感情裁判

晴れ時々雨

🌙

一審判決は死刑。

裁判長が硬い木のガベルを打つ音を聞きながら、私は被告人席でぼけっとしていた。自分のことなのにあまり実感がないような、すべてを受け容れているようなぼんやりした気持ちだった。

でもそんなに、裁かれなければいけないほど悪いことだろうか。私の罪状は「優しさ」を殺したことだそうだ。だいぶ前に「憤怒」が老衰で死んでから私はどこか間の抜けた日常を送っていた。彼女は悪者扱いされやすいキャラクターだけど、いなきゃいないで日常にキレがなくなる。結構彼女をあてにして生きていたようだ。死後少し寂しかったから「寂寞」は割と健康らしい。

「情熱」は生まれつき体が弱く、体調の良い日でも表へ出たがらなかった。小学校1年の春の終わり、爽やかな風が夏を引っぱり出そうと躍起になっていた5月の末、私の「情熱」は長い病床ののち、静かに息を引きとった。

でもなんとなくこの坊やのことを好きになれなかったので、早めに死んでくれてせいせいした。弔辞も「バイバイ」で済ませた。この子が死んで、私はのびのびとのらりくらり生きることが出来た。「情熱」はその健気さから他の感情と仲が良く、あとで気分を塞がせる「嫉妬」「謀反」たちも彼がいなくなったことにより居留地へ引っ越して行った。そのあと「嫉妬」は肺を患い、何度も死線をくぐり抜け、どうにか今まで生き長らえている。

「謀反」はそう気難しい質ではないので居留地でそれなりに楽しそうに過ごしている。彼は殆ど居留地内の牧場から出てこない。彼の地の一画に自ら建築した牧場にビトレイヤル・ファームと看板を出して、そこのチーズはまさしく予想を裏切る美味しさで、彼の職人気質な性質を伺わせた。


私は「記憶力」が老体のまま産まれた。記憶力翁は他の感情や精神機能が生まれる前から私のなかに存在し、私の発達を司っていた。彼は思慮深いのか呆けているのか定かでなかったが、思わせぶりな態度で私を混乱させた。カラフルな記憶たちのやんちゃさに手を焼き、甘やかして整列させる手を抜いた。私が世間に不安を与える人格トータルパーソンの持ち主だと思われるようになったのも翁のせいだと言っていい。しかし彼を責める気はない。年寄りだから。


ときに「優しさ」について触れなければこの話の終着点に到達しないのを思い出した。翁は良い仕事をしすぎる。

「優しさ」は空気のように、あらゆる感情にまとわりついている。改めて発揮されることはむしろ少なく、彼女は他の激しい感情たちを落ち着かせる、いわばブレーキのような存在だ。性善説を唱えるつもりもないが、彼女の存在がすべての精神機能を鈍らせ、他と自分の感情の角張った部分を滑らかにし、物事を冷静に判断させる役割を担っている。優しさは許しと手を繋ぎ、荒ぶっているさまざまな危機管理職の肩を抱く。しかし実のところ、彼女は冷酷より冷酷な部分をもち、決して自らが表舞台へ立とうとはしないのだ。彼女の責務はその持ち味を他人に発揮するのではなく、主に内部の統制を計るためのポストであり、顔に似合わず、私の感情たちを従えるのに長けていた。

今糾弾されているのは彼女を殺した罪なのだが、果たして私は彼女の亡骸を見送ったのだろうか。死体を見下ろした覚えがない。これは翁の仕業ではないことはわかっている。翁が及ぼす力は身体外の事象に重きを置いている。内部干渉は彼女の十八番なのだ。そう思って記憶力翁の顔を見ると、なんと老いさらばえていることか。

弁護団が証拠品の折れた花束と割れた花瓶を突きつけて喚いている。それに触れると、翁は羊歯のように頷いた。

ああそうだ。あの日彼女は死んだ。彼女は冷静さを保ったまま、漆黒の口を開けた深い淵のなかへ身を投げ自死したのだ。

彼女とは長い付き合いだったので、居なくなったことを思い出したら寂しさが僅かに顔を出した。

裁かれてどうなるわけでもない。控訴はしない方向になるだろう。

もうどうでもいい。心の新生児室で人工呼吸器を外された何かが産声を上げたのが聞こえた。

ははは。

空っぽなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

感情裁判 晴れ時々雨 @rio11ruiagent

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る