第37話

 二階に上がって、自分の部屋に入る。月夜の家の二階には、自室以外に部屋が二つある。それらは、今はまったく使われていなかった。空だといって良い。自室は、普通の小部屋で、如何にもな感じがする。窓は二つあって、鍵がかかっていたから、彼女はそれを解除した。空気が入れ替わる。


 机の前の椅子に座って、彼女は日記を書き始める。日記には、その日起こったことを客観的に書く。主観的なことも書かないわけではないが、彼女の場合、その割合は少なかった。つまり、日記というよりは、単純な記録だ。フィルと話していて、たった今思いついたことを、今日の分のページに書き留めた。


「紗矢に、すぐに伝えるか?」フィルが尋ねる。


「伝える必要はない」


「まあ、そうだな。では、このままでいいのか?」


「今はいい」月夜は話す。「また、すぐに会う」


「大晦日まで待つ、ということだな?」


「そう」


「しかし、それがタイムリミットだ」


 月夜はペンを持つ手を止めて、顔を上げる。ノートの隣に座るフィルを見て、彼に尋ねた。


「どういうこと?」


「その日までにどうにかしないと、お前が危ない」


「別に、危ないとは思わないけど」


「まあ……。お前が、どのくらい気にするか、という問題だな」


「気にしない」


「そうか。それならいいが」


「フィルは、気にするの?」


「どちらでも同じさ。お前が、そのどちらの状態になっても、俺とお前は一緒にいるんだろう?」


 月夜は、そのとき、珍しく笑った。笑うのは、本当に久し振りだった。もちろん、他人と接すれば、否応なく笑わなくてはならなくなる。そうではなく、笑いたいと思って笑ったのが久し振りだった、という意味だ。


「嬉しいよ。どうもありがとう、フィル」


 しかし、フィルは少し悲しそうな顔をする。


「それが、いいことなのか、悪いことなのか、俺には分からない」


「分かる必要はないよ」


「日記を書くんだ、月夜」


「うん」


 ときどき、月夜は右手を握ったり弛めたりした。それは、最近になって習得された、彼女の一つの癖だった。癖には、必ず存在する意味がある。その意味は、生物学的なものであることが多い。たとえば、不安になると腕を組む人がいるが、あれは、自分の臓器を守るための素振りだ。臓器を守るのは、つまりは安全を確保するためであり、安全を確保するのは、生物として死にたくないからだといえる。


 人間の行動は、そのほとんどが、生物学的な理由から成されている。社会学的な理由ではない。社会学は、生物学の中に含まれる、とも考えられる。それは、社会学に限った話ではない。情報学も、物理学も、ありとあらゆる学問が、生物学の領域とその大部分が重なっている。


 自分は生き物だろうか、と考えることが、月夜にはよくあった。それは、名前が「月夜」だからではない。当たり前だ。死を定義するには、まず生を定義する必要があるが、それさえできれば、ある個体が死んだときに、その個体はそれまで生きていた、と言うことができる。けれど、現在進行形で、その個体は今生きている、というのは難しい。たとえ生と死が定義できたとしても、状態が継続している、と言うのは困難を極める。


「なあ、月夜」フィルが言った。「おしくらまんじゅうを知っているか?」


「遊びのこと?」


「食べ物の名前じゃないな」


「知っているけど、やったことはない」


「どうして、子どもは、あんな遊びをするんだろう?」


「どうして、そんなことが気になるの?」


「ただ、なんとなく、ふと思っただけだ」


「やりたいから、じゃないかな」


「あれで、本当に身体が温まるのか?」


「うーん、分からない」


「エネルギーの無駄使いじゃないか?」フィルは話す。「温かく感じるのは、化学エネルギーが熱エネルギーに変換されるからだ。では、そもそも、熱エネルギーを、そのままの形で体内に保存することはできないのか? どうして、それができないように設計されているんだ?」


「応用を利かせるために、じゃないかな」


「面倒じゃないか?」


「生きるのは、常に面倒だよ」


「面倒なことをするのが、生きている、ということなのか?」


「そうかもしれない」


「では、お前は、今、面倒だと感じているんだな」


「日記を書く行為は、面倒ではない、とはいえない」


「なるほど」


「何がなるほどなの?」


「お腹が空いたか?」


「空かない」


「つまり、それは、面倒事を減らしている、というわけだ」


「何が?」


「お腹が空いたら、食事という面倒な行為をしなくてはならないだろう?」


「うん」


「だから、お前はお腹が空かなくなったんだ」


「つまり、生きるのを放棄しようとしている、ということだね」


「ああ、その通り」

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