第一話 - オクリオオカミ - 4
無言で家に戻ったら玄関に姉貴の靴があった。
遅ればせながら「ただいまー」と声をかける。返事がないのはいつものことだ。
鍋に水を張って火に掛け、買ってきた野菜を適当に切って鍋にぽい。煮てる間に肉を焼いて軽く下味をつけ、野菜が煮えたらこれもぽい。カレールーを入れたら完成である。
朝炊いた米の残りを皿によそってルーを浴びせていると、匂いを嗅ぎつけたのか二階から姉貴が降りてきた。
「あ、祐士くんだー。おかえりなさいー」
目の下にまっくろなクマのある我が姉貴。チラと目をやると、上下ともにピンク一色の服を着ている。
「えっ、なにそれ」と聞くとぴょんぴょん跳ねながら答える。
「あ、これー? じゃじゃーん、星のマービィパジャマだよーぅ? かわいいでそ?」
「へーすごい」
うふふ、と姉貴は笑った。
「祐士くんはー、いつのまに帰ってたのかな?」
と姉貴が言うので俺はカレーをあごで示す。
「これが作り始められる前には帰ってきてましたよ。ただいまもちゃんと言いました」
「ええー? 嘘だー、お姉さん聞いてない」
「どうせヘッドホンつけて爆音でエロゲでもやってたんだろ」
「そんなことないもーん」
どうだか知らない、というかどっちでもいい。俺はカレーをよそい終え、テーブルに置いた。
「わーい、あたしチキンカレー大好きー」
しかし姉貴は食事に極端に時間がかかる。俺はさっさと自分の分を食べ終えた。
「姉貴、俺この後ちょっと出かけるんで」
皿を回収しがてら、そんな風に声をかける。
「そうなのー? いってらっさい」
姉貴はスプーンをくわえながら答えた。
「あ、そうだ――ナイフ、返してもらってもいい?」
姉貴は。
「ん? ナイフ? ああ、
と懐から取り出したナイフを、何の気なしにぺいっと放って寄越した。かしゃーんと音を立てて床に落下するナイフ。俺はそれを拾って、学生鞄に入れた。
「あんがとう。そんじゃ」
「気をつけてねー」
俺は自分の家を後にした。
◆
「っし」
三度、件の石橋の前に到着。俺は自転車を停めた。こぎ始め数秒で手袋をしてこなかったことを後悔したが、いまは別段寒くない。軽く準備運動をして、前かごに入れた学生鞄からナイフを取り出す。
ナイフ――と言っても《
「はぁ、冷た……」
俺は取り出したそれを上下左右、適当に振ってみる。
《阿迦鐘》は、当たる。
目に見えないもの。俺の目には見えるもの。《へんなもの》に《阿迦鐘》は触れることができる。理屈は知らんし、これがどういう経路を辿ってきたかとか、どこの誰が作ったものなのかとかは全くわからない。別段興味もない。
しかし、こういうとき有用ではあるのだ――この《へんなもの》に当たるナイフは。
なまった腕にちょっと重い《阿迦鐘》を右に持ち、空いた左手で、学生鞄から運動靴を取り出す。体育の授業用のだ。白神によれば履物を与えると《送り狼》は相手を見逃すらしい。やばいときに使おう。
「さーてほんじゃ、いっちょやりますかね」
俺は歩いて石橋の中央に立った。辺りを見回す。周囲は薄暗く、人の姿もない。だが街灯はついているし、遠く、ショッピングモールと駅の明かりがあるから、ある程度視界は良好だ。暗闇の中、気配を頼りに戦うようなことはしなくて済みそうである。
俺は一歩踏み出そうとしてわざと脚をつっかけ、石橋の上で前のめりに転んだ。予期していた動作とはいえ、微妙に恥ずかしい。何をやってんだ俺は。まあいい。辺りを見回す。特に《送り狼》は人の後ろをついてくる習性だそうだ。注意深く背後を見る。が、それらしい獣の姿はない。耳を澄ましてみるが、唸り声やひづめの音も今度はしなかった。
――なんだ? 転び方が悪かったのか? あんまり転んだように見えなかったとか……。
俺は立ち上がり、服に着いた砂を払って、もう一度転んでみる。だがやはり、周囲に《送り狼》の姿は見えない。
その後も何度か転んだが《送り狼》は現れなかった。迫真さが足りないのかとも思って「うおっ」とか「あいたー!」とか掛け声もつけたりしたが、一向に効果がない。これじゃただのひとりでに転んでいる人じゃねえか。
その後も一〇分くらい転び続けたが結果は得られず、俺は溜息をついた。
「はぁ、バカくさ。やめやめ――」
石橋から離れ、自転車まで戻って鞄に靴と《阿迦鐘》をしまい、帰ることにする。今回の件はなんかの勘違いだったんだろう。俺がこんだけ転んで大丈夫なら他のやつも大丈夫なはずだし、時間帯とか他の条件が必要なのであればいま試したところで仕方ない。まったく、とんだ時間の無駄だった。転ぶというのは意外に疲れる。自転車をこぎ出そうとして、ふと何の気なしに後ろを振り返る。
黒い大きな犬がいた。
