ネェベラの森にて Ⅰ
今日は、とても良い天気だった。
柔らかな日差し、優しくて涼しい風、遅めの朝食を取った昼間。
僕は村の外れにある大樹の木陰で、のんびりと読書をしていた。
野生動物や『魔物』と呼ばれる変異動物について書かれた専門書を読み進めていく。
この本は何度か読んだことがあるものだった。
だが、読んだとしても頭の中に入ってなければ意味が無い。
この本は村に2人しかしない狩人にとって、とても重要なことが書かれている。
村人という他人を守るには、まず自分の身を守れなければならない。
罠を仕掛けるにも、狩りで追い立てるにも、相手を特定し、知り尽していなければならない。
例えば、ウサギは自分の足跡に沿って戻ることがあることや、クマは食料や獲物を巣穴に持ち帰る習性があること、そういったことの1つでも知るのと知らないのでは大きく話が変わってくる。
この専門書を読む度に、僕の気を引き締めてくれる。
知識を得て、最悪の事態を想定し、必要な準備を怠らない。
狩人にとって重要なのは、勤勉で、冷静で、頑固であること――
いつも僕が昼寝をしているのは、夜遅くまで働いているからだ。
村人から『昼寝狩人トルム』と笑われようと、僕は仕事を怠けたことはない。
――それにしても、良い天気だなぁ……
陽は高く昇り、心地よい風が草木を揺らす。
そして、風がアナフング村やへマット高山から様々な匂いを運んでくる。
鍛冶場で鍛えられていく鉄の匂い、工房で灼かれるパンの香ばしい匂い、それと一緒にリィーヒ河のせせらぎさえも聞こえてきた。
不意に突風に吹かれ、専門書のページが捲られる。
反射的に手で本を抑えると、見開きになったページは「変異動物」の項目まで進んでしまった。
煉瓦の一片のように分厚い本の半分くらいまで来てしまった。今更、ページも戻して読み直すのも面倒に感じてしまう。
そのページは『人狼』の項目だった。
呪いによって、人や狼が変異してしまった存在。人の2倍の体躯と鋭い爪、ダガーのように深く食い込む牙、醜悪な顔、狼に似た硬い毛皮。
深い森であれば、人狼が出るのは珍しくない。
人狼よりも手強い「変異動物」はたくさんいる、
――まだ、そんなに見たことは無いけど……
だからといって、人狼が対処しやすいわけではない。
本来ならば、軍や傭兵の専門家を招集するのが最も確かな手段だ。
軍には必ず『アルテミスの番人』という聖職者の部隊がいるらしいし、傭兵には「変異動物」を狩ることで生計を立てているモンスタースレイヤーがいる。
だが、多くの場合、それに頼る前に行動せざる得ないことがほとんどだ。
僕は2回くらい人狼狩りに参加したことがある。……もうやりたいとは思わないが――
すぐ耳元で何かが吠える。
あまりに唐突だったので、手にしていた本を落としてしまった。
耳の中で金切り音が鳴っている。
完璧な不意打ちのせいで、専門書が土塗れになった。
「くっそぉ、この本高かったのに!」
馬車で4日掛けて辿り付いた街の書店で買った本だ。それなりの価格がある。
おまけに著者は王国近衛師団に所属していた、名のある狩人だ。
僕に不意打ちを仕掛けた本人。いや、人ではない――狼。
家族の一員で、我が家で飼っている〈ルナ〉だ。真っ黒な毛並みの狼、性別は雌。
不意打ちだけに飽き足らず、僕の脛に甘噛みしてきた。否、甘噛みにしては強すぎる――
「――ったく、何なんだ!?」
苛立ちを抑えながら漆黒の獣を見下ろすと、僕の装備品を持ってきていた。
実弾入りの
「どういうことだよ、いったい?!」
すると、ルナは鋭く吠え、村の入り口の方へと駆けだした。
僕は装備品を身に付けながら、ルナを追う。
目にも止まらない速さで走る狼を追うのはとても難しい。
だが、ルナは定期的に吠えて、位置を知らせてくれる。
ようやく、ルナに追い付いた。
彼女はずっと周囲を警戒しながら、少しずつ前進し始める。
そして、目の前に現れたのは……襲撃された荷馬車だった。
辺りにはおびただしい血が振りまかれ、荷物が散乱している。
荷馬車を引いていた馬は、首に大きな切り傷があった。微かに痙攣し、息絶える直前のようだ。
馬車に乗っていただろう男は、そこにはいなかった。
大量の血痕と引き摺られた痕跡が馬車から林道の手前まで伸びている。そこに、息絶えた男の背中があった。
うつ伏せで倒れている男はぴくりとも動かない。
遠目からでも、背中に大きな傷があるのが見えた。
「――これは……?」
物音を立てないように荷馬車に近付く――が、荷馬車の積荷は開封されたようには見えない。
果物と雑貨を入れた籠が地面に落ちただけのようだった。おそらく、荷台の後ろに積んでいたのだろう。
「……ルナ、ちゃんと見張っててくれよ」
