水族館で泳ぐ恋

ササガミ

第1話

 上谷の同僚である、浅岸という男はとてもモテる。………らしい。

 この間も、誰それが浅岸に告白したらしいよだとか、とにかくそんな噂を、更衣室とは名ばかりのロッカールームで誰かと誰かが話していたのを上谷は耳にしている。


 会社の女子制服が廃止されたのは、上谷が入社するよりの前のことだ。ジョギングを兼ねて通勤するだとか、終業後にどこかに行くだとかの理由以外で着替えに使う人間は少ない。そんな更衣室を利用するどころか、今日は会社に向かうこともなく、彼女は待ち合わせ場所である東京駅にいた。


「おはようございます、上谷さん」


 待ち合わせ時間の三分ほど前、やってきたのは、今日の仕事で一緒に移動することになった浅岸だ。普段は上谷の隣席、外回りなどで出かけることも多い。爽やかな笑顔が素敵な好青年だ。


「おはようございます、浅岸さん」


 浅岸に対し、折り目正しく上谷は答えた。普段はひとつに縛っている髪が、軽く会釈をしたことで肩を滑った。

 俗に言う『イケメン』とのお出かけに、彼女の内心はかなり弾んでいるのだが、傍目にそれがわかる者はほとんど皆無だろう。むしろ、ほとんど黒にしか見えない、紺色の眼鏡フレームの目は冷えきっているようにしか見えない。


「今日は下ろしてるんですね」

「………え?」


 浅岸は、柔らかい表情で、自分の肩を払うような仕草をして見せた。


「髪です、髪。なんかちょっと、雰囲気変わりますね。俺、ドキドキしそう」


 ああ、と上谷は軽く髪を撫でるような仕草をする。


「今日は、パーティーだから。チケットって、浅岸さんが持ってるんでしたよね?」

「はい。俺が持ってます。………行きましょう」

「そう。手配、ありがとう」


 上谷をエスコートするように、浅岸は歩き出す。ちらりと自分の背中に回された腕を見てから、上谷は軽く首に触れた髪を後ろに払った。


 ほとんどの会社の出勤時間よりは遅いものの、朝の東京駅は当然のように込み合っている。


「新幹線に乗る前に、何か飲み物でも買っていきましょうか」

「いえ、わたし、家の近くでもう買ってあるので」

「そうですか。じゃあちょっとだけ、失礼しますね」


 浅岸は申し訳なさそうに言い置くと、近くの自動販売機に走っていった。その背中を何とはなしに見ながら、上谷は人の流れの邪魔にならないよう、通路の端に寄る。


 浅岸の身長は普通といっていいくらいか。髪は会社員らしい長さの、サラサラした柔らかそうな髪質で、バスケットボールか、フットサル辺りをしていそうな雰囲気のある青年だ。仕事もできる。上谷は、浅岸がミスらしいミスをしたところを見たことがほとんどなかった。字も綺麗だし、机の上も整っている。ただ、潔癖症というわけでは無さそうだ。休憩中に落としてしまったお菓子を平気で拾って食べていたり、物をよく落としていたりと、どこか抜けたところがある。上谷から浅岸に対する評価はかなり高い。

 ただし、拾い食いについての案件にのみ、かなり評価を下げている。


 顔は整っていて、けれど、整いすぎているわけではなく、ほどよく中の上………いや、上の中といった感じがまた、隣にいたいと感じさせてくれるのだろう。………と、やはり感情をあまり外に出さない落ち着いた表情で、上谷はひとつ、うなずいた。


 毎年、新入社員の女の子たちが揃って顔を赤くしていくのがいっそ、面白い程だと浅岸の隣の席で仕事をする上谷は思っている。


 ただ、特に、上谷と浅岸の二人が親しいわけではない。毎日机を隣にして、別の仕事をしているだけだ。簡単な挨拶程度を交わすだけの間柄である。


 だから、乗った新幹線の中でも、とりたてて会話が弾むことなど無かった。最初からそういう予感しかしていなかった上谷は席に着いて早々にタブレット端末を取り出したし、浅岸も同じようにタブレットでニュースページを見ている。


 今日の二人の仕事は、仕事と言えば仕事なのだが、平たく言えば単なる食事会である。


 付き合いのある会社が新商品を発表するだとかで、二人は会場を賑やかす為だけにそこに向かう。他の支店からも何人かが向かうことになっているが、残念ながら、出席リストに、上谷の知人は一人も居なかった。浅岸についてはわからない。


 上谷にとって、知らない場所に向かい、挨拶を交わし、ニコニコ笑って、食事をして、二、三杯のアルコールを飲めばおしまいの簡単なお仕事である。


 降りたのは、上谷にとっては初めての駅だった。同じ日本の大都市、似たような風景だけれども、いつも利用する駅とはやはりなにかが違う。なんだか物珍しいと思いながら、彼女はスマホを取り出し、会場への案内地図を確認しようとした。


