第六話 -ドッペルゲンガー- 13
ぽろ、と。
牛田が指に挟んだタバコから灰がこぼれ落ちた。午後の光が差し込む診察室。時刻はとっくに正午を回っている。だが牛田は、文句のひとつも言わなかった。
「おっと」と言って牛田は膝に落ちたチリを払い散らす。それらはふわふわと舞って、やがて床を汚すだろう。まったく、適当大人め。白神とは大違いだ。
「はい、すまないね。どうぞ、続けてくれたまえ少年」
と、水を向けられて俺はしかし、自分が話しすぎていたことに気がついた。こいつも本当に最初の宣言通り『茶化したり』しなかったお陰で、ついいらんことまで話してしまった感がある。
おほん、と俺は咳払いをひとつ。
「いえ……まあ、ここから先は別に、特に話すようなことはないっすよ。ていうか、牛田さんも知ってるでしょう。それ以降、俺は大事を取らされた。つまり、ここに戻って定期的に診療を受けることになったわけです。以来、こうして毎月数時間、こうして謎のセラピーを受ける羽目になっている。まあただ、俺はもうよくなってますからね。もう《へんなもの》も見ないし、あれ以降ナイフも使ったことはないっすよ。平和な少年に戻ったってわけです。めでたしめでたし」
そう言って、適当にお茶を濁す。
まあ、だが実際、不用意にアカガネを使うことはなくなった。アレを使うのは本当にどうしようもないときだけ。代わりに何かヤバそうなものを見つけたら、まずは白神に相談するようになった。白神は積極的に情報提供してくれたし、お陰で学校で起こった問題や、街で起こった問題をいくつか解決することもできた。それから現在までドッペルゲンガーも現れていないので、バランスを崩さずやれているのだろう。
「ふむ。なるほどね、興味深かったよ。面白い体験をしているね君は」
「面白い? 人の血で手が真っ赤になることがですか?」
「……まあ、得難い経験ではあるだろ」
「得難けりゃなんでもいいんか」
「うるさいなあ。起きてしまったことをどうこう言ってもしかたないだろう?」
「お前が言い出したことだろうが……」
本当なんなんだこいつ。
墓穴を掘ってその中でのんびりしているみたいな奴だ。
そう考えると本当にとんでもない奴に思える。
「まあ、だけどちょっと意外でしたよ。本当に最後まで茶々を入れてこないとは思ってなかったっす」
「ん? ああ……猫又のときは正直ちょっかい出しかけたんだが、当時の君の病状からすると幻覚で説明がつくしな。もうひとつの方もそれでいくと、あー……まあ、言いたいことは色々あるんだがな? それは今回は置いとこう」
牛田は灰皿にタバコを押し付けた。ふぅー、と煙臭い息を吐く。
「少年。君は、《オートスコピー》って知ってるかな?」
「は?」なんだ急に。オート……?
「いや、聞いたこともないっす。なんすかそれ」
「ん、そうか」牛田はがしがしと頭をひっかいた。
「いやな? 《ドッペルゲンガー》ってのは実在するんだよ。医学用語では《オートスコピー》と呼ばれる、立派な病気なんだ。日本語では《自己像幻視》という」
……なんだと?
「自分の像を自分で見る、というのは、自分が自分として認識できなくなるということでね。脳腫瘍や重度の精神疾患を抱えた患者に稀に起こる症状なんだ。そういう意味では、私の立場からは全く馬鹿にできなかったのもある」
人差し指で顎をひっかく牛田。
「少年、自分自身と戦う夢を見たことがあるかい? あるいは、葬式などで自分が埋葬される夢。もしくはもっと広げて、自分が死ぬ夢を見たことがあるかい?」
まーた夢の話か、と思いながらも俺は「残念ながら記憶にないっすね」と答える。
「でもどうせ、不吉な夢なんでしょう?」
「いや、逆だ。『自分が死ぬ夢』というのは吉兆を表す」
「――そうなんすか?」
「ああ。君がル=グウィンの『影との戦い』を読んだことがあるかは知らないが、君がやったのはアレの逆だな。
夢分析における『自分が死ぬ夢』とは、過去の自分が死に、新たな自分が生まれる予感を示している。破壊と再生は本来同じ。過去の自分を捨てなければ、新たな自分になることはできない。
だから白神嬢が言ったことは、解釈としてはきっと間違っていなかったんだな。君は君の《ドッペルゲンガー》を切り裂いたとき、消えたんだ。そして新たな自分として生まれ変わった。今の君があるのは、そして《ドッペルゲンガー》が二度と現れなくなったのは――《ドッペルゲンガー》を殺した瞬間に、君が過去の自分とは違う自分として新たに生まれたからなのさ。『Rebirth』だよ。置き換わったという意味では『Reverse』でもいいが、まあそこは自由に受け取ってくれ」
牛田は新たなタバコに火をつける。牛田が言っていることは、よくはわからない。だが、タバコは燃えなければ灰になることはできない。そういうことだろうか。だとすれば俺は――《過去の自分》を消した俺は、過去の自分と何が違うのか? それは――。
それは、一目瞭然であるような気もする。
「珍しく、何か思うところがあるようだね。医者としては冥利に尽きるよ。やっぱりまずはこちらから、ちゃんと話を聞かないと駄目だな」
「…………」
いまさらそんな基本的っぽいことに気づくなんて、こいつはどうやって心療内科なんていうデリケートな職業に着くことができたのだろうか。大丈夫かマジで。
「ゲンガーついでにもうひとつ。《解像度》の話だけどね」
そんなついでがありえるかと思いつつ、考え込んでいた俺はそのまま聞いた。
「白神嬢の解像度が高く見えた、という話はとっても面白かったんだけどね。君はそれを『白神嬢の物を見る解像度が高いからそう見えた』と解釈しているようだが、それなら君は、『解像度が低い人間』を見たことがあるか?」
「…………?」
解像度が低い人間? そういえば、見たことがない。
そう答えると、牛田は「ほう?」と笑顔を見せた。
「それじゃ理屈が合わんだろう。白神嬢は解像度が高く見えたのに、解像度が低い人間はいない? それはなぜだ?」
「んん、言われてみれば変かもっすけど……それ、そんなに重要ですか? 俺の眼の事は俺もよくわかんない部分が多い――いえ、多かったんすよ」
牛田は背もたれから離れ、ぐっと前傾してくる。
「いや、わかるね。私にはわかる。君がちょっと、眼か脳か精神あたりに特殊な症状を持っていることは認めよう。しかしそのことと、君に白神嬢が『解像度が高く』見えたこととは関係がないのだ。両者は無関係なんだよ」
「は?」どういうことだ。
「単純な話さ。これっぽっちも難しいところのない簡単な話。お前ぐらいの年代には実によくある、これでもかってくらいシンプルな理屈だよ」
「……もったいぶらないで、早く教えてくださいよ。そんなにわかりやすい理由なら、一言ですむんでしょう?」
「ああ、もちろん。たった一言で話が終わる。いいかい? つまりだな」
なおも数秒牛田は間をあけて、やがてこう言った。
「お前は白神嬢に、一目惚れしていたのさ」
俺は、言葉につまる。何も言い返せない。だが、そうか。誰でもわかることだった。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。解像度が高いというのは――。
「解像度が高いってのはお前、『綺麗』ってことじゃないか」
そう言った牛田の顔は、いつもの馬鹿にするような表情ではなく。
大人が子どもに向ける表情をしていた。
「お前は白神嬢のことを見て、『ああ、綺麗だな』と思ったんだよ」
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