第8章 淡々

第36話

 紗矢とは、大晦日の夜にまた会うことにした。月夜は、家に帰って、とりあえず風呂に入った。とりあえずでなくても、風呂には必ず入る。風呂から出て、いつも通りソファに座った。フィルも一緒だ。リビングの照明は点けずに、暗い空間の中で、呼吸する音だけが響いていた。


「どうした?」フィルが尋ねる。


 月夜は、目だけで彼を見て、それに応じた。応じた、とは言わないかもしれない。


「何を考えているんだ?」


「何も……」


「紗矢と、もう一度会ってくれるんだな?」


「そう、約束した」


「ありがたいね」フィルは話す。「もう、会ってくれないかと思った」


「どうして?」


「どうしてだと思う?」


 月夜は自分の右手を持ち上げる。軽く掌を握って、すぐに力を抜いた。


「ねえ、フィル」月夜は尋ねた。「一つ、確認したいことがある」


「どんなことだ?」


「紗矢が飛び降りたあと、どうして、君も、一緒に死んだの?」


 フィルはすぐには答えなかった。


 数秒間、黙って見つめ合う。


 空気は酷く冷えているが、今は気にならない。風呂から出たばかりで、身体は温かいはずだったが、月夜には、今はどんな温度も感じられなかった。


 フィルはそっぽを向き、小さく溜息を吐く。


 それから、彼は口を開いた。


「死にたかったからさ」


「どういう意味?」


「意味なんてないんだよ。ただ、そう思っただけだ」


「紗矢が本当に死んだから、何もかも嫌になったの?」


「あいつが死ぬ前から、俺は、生きるのが嫌だった」


「魂が、九つあるから?」


「そうかもな。しかし、それが断定的な理由であるとはいえない。何もかも、あとづけの理由でしかない。そうだろう?」


「うん、そうだね」


「あいつが死んでしまえば、もう、それこそ、本当に、俺が生きている必要はなかった。だから死んだ。それだけのことだ。……あいつが、俺のために、本気で屋上から飛び降りるのは、計算外だったがな」


「悲しくなかった?」


「俺を責めないんだな、月夜」


「責める? どうして?」


「紗矢を殺したからだ」


「紗矢を殺したのは、君じゃないよ。それに、紗矢は、誰にも殺されていない。自分で、自分を殺した。その判断は、どんな外的な要因があっても、彼女が自ら行ったものだから、誰のせいでもない、と私は考える」


「冷たいな」


「うん……」


 フィルは、月夜の膝の上に載った。彼女は彼の背中を撫でる。死んでいるはずなのに、フィルの身体は温かい。


「月夜、このままでいいのか?」


「このまま、とは?」


「紗矢のためではないことは、分かっているんだろう?」


「今、それについて考えている」


「考えている暇なんてないさ。お前が犠牲になる」


「犠牲になる、とは考えていない」


「結論が出なくても、行動することはできるだろう?」


「そうかな?」


「そうだったな。お前には、それができないことを、忘れていたよ」


 フィルは喉を鳴らす。


「仕方がない。俺が、手伝ってやろう」


「手伝うって、何を?」


「お前が結論を出すまで、俺が傍にいてやる」


「いつも、傍にいてほしい」


「分かった。いるさ」


「フィルは、紗矢が好きだったの?」


「自分では分からないが、長い間一緒にいたということは、まあ、そうだったんだろうな……」フィルは言った。「あいつは、心から俺を愛してくれた。だから、そんなあいつの愛情を裏切った俺は、最低だ。最近になってやっと気づいたんだ。まったく、遅すぎるにも程があるだろう? 実際に事態が起きてからでないと、どうなるか分からないんだ。もしもの事態が起きてから、ああ、あのとき、ああしておけばよかったな、と思う。俺は、そうだった。だから、お前は、そうならないことを祈っているよ」


「祈っても、何も変わらないよ」


「その通りだ。だから、お前は、行動しなくてはならない」


「まだ、結論は出ていない。方法も分からない」


「そうだな」


「どうすればいいと思う?」


「紗矢を助ける」


「それは、達成するべき目的だよ。方法は?」


「さあね……」


「フィルには、どうにかできないの?」


「俺にか? できるなら、もうとっくにやっているさ」


「そっか」


「当たり前のことを言うのは、頭が回っていない証拠だな」


「うん……。少し、疲れているのかもしれない」


「疲れたときは、どうしたらいいか、知っているか?」


「知っている」月夜は頷く。


「ほう。どうするんだ?」


 立ち上がって、彼女は答えた。


「お茶を飲む」


 冷蔵庫からお茶が入ったボトルを取り出して、月夜はコップに注いでそれを飲んだ。今日は、お茶ばかり飲んでいるな、と彼女は思う。そして、飲んでばかりいる、とも思った。水分を欲しているわけではない。少なくとも、彼女の意思がそうさせているのではなかった。


 リビングに戻って、ソファに座る前に、ふと、窓の外を見る。まだシャッターを下していなかった。その向こう側にウッドデッキが見える。


 ウッドデッキは、木でできている。それでは、木は何でできているのか? それは、有機物でできている。有機物とは、生物を形作る物質のことだ。


 生物を、形作る……。


 生物を、生み出すには、どうしたら良いのか?


 人間を、生み出すには、どうしたら良いのか?


 人間を、生み出す……?


「分かったかもしれない」月夜は、ソファに座って答えた。


「やっと気づいたか」ソファで待っていたフィルが言った。


「分かっていたの?」


「まあな」フィルは話す。「俺の口からは、言いたくなかった」


「優しいね」


「どう感じるかは、お前次第だよ」

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