お出かけ
@wizard-T
バスに乗ってみた。
あの日。ずっとお父さんとお母さんから言われていた日。7月下旬って言う時期にしては涼しくて、最高気温が30℃に届かなかった日。それを除けば多くの人にとってどうという事はない普通の日だったんだろう。
でもぼくにとっては特別な日だった。何がどう特別なのかはわからなかったけど、少なくとも特別だった。
―――お出かけ。
昔からこの町で行われていた、謎の行事の名前。かつては歩いていたらしいけど、現在ではバスを使っている。ぼくを含めた10歳の男の子をかき集めて、バスに乗せてどこかへと向かう事になるらしい。
ぼくのお父さんも、お父さんのお父さんも、そのまたお父さんも同じことをしたと言う。だがお母さんはそのような事はしていなかったらしい。それでもお母さんが言うには、女の子でも半分ぐらいはこの「お出かけ」に参加していたそうだ。
それが何を意味するのか、男の子は絶対に行かなければならないと言う決まりでもあるのだろうかと言うぼくの考えは、ずいぶんとはっきりとした形で外れた。
バスの前に集まったのは、ぼくを含めわずかに3人だ。ぼくのクラスだけで15人の男の子がいたのにわずかに3人、別に参加することが義務であったわけでもなく、お父さんの代の時から欠席する子どもたちは多かったらしい。
それでもぼく自身、まる一日無駄にして夏休みの宿題がどうなるかと言う理由をのぞけばとくに参加しない理由はなかったし、お父さんやお母さんからずっと参加すべきだと言うメッセージをおっぱいを吸っている頃から叩き込まれて来た以上、参加しないと言う理由もなかった。
3人しかいないとぼくから聞かされたお父さんはわずかに反応しただけだった。まあ参加することが絶対であるのならば小学校だけで40人ぐらいいた10歳の男の子がすべて参加しなければおかしいはずだった。
実際、ぼくのお父さんが「お出かけ」に参加していた時は欠席者を除いても40人以上いたと言う。
それでぼくの持ち物はハンカチとタオル。それで終わり。
その事をぼくが言うと、ぼくと共に決められた場所でバスを待つ2人の男の子は、まったく違う表情でぼくを見た。
薫は、ぼくを見てほっとしたような表情になりながら坊主頭をなでていた。普段から小学校を含め様々な場所で出会ってはぼくの事を良くも悪くも子分扱いしている薫は、ぼくが一学期の終業式の時に「お出かけ」の事を話した時にはあんまり気乗りのしない様子だった。
その薫がこの場に来ている所をみると、お父さんか何かに絶対行っとけとか言われたんだろう。ぼくの方を見るまでどんな表情でいたのかはわからないが、たぶんああつまらない事に巻き込まれちまったなとでも思っていた気がする。ぼくが参加することが当然であると仕込まれて来たとは全然思わないで、自分と同じようにしぶしぶ参加して来たと思ったらしい。
一方でリュックサックをいかめしく背負ったメガネの子は、ぼくの少なすぎる荷物を見てへんな顔をした。そのリュックサックの中には何が入っているのだろうか。
水筒やタオル、ハンカチだけでなくお弁当とか何かでも入っていると言うのか。少なくともぼくのお父さんはぼくと同じように水筒すら持って行かなかったと言っているのに、まるで遠足か何かじゃないか。
「お出かけ」と遠足は全く違う、メガネの子のお父さんやお母さんは「お出かけ」の事を知らなさすぎるのではないかと言う気持ちがぼくの中に芽生えると同時に、その子もまたぼくや薫の事をあまりにもいいかげんであると思っていたのかもしれないとも思った。
ぼくはいまだに持っていないし特に欲しいとも思わないけれど、最近急に増え出したファミコンとか言うおもちゃを遊ぶ時子どもがお父さんやお母さんを負かしていると言う話をよく聞くけど、まあそれと同じような事なんだろう。
やがて、バスがやって来た。肌色と紺色の混じった車、これまでぼくの目やテレビなどで見て来たバスと似ているようで似ていない、ありふれているようでどこにもない感じのバス。適当に見て30人ぐらいが乗れそうな大きさのバス。
「よっと」
バスから降りて来た1人の大人の男の人は、これまたぼくがよく知っているバスの運転手さんと同じ格好をしていた。しいて特徴を言えばその服がやけに目立つ青色をしていた事ぐらいだ。
その男の人はぼくたち3人、取り分けぼくに対し親切に言葉をかけてくれた。するとどうしてぼくに対してだけと言う不満を薫がこぼしたので、自慢する気はなかったけど理由をはっきりさせるために、ぼくはこの男の人とぼくの関係を口にする事にした。
