ネェベラの森にて Ⅲ

 岩場の空洞は、思っていた以上に広かった。

 それはただの巨大な岩の隙間ではなく、完全な洞窟だ。


 そして、歩みを進めていくにつれて、むせるほどの腐臭と濃厚な血の匂いが立ち込めていった。

 

 巣穴の入り口からの光が届かない深部、その薄暗がりの先に少し広い空間に辿り着いた。

 そこに転がる巨大な毛むくじゃらの何か、鋭利な爪痕を刻み込まれた哀れな住人だ。


 この巣穴には親のクマが2匹、子グマが4匹いたようだ。

 だが、無残に切り裂かれ、子グマの遺体は欠損が多い。

 まさに、人狼の餌食になったということだ。



 小さな広場のような空間、薄暗い視界でもこれ以上先に進めないことは容易に判断できる。



 死臭の中に紛れて、微かに湿った匂いがした。

 濡れた犬が放つ、鼻に残るような異臭。

 汚物や血、腐臭の中であっても、その匂いは明確に感じ取ることができる。



 暗闇の中で、何かが動いた。

 赤く光る2つの点が闇の中で揺れている。


 それは、眼だ。

 低い唸り声と足を擦る音、ゆっくりと近付いてきている「それ」の体躯は明らかに大きい。


 暗闇に目が慣れて、次第に目の前にいる存在を視認できるようになってきた。

 

 真っ黒な毛に覆われた、2本足で立つ獣。

 その両手の指先にはナイフような長さの爪があった。

 それは間違いなく、人狼の特徴そのままの姿だ。


 漆黒の獣はこちらをまっすぐ睨み付けながら、じりじりと距離を詰めてきた。

 僕は短銃の撃鉄を引き起こし、ロングソードを振るう体勢を整え、臨戦態勢を整える。


 ――あとは外に追い出すだけ……!


 左手に持った短銃、その引き金に指を掛ける。

 肘を曲げ、腰だめのまま銃口を人狼へ向けた。


 そして、引き金を引く。

 強烈な発砲炎の瞬き、暴力的な銃声。

 だが、発砲した瞬間には目の前に人狼の姿は無い。


 銀の弾丸を1発、無駄にしてしまったようだ。




 銀というものは昔から魔除けの効果があると信じられてきた。

 変異動物に対して効果があることについて解明されていないのだが、強靱な肉体と回復力を持つ変異動物に「毒」のような影響をもたらすことだけは知られていた。

 銀製の矢尻や武器の傷は変異動物にとって痛手となるのだ。



 銀の弾丸のことを察したのか、人狼は短銃の射撃を避けた。

 その勢いのまま、僕の背に回り込んでくる。


 僕の背後、つまりは唯一の地上への出口だ。

 

 ――回り込まれた!


 さすがに俊敏な人狼の横を通り抜けたり、背を向けたりするわけにはいかない。

 正対していても、一瞬で八つ裂きにされてしまうことだろう。



 狼や犬とは全く異なる咆哮を上げながら、人狼が飛びかかってきた。

 距離を取るように飛び退くと、鼻先を長い爪が掠める。

 鋭利で長い爪、それに切り裂かれてしまえば大量出血ですぐに動けなくなってしまう。

 

 短銃の再装填は片手では出来ない。

 分割式である短銃は銃身と機関部の間を折るようにして薬室を解放し、そこに収まっている空薬莢を取り出して、新しい銃弾を入れなければならない。


 ロングソードを手にしたままの再装填作業は難しい。

 ならば、あえて切り込むという選択肢もあるはずだ。

 

 ――活路を切り開く!


 

 短銃をガンベルトのポーチに収め、両手で銀のロングソードの柄を握り混む。

 姿勢を低くし、手の延長のようにロングソードの切っ先を地面に向ける。

 そして、剣を寝かせたようにして構えたまま、人狼の攻撃を待つ。


 間もなくして、人狼はその強靱な脚力で跳躍。

 その勢いのまま、払うように爪を振るう。

 人狼が攻撃するよりも速く、僕はその懐にロングソードを打ち付けていた。

 確かな手応え、鈍い音。それを感じた瞬間に地面を蹴って、身を投げる。

 さらに距離を取って、僕はロングソードを構え直す。


 

 人狼の脇腹に、僕が切りつけてできた傷があった。

 その浅くない切り傷から黒い体液が滴っている。


 痛みか、自身の血の匂いか、人狼は酷く興奮しているようだった。

 距離を取っていても、その鼻息がはっきりと聞こえる。

 

 何度もこれを繰り返す余裕は無い、持久戦となればこっちが不利だ。

 少なくとも、ロングソードだけでここを乗り切るのは難しいだろう。

 

 短銃を再装填するために、ガンベルトに手を伸ばそうとした瞬間。

 僕の意識は人狼から逸れてしまっていた。



 目で見ていても、意識を向けていなければ情報は拾えない。

 だからこそ、気を抜いてはいけないのだ。



 地を蹴る音して、瞬きをする間もなく――眼前に人狼の姿があった。

 腕を上げ、長い爪を振りかざそうとしている。

 

 ――しまった!


 咄嗟にロングソードを正面で構え、爪の攻撃を受け止めた。

 だが、手元に伝わって来るはずの衝撃が途切れる。

 なぜなら、銀製の剣身が真ん中で折れてしまっていたからだ。


 折れた剣を手放し、身を投げるようにして人狼から離れる。

 これで効果がある武器は短銃のみになった。

 とてもじゃないが、折れた剣で戦えるとは思えない。



 だが、人狼は立て直す暇を与えてくれないらしい。

 体当たりをするように、突っ込んできた。


 腰に差しているガンベルト、そのホルスターからピストーレを引き抜く。

 腰だめに構え、速射――

 弾倉全てを一瞬で撃ち込み、人狼の勢いを削ぐ。

 効果があったようで、突進の方向が僅かに逸れた。



 短銃の再装填をするなら、今しかない。

 ピストーレをホルスターに戻し、短銃を手にする。

 銃身と機関部を分割し、銃弾が入っている薬室から空薬莢を引き抜き、新しい銀の弾丸を差し込む。

 短銃を元に戻し、撃鉄を引き起こす。


 ――さぁ、こい!


