ネェベラの森にて Ⅱ
装備を整えた僕とガペラは村人達に警告し、ネェベラの森へと向かう。
幸いなことに、森に出かけた村人はいなかったらしい。
襲撃された馬車の付近まで来ると、ルナが何かを嗅ぎつけたようだ。
彼女が向かった先には、赤黒い血痕があった。
銃弾が命中し、出血したのだ。その証拠として、草や土の上に血を撒き散らしている。
「……どうだ、追跡できそうか?」
後方で警戒しているガペラが僕に問う。
僕の代わりに答えるように、ルナが短く吠えた。
「牽制で撃った弾が当たったらしい、微量だが出血してる」
「ならば、ルナが追跡できる」
小銃を構えたガペラが周囲を見回し、視線を僕に向けてきた。
どうやら、僕に先行させたいらしい。
僕は小さく頷いてから、目の前で待機している雌狼の背中を撫でてやる。
「行くぞルナ、人狼を探してくれ」
そろそろとルナが動き始める。
彼女の後に続いて、森の中へと進む。
ガペラから受け取った短銃に銀の弾丸を装填し、すぐに発砲できるようにする。
いつ襲われてもおかしくない。森は人狼にとって絶好の狩り場だ。
いくら見慣れた場所といっても、『異物』が紛れ込んだとなれば話は変わってくる。
普段は静かなはずの森が、明らかに騒がしい。
野鳥が喚くように鳴き、リスやウサギが狂ったように駆け回っている。
丈のある草むらから何が飛び出してくるのか、想像も出来ない。これだけ森が騒がしいとシカだけでなく、クマも興奮していることだろう。
血痕を辿っていくと、森の中腹を抜けて河の上流近くまで来た。
へマット高山への山道はリィーヒ河の流れと別方向にある。
河の魚や水を得るためにやってきた動物を狩るため、その周辺に人狼が住み着いている。と判断することができるだろう。
人狼は基本的に肉食。特に大型動物を好む傾向がある。
夜行性で、高い木々がある所を好み、複雑な地形に身を潜める。
だが、人狼というのは変異動物だ。生まれながらの『人狼』という生物はいない。
狼がなんらかの呪いや怨恨によって、変異した姿と言われている。
だが、書物によっては『変異ではなく進化』とする考え方もある。
または、人間である可能性もある。
呪われた遺物に触れたり、呪詛をかけられたりすることで『人狼』に変貌してしまうというものだ。
狼が変異するものよりも、こっちの方が質が悪いと言われている。
呪いの強さも強靱で、人並みの知恵を持ったまま、凶悪な肉体を手に入れてしまうことになるからだ。
突然、ルナが止まった。
ある方向をじっと睨み続けている。
彼女の視線の先には、荒々しい岩場があった。大小様々な岩が転がっている。
よく見ると、岩の隙間に空間があるようだった。
「どうした?」
後ろを歩いていたガペラが、声を掛けてくる。
僕は正面を警戒したまま、問いに答える。
「岩場に巣穴があるみたいだ。おそらく、クマの寝床を奪ったんだろうね」
「最近、クマの目撃例が無かったのはそういうことか」
この周辺はクマにとって、食べるものに困らない環境だ。
だから人間を襲うことはほとんど無いし、村人も刺激しないように気を付けている。
だが、村に近寄ってこないように追い払う必要がある。それが僕らの仕事だ。
周辺に動物の気配は感じられない。人狼が付近の動物を狩り尽くしたのだろう。
人狼は狩った獲物を洞窟や草木を重ねたシェルターに持ち込む習性がある。
そこを中心に活動しているということだ。
「シェルターはどこにも無かったから、ここが巣穴と断定してもいいだろう」
ガペラの言葉通り、森や山道には特に変わった様子は無かった。
痕跡を残さずに潜伏するとなれば、誰かの住処を奪えばいい。
クマの寝床に入り込んだことは無いが、人狼が隠れるには充分なスペースがあるはずだ。
「人狼を誘い出すには餌が必要だよね……」
「もっと手っ取り早い方法があるだろ」
ガペラの方に振り返ると、僕に向かって不敵な笑みを見せた。
――嫌な予感がする……
「人狼はテリトリーを荒らされたくない生き物だ。住処にしてるところを荒らされたとなれば、すっ飛んで来るだろ」
――それはそうだけど……!
人狼というより変異動物全般に言えることなのだが、性質が凶悪そのものなので怒りを買いやすいこと、テリトリーを守る意識が強いこと、そういった共通点がある。
訓練を受けた部隊や傭兵には、そうした不利な状況下を好む場合もあるらしい。
だが、僕らはそうではない。
あくまで武器の扱い方と練習をした素人でしかない。
「——というわけだ。頼んだぞトルム」
——なんだって?
「冗談じゃ……」
「いやいや、年寄りに苦労はさせるなって。それに、こんなに長い小銃を抱えて洞窟には入れないだろ?」
僕に短銃を渡した時点でそういう計算だったのだろう。
自分が楽するための努力や計画はどんな仕事よりも抜かりない。
「お前が中を荒らして、ヤツが巣穴から出てきたところを撃ちぬく。シンプルだろ?」
「中にいない場合もあるよね?」
「その時は戻ってきたところを撃つだけさ」
小銃を肩に担ぎ、ガペラは鼻で笑う。
ガペラは商談用の服を着ていた。小奇麗な衣装を獣の巣穴で汚すわけにはいかない。村一番の商人を返り血や獣の糞まみれにさせてしまうのは、村にとっても僕にとっても良くない事態を招くことになる。
「こっちは木に登って待ち構えるとする、お前はちょっかいを出して逃げてくればいい」
僕が持っている短銃は近距離の方が向いている。
簡単に逃げられるとは思えないが、危険を冒さないと得られない勝利もあるのも事実だ。
——やるしかないか。
短銃を左手に持ち替え、背負っている鞘からロングソードを引き抜く。
自分の中にある恐れや迷いを吐き出すように、深呼吸を繰り返す。
獣は思っている以上に、こちらの感情を読み取ってくる。
焦りや油断は付け入る隙を与え、気を張り詰め過ぎれば「気配」を感じ取られて逃げられる。
自然は「無」だ。
植物や物はよほどの事が無ければ、自分から動かない。何かを考えることもない。
頭も、心も、「無」に近づけることで気配を殺すことができる。
周囲と同化しようとするのは、「自分」を置き去りにすることだ。
長時間、自分を偽ることはできない。何かに擬態する、何かと一体になるのは思っている以上に難しい。
だからこそ、「無」になるしかないのだ。
意識を集中し、感覚を研ぎ澄ます。
自分が息をしているのかさえ感じられなくなるほど、周囲の情報を身体に取り込んでいく。
目では見えない何かを、肌や耳、それ以外の何かで感じ取れる。
言葉にできない「確信」を、僕は察知する。
僕はゆっくりと歩き出し、目の前にある巣穴へと進む。
そして、僕は確かに死地へと踏み込んだのだった。
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