「お出かけ」の10日前に渡された写真と、目の前にいる男の人はまぎれもなく同じ人であり、そしてその人はぼくのお母さんのお兄さん、つまり伯父さんだった。
37歳であるぼくのお母さんのお兄さんだから40歳ぐらいだろうか。確かに、39歳であるぼくのお父さんとあまり変わらない背格好をしたその男の人が普段から何をしているのかぼくは知らない。
でもまあ、おそらくはこういう仕事なのだろうとぼくは思った。
「おじさんのお仕事は」
「クルマを動かす人だよ」
メガネの子からそんな質問をぶつけられても、伯父さんは平然とそう答えた。なぜ、その回答が必要なのか。ぼくにはそれがわからなかった。
「キミのおじさんって、キミは今まで会った事があるの」
その疑問を、やけに広々と感じるバスの中でわざわざぼくの隣に座ったメガネの男の子、はじめという名前の男の子に向けてぶつけてみるとそんな事を言って来た。確かにはじめにとって伯父さんは全くの他人だ、出会ってすぐ信じろと言う方が無理なのかもしれない。
だがそれならなぜこの「お出かけ」に参加したのだろう、そう聞くとはじめはだまったままリュックサックから何かを取り出した。
まさかお弁当をこんな時間から食べるつもりかと思ったら、その茶色のリュックサックから出て来たのはよくわからない漢字が並んだ本だった。
「お前何しに来たんだよ、そんなもの読むために来たのか」
薫があきれた顔になりながらはじめに歩み寄ろうとすると、はじめはリュックを左手に本を右手に持ちながら、ぼくから離れ薫に向かって行った。
「あのすいません、今からでもやめていいっすか」
「ちょっと!」
するとはじめに歩み寄られた薫が右手を伯父さんに向かって手を上げながらそんな事を言い出した。口では自分が取り消したがっていたような言い方だけど、それがはじめに向けた物である事はぼくにもはじめにもすぐわかった。
「お前は何なんだよ、オレのアニキが行って来たんだから大丈夫だって、なあおじさん」
「そうかあ、うんでもこんなに少ないなんて思わなくって」
ぼくは薫とは親しかったが、はじめとはほとんど会った事がなかった。クラスが違う事もあるけど、何かそれ以上に住む世界が違う気がした。なんで参加したのだろうか、薫以上に不思議な存在だった。
「最近、いろいろ悩む事が多くてそれでこれに参加してみたら気分も晴れるかもって」
何を悩んでいるのだろう。ぼくの目先の悩みと言えば今年こそクロールでも平泳ぎでもいいから25メートル泳げるかと言う事ぐらいなのだが、はじめにとってはそうではないのだろう。聞いてやるぐらいの事はしてもいいとは思うが、ぼくが彼にとっていいアドバイスができる保証はできそうになかったので何も言わなかった。
おそらくはじめは、「お出かけ」をいい感じには捉えていないように思える。ぼくと言う「お出かけ」に行くのが当然の事として捉えているような存在が何を言った所で必ずや何らかの問題が起きる。これから何時間も一緒になるであろうこの空間の中で、面倒くさい事を起こすのは嫌だった。
「そろそろいいかな」
伯父さんの言葉にぼくはためらうことなくはいと言い、薫は威勢よくおうよと言葉を上げはじめははいと小声で答えた。
「このバスはどこへ向かうんですか」
バスが走り出してから5分の間に、はじめは伯父さんに対してその質問を4回もしていた。
はじめの隣に座った薫とぼくが見慣れていたはずの街の風景がずいぶん速く動くのに感心していると言うのに、はじめにはまるで視野に入っていないようだ。バスが走り出す前はずいぶんと親しくしてくれた伯父さんもまた、何も言おうとしなかった。
当たり前だ、おしゃべりなんかして事故を起こしちゃ元も子もない。
「お出かけ」がどこに向かっているのかと言う事については、お父さんもお母さんも何も言わなかった。そしてぼくも、特に気にしていない。
ぼくにとって、とりあえず目の前の伯父さんは自分にはできないぐらい車を華麗に動かす人でありそれだけでも憧れる。ぼくが知っていて伯父さんが知らない事と、伯父さんが知っていてぼくが知らない事との量は全然違うだろう。
少なくとも、はじめが先ほど読もうとしていた文庫本のタイトルに使われている漢字をぼくは読めない。
「じゃあお前はコーラがどうしてコーラなのか知ってるのかよ」
その薫の質問になっていない質問が、今のぼくにとっては非常にうらやましく感じられた。コーラがどうしてコーラなのかなどと言う問題の答えは、探せばあるのかもしれない。
だがそれを探すにはおそらくは相当な時間とお金を費やす事になりそうだ。そこまでして答えを探す理由は、ぼくを含めこの場にいる4人の内誰にもない。