 銀製の小銃弾の弾頭で致命傷を与えられるかはわからない。

 だが、今の僕にはこれしかない。


 

 短銃を左手で構え、正面に人狼を捉える。

 咄嗟に撃ち込んだピストーレの傷が癒えて、飛びかかる準備を整えているように見えた。

 短銃用の銀の弾丸は装填しているものを含めて、残り3発。


 

 人狼の瞬発力は凄まじい。トリガーを引く間に射線から逃げられてしまう。

 ギリギリまで引き寄せなければならないだろう。


 目が慣れたとはいえ、暗闇の中で黒い色を追うのは難しい。

 少しでも目を離してしまえば、位置を見失ってしまう。


 赤い眼とずっと睨み合う。

 位置を変え、距離を詰め、短くない時間が流れた。

 もう正確な時間感覚は無い、全身が汗のせいで恐ろしいまでに寒い。


 不必要な思考、感覚、戦闘に不要な何かがそぎ落とされていく。

 余裕の無い状況で、それすら考える気力も無い。


 

 

 人狼が先に動いた。

 後方に飛び退くようにして、一瞬で距離を開けられる。

 すると、闇に紛れてしまって姿を見失った。

 このままでは、どこから攻撃を受けるかわからない。

 

 人狼の気配や痕跡を探ろうにも、感覚が鈍化しているせいか周囲に意識が向けられない。

 注意散漫なまま、周りを見回す――が、人狼の姿は無い。


 

 このまま背を向けて逃げたい衝動に駆られる。

 その突発的な衝動をなんとか抑え込む。精神的負荷による逃避行動の兆候だ。

 それを自覚することで、そうした異常状態に対処できる――と本に書いてあった。


 耳を澄まそうとするが、自分の荒い呼吸音のせいで何も聞こえない。

 爪先から指先まで強張っている。身体に力が入らず、荷物を背負い込んだかのように身動きが取れない。


 ――まずい。


 

 気が付けば、僕は後退っていた。

 激しく動き回ったせいで、どっちが出口なのかもわからない。

 

 もはや、思考と身体の動きが結びついていない。

 僕は逃げまいとしているつもりなのに、足は勝手に逃げようとしていた。



 だが、人狼はそんな僕を逃がすつもりは微塵も無いらしい。

 

 地を蹴る音がして、暗闇の向こうから2つの赤い点がこちらに飛び込んできた。

 そして、目の前まで迫ってきた黒い影は、その指先に伸びている凶器を僕に目掛けて振り下ろそうとしている。




 その鋭い爪が、僕の喉を、胸を切り裂いて――血の噴水を作ることだろう。

 そのまま、僕は倒れて、人狼の餌食になる。


 意識があるまま食われるか、死んだ後にバラバラに解体されるか、どちらにしても安らかに死ねるわけじゃない。

 

 ――くそ、ここまでか……


 やがて、やってくる痛みに耐えようと瞼を閉じた瞬間。


 僕は真横から、強い力で突き飛ばされた。

 その勢いのまま、僕は薄汚い洞窟の地面を転がる。

 一度伏せてしまったら、疲労してしまった身体は立ち上がることを許してくれない。



 それでも、僕はなんとか顔を上げることだけはできる。


 そして、目の前に繰り広げられている「奇妙な状況」を目にすることになった。

 



 薄暗がりの中で、重い瞼をなんとかこじ開ける。

 そこには、人狼がいた。


 黒い毛並み、暗闇の中で赤く光る瞳、鋭い爪。

 それはさっきまで戦っていた人狼の姿そのものだ。

 だが、おかしいことにその姿が2つもある。


 そして、その「人狼」同士が睨み合っているのだ。



 牙を剥きだしにし、腕を振り上げるようにして身構えている。

 これでは、まるで敵対しているかのようだった。


 だが、新しく現れた人狼の動きは素早い。

 僕の攻撃で多少は弱っていたのだろう、傷付いていた人狼の側面へ瞬時に回り込んだ。

 そのまま、長い爪を振り下ろす。


 悲痛な叫び、血しぶき。

 僕と戦っていた人狼はその片腕をあっさりと切り落とされ、見るからにうろたえていた。


 もう片方の人狼は反撃の隙を与える間もなく、懐に潜り込み――その爪で、首を裂く。



 

 まるで処刑でもするかのように、人狼同士の戦いは一方的な展開で終わった。

 傷付いた人狼は倒れ、切断された人狼の生首が転がっている。


 

 何が起きたのか、少しもわからなかった。

 

 肉体も、精神も、限界を迎えつつある僕にとって、その答えを導き出す余地は無い。


 

 残った人狼が、僕の方を見た。

 黒い体液が爪の先から滴っている。このまま逃げないでいたら、僕もあの爪でバラバラに解体されてしまうに違いない。


 それでも、僕は動くことができなかった。


 

 死ぬなら、せめて――楽に死にたい。


 僕はそんなささやかな願いを思い浮かべながら、意識を手放した。

 不快な匂い、汚い地面の上で最後を迎える。


 情けないことに、僕は狩人として未熟だったようだ。

 あとは、ガペラが上手くやってくれるだろう。



 そうして、僕は人狼の巣窟で眠りに落ちるのだった。 

 

 

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