彼女が短く吠える。多分、肯定だ。
僕はベルトから
周囲に気を張りながら、男の遺体に接近。
風で草木が揺れる音が不快に感じる。じっとりとした視線が向けられているような気がして、冷や汗が止まらない。
林道の手前、うつ伏せで倒れている男の遺体の目の前にやってきた。
濃厚な血の臭いで、思わずむせそうになる。
男はそう珍しくない服装だった。どこにでもあるようなチュニックにスリッパ、それにつぎはぎだらけのズボン。
遺体をゆっくりと仰向けに起こす。
すると、その男の顔には見覚えがあった。
村に定期的に訪れる商人だ。
特に高価な物を運んだりすることはしない、食料を持って行くことはあっても持ち込むことは無い。
商人の首はぱっくりと切り込みが入っていた。喉笛を斬られたらしい。
だが、ダガーやナイフを使ったにしては深すぎる。切り口からは骨が見えてしまっていた。
大量の出血によって、正面側の衣類は血で染まっている。
――これって……
矢や弾痕は見当たらなかった。
走行中の馬車を止めることは簡単ではない。少なくとも、足止めや並走しなければ不可能だ。
現場には足跡が残っていなかった。
いや、充分に調べているわけではない――
突然、ルナが大きく吠えた。
その顔を向けている方向にピストーレを向ける――木々の間、緑に紛れて大きな影が駆け出す。
引き金を絞り、発砲。
甲高い銃声と硝煙、火薬の匂いの向こうで確かな手応えがあった。
だが、その大きな影はそのまま森の中へと姿を消してしまう。
今すぐ追い掛けたとしても、有利な状況にはならないだろう。
少なくとも、僕1人では勝ち目は無い。
まずは、応援を頼むとしよう――
「ルナ、ガペラは家にいるのか?」
短く吠える。多分、肯定。
――ここは撤退だな。
僕は森に背を向けぬようにじりじりと後退。
村の入り口まで戻ってから、自宅に向かって全力で走った。
村人たちから奇異の目で見られていることを感じながら村の中を駆け抜け、自宅の玄関を蹴り飛ばした。
家の中に駆け込むと、羽根ペンを舐めていたガペラの唖然とした表情があった。
どうやら、書類仕事の最中だったらしい。
「どうしたよ、我が息子よ――」
「大変だ、ガペラ!」
僕が息を整えていると、ルナはガペラのブーツに噛み付いていた。
事態の重さを察してくれたのか、ガペラは椅子から立ち上がり、僕に歩み寄ってくる。
「――人狼だ、商人が襲撃された」
僕の言葉に、ガペラの表情が変わる。
幾度も見た、冷酷で冷静な……狩人の顔だ。
「ネェベラの森にか?」
「足跡は確認してないけど、被害者の傷や状況からそう思う。ピストーレを撃ったけど、倒してはいない」
「――当たり前だ、変異動物は銀じゃないと仕留められん」
ガペラはそう言いながら部屋の奥へ向かう。
僕も付いていくと、仕事道具を置いている物置部屋に入ることになった。
毎日ではないが、何度も入っている部屋の一角、武器の棚に真新しい剣が置かれている。
「銀の……ロングソード?」
問いを投げると、ガペラは何も言わずに剣を放ってくる。
受け取って、その剣を確かめる。
光沢や質感は間違いなく銀だった、刀身にエレメントワードが彫り込まれているようだ。
「たまたま銀のインゴットを仕入れたもんでな、村の鍛冶屋に打ってもらったんだ」
一緒に渡された鞘に銀のロングソードを収め、
そうしている間にガペラは次々と箱を開けていく。
中には錠前付きの装飾された物もあった。
そして、開けた箱のいくつかを僕に渡してきた。
中には銃と銃弾が入っている。
「そいつは分割式の銃だ、元は小銃だから扱いに気を付けろ」
一見、拳銃のように見えるそれは
銃の機関部と銃身の間で折れるようになっていて、そこに弾薬を装填する形式。装填数は1発。
銃と一緒に箱に入っていた銃弾は、弾頭が銀になっている。
通常は鉄や鉛が使われるのだが、特殊な加工が施された銀が使われているようだ。
「銀の弾丸……高かったんじゃないの、これ」
「出し惜しみしていられる状況か?」
対処が遅れれば、村に入り込んでくることもあり得る。
山や森に入った村人が餌食になるのは言うまでもない。
僕らは装備を整え、家を飛び出した。
2人と1匹のチームで、残忍で獰猛な獣を狩り出す戦いが始まる。
僕も、ガペラも、無事で済むかはわからない。
だが、誰かがやらなければならない仕事だ。
人狼は怖い、人をあっという間に八つ裂きにできる爪と牙を持っている。
動きは素早いし、木を登ることもできる。
それでも、倒せない相手ではない。
倒すために必要な武器と道具は揃っている。
覚悟はできている。
あとは、運を味方にするだけだ——
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