はじめが首をかしげると、しめたと言わんばかりに薫ははじめの肩をつかみ、窓の方へ視線を向けさせた。
まだ7月とは言え、ぼくは夏休みの宿題にあまり手を付けていない。でも、その宿題であるドリルには最後のページがある。ゴールははっきりと見えていた。
量は少ないとは言えないけど、それでもなんとかなるだろうと言う自信があった、おそらくはじめにはないだろう自信がだ。
確かにこのバスはどこまで行くのかはわからない。わかっているのは、このバスが日本と言う国の道路の上を、きちんとルールを守りながら走っていると言う事だけ。
やがてぼくが外を見るのに、はじめが行き先を聞くのにあきた表情になり薫も何も言わなくなって来た頃、バスは速度を緩め始めた。
ビルや家が立ち並んでいた自分たちの街から、いったいどれだけ走ったと言うのだろうか。そこは道路こそアスファルトで舗装されているものの周りにはずいぶんと緑が目立っていた。
いくらぼくが外を見るのにあきていたとは言え、さすがにここまで元の街と違ってくると驚きを感じずにいられなかった。
やがてバスは止まり、扉が開いた。するとそこにはさび付いて何と書いてあるのかよくわからないバス停と、消えかかった白い枠。その白い枠にバスはピタリとはまり込み、伯父さんは背伸びをしながらバスから出た。
「やーありがと、ちょっとションベンして来る」
薫は伯父さんがバスから出るのと呼応するかのように、バス停のそばにあるトイレへと駆け込んで行った。ぼくもなんとなくもよおしたので一緒に行く事にしたが、はじめは座ったままだった。
「なんかさ、面白い所来ちまったな、たぶんもっともっと山奥行くんだろうな。オレバカだったよ、お前の言う通りもうちょい積極的に参加すべきだったよ」
薫はぼくの隣の便器におしっこをしながらそう笑ったが、ぼくはそんなに「お出かけ」をすすめたつもりはない。「お出かけ」がおしっこをするのと同じよう事であると知らず知らずのうちに叩き込まれていただけの話だった。
駆け込みようからたやすく予想できたように薫のおしっこのたまり方はぼくのそれを上回っていたようであり、後から来たぼくがおしっこを終えてなお便器と向かい合っていた。
薫が長いおしっこを終えて手を洗い終わると、ぼくたちに向かってカラスの鳴き声が降って来た。
「カラスだぜ、こんなとこにもいるもんだな」
都会ではカラスは何べんも見て来た。と言うか都会にいる鳥と言えばスズメかカラスぐらいしかおらず、あとは図鑑かテレビの中の存在だった。
薫も考えてる事は同じだったようで、ずいぶんと緑の多いこの場所でもカラスがはげしく鳴いている事に少しびっくりしたようである。
しかし、そのはげしい鳴き声はどこか都会で聞くのとは違っていた。よく見ると、カラスは一羽しか飛んでいなかった。
一羽しか飛んでいなかったけれど、ぼくには都会で数羽のカラスの鳴き声を聞いた時とあまり違う声には聞こえなかった。数羽分のカラスの鳴き声を一羽で出しているとでも言うのか。
「あのカラスは何だよ、教えてくれよ」
「気にする事はないよ」
ぼくが考えても仕方がないと思って放り出した疑問を、薫は伯父さんにぶつけた。案の定伯父さんはさらりと流し、薫もそれきり気にする事はなかったようだが、一方でバスの中に残っていたはじめは、今が2月であるみたいにガタガタとふるえていた。
「お前も便所に行って来いよ」
「違うよ、単にカラスがさ」
「カラスなんてどこでもいるじゃねえかよ」
カラスは頭がいいって聞いた事があるけど、一羽で何が出来るんだろうか。カラスが真っ昼間にやかましく鳴いた所で、何の問題があると言うのだろう。うるさいとか言うのならば、人間の方がずっとうるさいに決まっている。
二人の声だって、ぼくたちを乗せているバスの出す音だって、人間が出している音じゃないか。
「トイレ行きたくないんならばドア閉めて先に行くけどいいの」
「かまいません」
「じゃあ行くよ、ほかの2人もいいかな」
はじめはかまいませんと言う言葉をキリッとした顔と声で発音したけど、それが逆におかしさをにじみ出させてしまっていた。
真正面を見つめると言う正しい格好でバスに乗るはじめの姿はかえって変であり、ぼくがそれから外を見ていたのは先の景色を見たいと言うより単にはじめの方を見たくないだけだった。
バスはこれまでに比べ遅めの速度で再び動き始めた。たまにトンネルをくぐりぬける事もあり、その度にうす明るいオレンジの照明と耳が少しだけおかしくなる感覚によくわからないときめきを覚えながら、再びあきると言う単語を忘れたかのように外を眺め始めた。
