20.何も出来ないから

「更紗」

「うん……?」

「大丈夫か?」

「ん。気にしないで、大丈夫」


 この頃、明らかに更紗の表情は暗い。

 笑えないという状況でも今まではそれなりに楽しそうにしていた。それなのに、最近はそれすらも感じられない。


「俺はお前の味方だからな」

「うん。ありがとう」

「……よしよし」

「……っ!」


 一歩。ではなく二十歩ほど距離を置かれて、更紗の頭に置いた手は行き場をなくしてしまう。


「あ……いや、その。ごめん」

「いや、俺こそ急に悪かった。なんか、近くにいる気がしなくて」

「うん?」

「どこかへ消えてしまいそうな気がしたんだよ」

「私はここにいるけど。どこにも行かないよ」

「だよな……」


 妙に翳ったその表情に、どうしても俺は違和感を覚えずにはいられない。


「どっか寄って帰るか?」

「ほんと? いいの?」

「もちろん。奢ってやる」

「いや、そこまではいいけど……」

「いいんだよ。一応先輩だからな」

「……なら、甘える」


 申し訳なさそうではあるが少しだけ嬉しそうな。そんな声を聞いてなぜか安心してしまう。

 長い間、彼女の笑った顔を観ていないからかもしれない。厳密に言えば俺が見てきたのはアリシアに所属していた頃の有栖川更紗、つまりはアリスのものなのだが。

 でも、違和感を拭えるほどではない。


「どこ行こっかな〜」

「……大丈夫、なんだよな……」

「えっ?」

「なんでもない」


 消えてしまいそうな表情。笑顔が消えてしまったその表情から一体なにを奪おうというのかわからない。

 それでも、俺は今彼女の傍を離れてしまえばもう二度と会えないような、そんな違和感に襲われていた。






 適当に遊んでから途中まで帰路を共にする。


「またね」

「ああ、また」


 精一杯顔を引き攣らせている。その表情が今の最大の笑顔の意味なのだから、俺も笑って手を振り返す。

 少し歩いて、家に着く。また慌ただしく両親は飛び回っていて、相変わらず家には俺と兄さんしかいない。


「ただいま」

「ああ、おかえり……どうした?」

「は?」

「いや、なんかえらくやつれてるから……なんかあったか?」

「……まあ、あったと言えばあったけど。多分俺の思い込みだろうか……ら……」


 ぽんぽんと頭を優しく叩かれる。小さい頃はよくやられていたこれは、懐かしさがある。


「お前は弱いよ」

「いきなりだな」

「だけどな、だからこそ祐は人の弱いことに気づけるんだ。そんなお前だから、僕も朱音ちゃんも、アリスさんも」

「なんでそこで更紗が……」

「どうせ彼女のことだろうと思ったよ」

「そんなにわかりやすいか……」

「お前があの子を好きなこともな」

「おい」

「まあそんなことは今はどうでも良くて」


 こっちとしてはそれもかなり重要な問題だが、確かにそこはどうだっていい。


「まあ、いいんだ。大丈夫」

「それはお前がか? それとも、有栖川更紗が?」

「多分どっちも」

「そっか」


 ピンポーン。

 大きくインターホンの音が鳴り響く。こんな時間に来る人なんてなかなか思い浮かばなかったが、とりあえず出る。


「……よ」

「……更紗。どうしたんだよ」

「それはこっちの台詞。気になって落ち着かないから、お風呂入ってから来ちゃったじゃない」

「入る前に来いよ」

「そのまま寝る予定だったんだって。あ、こんばんは、お兄さん」

「こんばんは。暑いから上がっていきなよ」

「はい。お邪魔します」


 極力表情を変えないようにしながら更紗は家に入る。兄さんはその若干不自然な表情に気づいていないのか、はたまた気づいていても気づかないふりをしているのかはわからない。


「じゃあ祐、部屋にいるからなんかあったら呼べよ?」

「わかった」


 とは言ったものの、正直なところ兄さんにはいて欲しかった。きっと俺は今のままだと更紗とはまともな会話が出来ない。


「で、なに。おかしいよやっぱり」

「お前こそどうした」

「私、今そんなに変?」

「相当な」

「……やっぱり祐介には隠せないか。いや、ちょっとお母さんとね。今更別になにかあるわけじゃないけど、やっぱり辛くて」

「……ごめんな、ちゃんと傍にいてやれなくて」

「いやそこまで考えなくていいから」

「ごめんな」


 気づいてしまった。

 結局俺が見てきた有栖川更紗は、彼女の強い面ばかりだったことに。彼女が本気で助けを求めているときには、いつも傍にいなかったことに。今までずっと、彼女を助けたつもりになっていたことにも。

 一体俺になにができるのか、それすらもわからない。

 そもそも今までだってそうだろう。一体自分に何ができたのか、思い返せば何も無い。せいぜい彩月の件くらいだ。


「なんかおかしいよ。どうしたの、なにかあった?」

「ただ傍にいるだけで何も出来なくてごめんな」

「そんなこと……」

「あるよ。今までだって、更紗が自分で頑張ったろ。お前が一人で頑張ってるのを、俺はただ見てただけ」

「違う、違うよ。私は祐介がいないと何も……」

「ごめんな。もっとちゃんとした人間が隣にいてやれればよかったのにな」

「なんで……なんでそんな事言うの?」


 更紗は泣いていた。

 本気で苦しそうに、悲しそうに、俺に縋るように泣いていた。


「私の気持ちも考えてよ……!」


 心の底からの吐露。更紗の本当の感情。

 けれど、純粋すぎるくらいの想いを受け止められるほど、俺は自分に自信を持ってはいなかった。


「……ごめん」

「……っ!」


 薄々気づいていた、更紗の気持ち。

 決して長いとは言えないけれど、ずっと傍にいたから気づける。多分更紗は俺に好意を抱いてくれていることは、少しだけだが感じていた。

 けれど、結局それはただの依存だ。

 彼女は俺を心の拠り所にしているだけ。俺は彼女を助けたと思って、本当はきっと、ただ自己肯定感を満たしたいだけ。

 きっとただそれだけなはずなんだ。


「やめてよ……ちゃんと傍にいるって、さっきもお前の味方だって言ってくれたよね。なら傍にいてよ……私を一人にしないでよ……」

「……ごめんな」

「聞きたくない。そんな言葉要らない」

「弱くてごめん」

「うるさい!」


 怒鳴る更紗の声を聞いて、慌てた様子で兄さんは部屋から戻ってきたらしい。

 全く状況が掴めないまま、兄さんは更紗の前に立って宥めようとしたが、更紗はそのまま振り返り家を出ていってしまった。


「おい祐!」

「…………」

「……馬鹿野郎」


 更紗を追いかけて行った兄さんの背を見送って、一人考える。


「はぁ……」


 初めて見た、更紗の本気の涙。彩月にいじめられていた時の涙とは随分と違った、彼女の心。

 これでよかったんだ、と。勝手に自分に言い聞かせる。彼女は彼女にふさわしい人を見つければいい。俺はまた、なにか生き甲斐を見つけることが出来れば生きていける。

 それなのに。そのはずなのに、心に穴が空いてしまったようなこの感覚は一体なんなんだ。

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