2.地下水路

 

 鼻が曲がる程の悪臭に呻きながら梯子にしがみつき、恐る恐る穴の中を下ること数分。


「これは」

 降り立つとそこには、巨大なトンネルが奥まで続いていた。悪臭は消えていないが先程の裏路地ほどではない。鼻を擦り、僕は今立っている場所を見回した。


「凄いだろう。今はもう使われなくなった地下水路だよ」


 続いて降り立った讃岐国相が得意気に僕を見る。最後に楠少将が降り立ち、壁に掛けられたカンテラを手に取った。


 開いた口が塞がらない。幅だけ見ても人が二、三十人横に並べる。地下水路だったという事はこれが桜都中の地下に張り巡らされているという事だ。


「夢を見てるみたいだ……」

「現実だとも」


 僕の反応が新鮮で満足したのか、えらく御機嫌になった讃岐国相は僕の肩を叩いた。


「さ、行こう。君の行く場所はこの先だ」




 三者三様の靴音がトンネル内に反響し、鼓膜を震わせる。冷えて湿った空気が唇に当たった。


 ……地下水路にしてはやけに歩きやすい。道として整備されているようだ。


「整えたんだよ。人が通れるように」

 僕の疑問を見透かしたように、国相が口を開いた。


「二十五年前、桜都で革命が起こってね。ここは、その時の旧政府──軍事政権が利用していた最後の砦だった」


「旧政府?」


「そう。当時の軍事政権に一部の知識人が反抗して、それに学生が乗っかって。桜都は見事に割れて滅茶苦茶になったよ。最後、ここに突入してようやく軍部の打倒に成功した。その時にはもうこの街には何も残っていなかった」


 淡々と述べるその声音はとても静かで、丸眼鏡の奥の瞳はここではないどこか遠くを眺めていた。彼の右手がふわりと持ち上がった。何かを握るように指を曲げ、口に近づける仕草をする。


 僕にはその仕草が何を表しているのかも分からない。ただ、今彼の目の前にはその革命の悲惨な光景が広がっているのだろうという事だけは分かった。


「──まぁそれで今の桜都が出来上がったんだけどね。懐かしいねぇ楠君」

 ぱ、とその手を開くと、讃岐国相は笑顔で後ろを振り返った。

「……は」

 返事をした彼の表情が険しい。あの困り顔とはまた違った、どこか沈痛な色をたたえていた。


 どう返事をしたものか迷っていると、小さく笑った国相が突然手を叩いた。


「まぁここはそういった要塞もどきとして使われた訳だけど。今は別の場所へと繋がっている」


 見えるかい、と彼は前を指差した。

 行き止まりだった。左右に道が分かれており、正面の壁にはペンキの矢印が乱暴に描かれている。


「見えます。左右に矢印が描かれてます」


 頷くと、讃岐国相は僅かに屈み僕に視線を合わせた。

「いいかい。こちらも暇ではないからこの先に僕達は行けない。君が一人で行く事になる」


「えっ」と口から零れた声が、トンネル内に響き渡った。


「何も知らない土地に!?」

 そんな馬鹿な、と叫びたい気持ちを堪えた。

 国相は国のトップ。傍にいる楠少将も国にとって重要な地位にいる事は間違いない。

(僕なんかに構ってはいられないんだろう、けど)


 分かってはいるが、何も知らない土地に手順も分からずいきなり手放されたのではこちらも困る。


 口をパクパクさせて訴える僕を見て、国相は「分かっているよ、説明はする」と付け加えた。


「まず行き方。あそこを右に曲がって進むんだ。しばらくずっと歩くと足元に霧が立ち込めてくる。そうなったら後ろを振り向かずに前へ歩くんだよ。いいかい、振り向いたら駄目だ」


「霧が出る?」


 振り向いてはいけない?