「やっぱさっき便所行きゃ良かったじゃん、オレなんかさっきに比べて体が軽くなったせいで気分爽快だぜ、お前は体が重いから気分まで重くなんだろ」
「関係ないよ」
そんな中でもはじめはずっとしかめっ面をしながらただじっと正面を向いて座っていたらしい。なんでわざわざそんな事をするのか、自分からするとはじめが大変なムダづかいをしているように思えて来る。
「そうやってぐずぐずしてちゃ何がしたいのかわからねえだろ、何がしたいのかはっきり言えよ、なあ」
「このバスはいつどこに着くのか、それが知りたくって」
「お前って本当にしつこいやつだよな、いつかどこかに着くだろ、なあ」
ぼくが適当にそうだねと言うと、はじめは心底からがっかりと言わんばかりの表情になって席を立ち、薫から離れて後ろの席へと向かった。
「運転手さん、教えてやってくんないかな、あいつ参っちゃってる感じなんで」
「もうちょいかな」
こんな時のもうちょいという言葉が当てにならない事は、自分自身もうちょいで帰って来るからと言い返し40分以上外で遊び呆けてしまいお母さんに叱られた経験がある以上よくわかっていたが、それを言う必要はどこにもない。はじめにとってはその言葉こそが自分が求めている物とピッタリ合っていたからだ。
ぼくがはじめの事を気にせずバスから外を眺め続けていると、1人の男の人が車道の脇の細い歩道を歩いていた。お父さんがよく着るスーツと言う物を着た伯父さんと同じくらいの年齢のその男の人は、どこか疲れていたような顔をしていた。
だけどその男の人はぼくの存在に気付くと、急にその目を光らせてぼくをにらみつけた。いったい何がその男の人にあったのだろうか、お父さんや伯父さんと同じぐらいの年に思える男の人からそんな事をされるおぼえはぼくにはない。
「おいなんだよ、何か怖そうな人が来たな」
そして、薫にもないはずだ。ぼくの逆側の席に座っていた薫もまた、スーツ姿の40歳ぐらいの男の人からにらまれたと言うのだ。なんでその男の日はぼくらをにらむ必要があったのだろうか。
「そう?なんかずいぶんうれしそうな顔をしてたけど」
一方で、後ろの席にいたはじめが見たスーツ姿の男の人は、ずいぶんとうれしそうな顔をしていたらしい。なぜにらまれなかったのだろうかと不思議に思い、そしてぼくがはじめの方を振り向いてみるとバスが出る前に読んでいた文庫本を両手で開いていた。
「嫌かい、僕がこうやって本を読んでる事が」
ぼくはいつも、薫から乱暴な扱いを受けている。それでも薫は乱暴にした分だけ手厚くもしてくれ、こちらが困っているとなると積極的に助けに来る。だからなんとなく、僕は薫と一緒に居続けている。
一方ではじめは、ぼくに対し何もしようとしない。こんなバスと言う閉鎖された空間の中で伯父さんを含めてたった4人しかいない中で、わざわざ他の人間と関わろうとしないのはなぜなのか。単純にわけがわからなかった。
「ふーん……………」
ぼくが別にと言い返すと、はじめはそう小声で言って再び本に視線を落とした。
「お出かけ」が何のためにあるのか、その理由を聞かされた事は誰からもない。「お出かけ」をすれば何が変わると言うのか、誰も教えてくれない。「お出かけ」をしなかった人間が不幸になるのかならないのか、それすらも知らない。
「でもよ、まだ何にも始まってないんだろ?それにしちゃずいぶんとオレ面白い思いしてるじゃねえかよ、あーあなんでダダこねちまったんだろうな」
だが少なくともぼくの反応は、薫の反応とあまり変わらなかった。常日頃見る事の少ない緑でいっぱいの山、そこで見かける様々な物。なんだかわからないが、とりあえず楽しかった。ずっと座って文庫本を読んでいるはじめは、そのチャンスをすすんでムダにしている事になる。
もったいないなと思ったが本人が気にしていない様子である以上、これ以上どうにかする理由もなかった。ぼくが外の景色を見て「お出かけ」を楽しんでいる事が大事であるように、はじめにとっては本を読む方が大事なのだろう。
「まあな、そろそろ着くだろうから本ばっか読んでねえでさー」
「静かにしてよ」
薫が本を読むのをやめるように言ってもはじめは聞こうとしない。本なんてどこでも読めるものをなぜわざわざ読むのか。ぼくはクラスの中で背の順に並べば30人の中で18番目ぐらいであり、薫は後ろから5番目である。
はじめはどのあたりにいるのかよくわからないけど、適当に見て前から9番目ぐらいか。背の高い人間もいれば、低い人間もいる。そう考える事にしたけど、どうにもはじめの不自然さがぼくの頭の中から抜けない。
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