きずるような。衣擦れなどとは全く異なる音。



 ……──何だろう。



 脂っぽい空気とともに微かに漂ってきたのは、思わず眉を寄せるような腐臭。

 裏路地の匂いとも違う。近いのは『白い病棟』。正確に言えば、少女が潰された時の、あの──


 再び同じ物音が響き、僕は直立したまま暗がりを見つめた。

 脳内で警鐘がけたたましく鳴り響いている。

 足が地面に根を下ろしたように動かない。手を動かそうとしても痙攣するばかりで、拳を握り締める事もできなかった。


 冷や汗が額から頬を伝い、地面に落ちる。



 何かが来る。



 あの暗がりの奥で、息を潜めていた何かが──こちらに、気付いた。


 またあの物音が聞こえた。

 腐臭が身体に纏わりつき、吐き気が喉までこみ上げる。


(何だ)


 荒い息遣いも併せて聞こえはじめ──


 暗がりから姿を見せたのは、筋肉が異常な程膨れ上がった大男だった。

 肌は青く変色し、浮き出た血管が大きく脈打っている。

 金一色に輝く目玉が突出している。その眼球がこちらを捉え──牙が発達した口を歪めた。


 笑っている。


 背筋に震えが走った。


 視線を僅かに上へ向ける。その青黒い額には、牛の角を思わせる鋭い角が二本、生えていた。


「嘘、だろ」


 讃岐国相に聞いた話が確かなら──


 目の前にいるあの大男は、間違いなく悪魔、「鬼」と呼ばれる化物だった。

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