いや、犬というより、それは――オオカミ……
「うおっ!」
咄嗟にこぎ出そうとして、自転車ごと転倒する。ヤバいと思った瞬間にはもう遅かった。自転車のカゴからは学生鞄が飛び出し、鞄から《阿迦鐘》が滑り出して金属音とともに転がっていく。
「くっそ」
転んだ姿勢のまま肩越しに振り返ると、跳びかかってくる狼の、大きく開いた口が見えた。ギザギザにならんだ歯。赤い舌。
俺はどうにかひっつかんだ鞄を投げつけた。狼はそれに喰いついて、着地。前脚で押さえて中身を嗅ぐ。運動靴が入っているはずだが構わずこちらに視線を向け、ぐるると喉を鳴らした。黄色いふたつの眼球。点のような瞳と目が合う。
これが、《送り狼》。
俺は舌打ちする。
「履物を投げると見逃してくれるんじゃなかったのかよ……ッ!」
立ち上がり、こちらが動き出すと《送り狼》も動き出した。危険かとも思ったが背を向けて走る。背後で獣特有の息遣いがくぐもった。滑り込むように、地面に落ちた《阿迦鐘》を手にする。冷たい。構うか。振り向きざま、特に目測もつけず振り抜いた。刀身が空を切る。しかし《送り狼》も危険を感じていたようで、脚を止めていた。姿勢を低め、唸りながらこちらを伺い始める。
「あっぶねえなマジで……」
悪態をつきながら、俺は少々納得してもいた。
なるほど、『送り』狼ね――あんだけ転んでも出てこないわけだ。
帰ろうとしてる奴の前にしか現れないってか!
《送り狼》は右に左にうろうろとする。視線はこちらに向けられたままだ。隙を伺っている。俺は《阿迦鐘》を顔の前に構え、身体の向きで《送り狼》を追う。
膠着状態だ。このままだと腕が疲れ、反撃できなくなる。
俺は試しにステップを踏んで距離を詰める。振りかぶる動作をすると《送り狼》は頭を下げ、後ろへ跳ぶ。《阿迦鐘》が武器であることを理解しているのか。賢い犬だ。逆に言えば、賢いが、しかしやはり犬は犬。狼は狼。だとすればこの膠着はチャンスともとれる。
「面倒くせーな、もう――」
俺は《阿迦鐘》を構えたまま、息を整える。意識を向けてみると、随分荒い呼吸になっていた。肺がやすりでこすられたように熱い。俺はなるべく細く長く息を吐いて、吐いた分次は吸いこんだ。次第に呼吸が整う。
《送り狼》に気づかれないよう、姿勢を少しずつ変える。足に無駄なく力が入るように体重の配分を調整。背すじを伸ばし、視線はまっすぐ前へ向けた。
「ふぅ――……」
再び息を吐いて、目測。むこうとの距離は三歩、四歩くらいか。飛びかかってきたところに合わせれば鼻面に当てられるか? いや、顔に当てるのは危険だ。凸凹が多いし、逸れてしまいやすい。当てるなら後頭部か、それが難しければ喉や腹などの柔らかい部位に刺しこむべきだ。横面から首を狙うのもありだろう。
《送り狼》はなおも左右に行ったり来たりを繰り返している。俺が身体で追わなくなったのを見てか最初は訝しむようだったが、「わう!」と一声大きく鳴いて、次の瞬間走りだした。
同時に『イケる』と俺は思う。
タイミングはドンピシャ。距離もいい。《送り狼》が俺の顔目がけて跳びあがった瞬間、《阿迦鐘》を喉に突き入れて、腹までかっさばける。そう確信する。
しかし――何かおかしい。
不思議な違和感。どうにもちぐはぐなような、何か間違ったことをしている感じ。なんだ? 何がおかしい? このまま《阿迦鐘》を振るうことに、何のまずいことがある?
このまま考え込んでいたら駄目だ。喉元に喰いつかれる。喰い殺されるって話もある、と白神は言っていた。俺は焦って違和感の正体を探す。目の前の狼――《送り狼》。白い牙。赤い舌。黄色い目。黒い毛並。手がかりはない。別のものか? 左奥に目をやる。俺が乗ってきた自転車。倒れた自転車。関係ない。今度は右。ただの丘だ、これも違う。左前方には数メートル先に例の石橋。そしてその手前に転がる運動靴……駄目だ、わからない!
俺は《阿迦鐘》を握る手に力を込めた。殺すしかない! 違和感は後で調べりゃいい! そう腹に決め、再びタイミングを計る。駆け出した《送り狼》は俺のすぐ目の前までやってきている。狼が跳び上がるべく、駆ける勢いはそのまま、ぐっと姿勢を低くした。俺は大きく息を吸い込み、その瞬間――。
ふわりと、良い香りがした。
脳内で首を捻る。この、匂いは……? 思い出す。最近嗅いだ匂いだ。カレーなどの、食べ物の匂いではない。かんきつ類のような甘い香り。それは何かの――
何かの、シャンプーのような?
「あっ?」と思い当たった瞬間、《送り狼》が跳び上がった。
俺は、咄嗟に――
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