 妙な注文に首を傾げる。まるで怪談話でも耳にしているかのようだ。


「すると、霧の立ち込めた草原に出る。そこでも振り向かず、真っ直ぐ前に進む。後ろでどんな声がしても振り向いてはいけない」


 化物に食われてしまうからね、と直後に続きそうな文句だった。どんどん僕の眉間に皺が寄っていくのも気にせず、讃岐国相は大真面目に説明を続ける。


「歩いていくと都が見える。ここに勝るとも劣らない建築が立ち並ぶ街だ。門があるからそこに入る時に、黄色の腕章と、鞄に入っている封筒を見せる事」


「封筒ですか?」

 ショルダーバッグの口を開いて中を漁る。指先に尖った感触が当たった。彼の言われた通り、赤文字で何か書かれた茶封筒が入っていた。

「僕からの紹介状だよ。これを見せれば面倒な手続き無しでうるさい『上』にもすぐ話が通じるだろう。……うん、多分」


 多分、と付け足された言葉がさらに不安を掻き立てた。


「あの、本当に」

「手ぶらよりはかなりマシだから。彼らにも話は通してある。……一応」


 一応。多分の次は一応と来たか。


「向こうにも話の分かる人はいるよ。ちょっと嫌味を言う人が多いだけで」

 その「ちょっと」がどの程度を表すのか。先程までの二人の表情や言い方からして想像に難くなかった。


「僕を匿ってくれた事に感謝しています。ただ……その、生きていく場所というのは」

 裏路地に入った辺りからもんもんと溜まっていたものが我慢ができなくなり、遂にその不安が言葉になって零れ出た。

 あ、と口を押さえるがもう遅い。二人の耳には届いてしまったらしく、「どう言ったものか」と言うように両者とも眉尻を下げていた。

「すみません、不満という訳ではなく」


「気持ちは分かるよ」


 僕の肩に手が置かれた。

「ただ、これは君が選んで契約したことだ。僕は向こうには行けない。君が、自由と尊厳を手に生きていきたいと願うなら、君自身の手でそれを掴まなくては」


 穏やかな声音で「甘えるな」と窘められる。


 そうだ。彼は『桜都』には引き入れられないと言った。僕がそれに同意し、契約書にサインをした時点で僕はもう彼の庇護下にはいられなくなった。

 彼が『技術者』の僕に住む場所の紹介をし、ここまで案内してくれた事が異例なのだ。


 あとは僕自身が立たねばならない。


 彼らにこれ以上頼るのはお門違いだ。……たとえ示された道が、どんなに不安を掻き立てるものであっても。


「分かりました。すみません、失礼な事を言って。……自分で歩いて行きます」


 しばらく僕の顔を見つめていた讃岐国相は、ようやく肩から手を離した。


「よし。じゃあ僕達はここで失礼するよ。君の健闘を祈っている」

 手を振り僕から離れる彼らを見て、まだ質問していない事を思い出した僕は慌てて呼び止めた。

「あの!一つだけいいですか?」


 引き留められた彼は不快な表情は見せず、「うん?」と優しい笑顔でこちらを見た。


「まだ僕、これから行く場所について名前も聞いていません」

楠少将が国相の顔を見る。


「魑魅魍魎や悪魔が棲む地とは聞きましたが、どうか名前だけでも教えてくれませんか」


「えっ」

 

「……えっ?」


 国相は考え込むような仕草をした後、思い出したとばかりに手を叩いた。


「そうだ。そうだった。ごめん、思いっ切り忘れてた」

「国相……」

 楠少将が顔を手で押さえ天を仰ぐ。

 ……この国相は随分と天然、いや抜けている所があるらしい。



 讃岐国相が咳払いをして向き直った。


「──かの地の名前は『千古せんこ』」



 ついに、彼の口からその名が語られた。


「千華共栄国を形成する、ここ『桜都』と対をなす国」


 対をなす……『国』?


「都ではなくて、ですか?」

 そう、と彼は頷いた。


「千華共栄国の名の由来は、『桜都』と『千古』の二国が共に栄えるという事から来ている。外には隠しているがね。決して歴史の表舞台にも地図にも出ない、もう一つの国が『千古』」


 湿った風が、通路内を吹き抜けた。


「『中央政府』や他国、果てには『技術者』からも忌み嫌われる人以外の力を持った種族──鬼や妖が人と共存しているため、外との繋がりを断った国」


 ね?と小さく首を傾け、讃岐国相が親指を立てた。


「そんな異形の者達がわんさかいる国だ。『技術者にんげん』の君が来たって何も言われることはないさ」

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