「こっちですよ、行きましょう」


 地図も見ずに歩き始めた浅岸に、上谷はわかりにくく感嘆する。さすがだ、地図が頭に入っていたのだろう。仕事の出来る男は違う。………と、かなり称賛の言葉で心中は一杯なのだが、傍目にはうなずき、歩き出しただけだった。


 向かうのは駅から歩いて十分程にあるホテルの、普段は結婚式の披露宴でもやっていそうな会場だ。床の絨毯の柔らかさは、上谷にとって非日常の、少々歩き慣れないものだった。


 受付の前に………と、彼女は辺りを見回した。

 背筋の良い、何をするのも落ち着いて見える彼女だから、キョロキョロというよりはゆったりと辺りを見回す、という表現がふさわしいだろう。


「俺、ちょっとトイレ行ってこようと思うんですけど、上谷さんはどうしますか?互いに荷物のあずかりっこでもしませんか」


 何かを探しているらしい、と察して声をかけた浅岸に、上谷は表情を緩めた。上品な微笑みだと浅岸は感じているが、上谷は今、男性ってどうして、御手洗いに行く回数が少なくて済むんだろう、などとかなり下らないことを考えている。

 だが、自分ばかりが待たせる訳ではないのだと、そういう意味で上谷がホッとしたのも事実で、それで大分表情が柔らかくなった。


「ありがとう。わたしは後でいいから、先にどうぞ」

「ありがとうございます」


 また小走りに、浅岸は御手洗いに向かって行く。その背中に、上谷の中では浅岸に対する好感度がまた上がって、見てるだけなら自由だしね、と自分を納得させていた。


 わぁぁ、と、壁一枚隔てたような拍手と歓声が聞こえ、それがすぐにクリアになった。どうやら、商品発表の場であるお食事会場の隣は、結婚披露宴の真っ最中らしい。お色直しをしたのだろう、ピンクのドレスとグレーのモーニングを着た二人が寄り添い立っていた。


 良いものを見たな、と上谷の頬は完全に緩んでいた。


 出費はとてもとても痛いものだが、上谷は結婚式というものが大好きだ。綺麗なドレスには憧れるし、あんな幸せそうな瞬間に触れられるのはとてもありがたいと考えている。

 この次の結婚式はりさちゃんか、ほのかちゃんか、どちらだろう、だとか、ご祝儀貯金をしておこうかな、とか、今度転職するときは、ウェディング関係もいいかもな、なんてことを上谷は考えていた。


「ああいうのってうらやましいですよね。俺もいつか、結婚したいです」


 上谷がぼうっとしていた間に、浅岸がトイレから戻ってきていたらしい。いきなり声をかけられて、上谷は驚き、ほんの少しだけ目を見開いた。だが、それは一瞬だけだ。すぐにいつもの整った、営業的な笑顔に成り代わってしまう。


「今度は俺が荷物を預かってます」

「よろしくね」


 上谷が向かったトイレは少しばかり混んでいた。

 女性のトイレというものは、基本的に個室滞在時間がやたらと長い。上谷自身もその女だというのに、みんなは中で何を一体やってるんだ、と少々失礼なことを考えるほどには。

 わたしは君たちの半分の時間で終わるぞ!もっときびきび動け!………などと、言える訳が無いので上谷は静かに順番を待つ。


 それで大分時間がかかってしまった。待たせている浅岸に申し訳ないと、上谷は少しだけ、小走りになる。


「お待たせ」

「………いえ」


 預けていた荷物、といっても、そんな大袈裟なものではない。浅岸は大きめのカバンがひとつ。上谷も似たようなもので、大きなバッグを浅岸に預け、小さなバッグのほうは自分で持ち歩いていた。


 隣の披露宴会場の扉はしっかりと閉じられていたけれど、歓談の声が漏れ聞こえている。


 自分の荷物を受け取ろうかと上谷が手を伸ばしたところ、浅岸に取られてしまった。


「このままクロークに預けて来ちゃおうかと思うんですけど、貴重品とかはありますか?」

「貴重品はそっちにはないかな。そうね、お願いしちゃいましょ」


 さすが、仕事のできる男、浅岸。自分であれば何も考えず会場に持ち込み、もたつくところだった。………と上谷の中の浅岸好感度ポイントがまたひとつ、貯まっていく。


 受付を済ませ、会場に入る。

 披露宴スタイルというよりは、晩餐会スタイルというのだろうか、会場には丸机ではなく長机が並んでいて、そこに着席していく形になっていた。


 受付で貰った席次表によれば、二人は離れて座ることになるようだった。仕方ない。ここまで知り合いと一緒に居られただけでも、良しとしよう。………と、小さく上谷はうなずいた。


 会場は費用節約を図ったのか、少々手狭だった。こんなに狭いのなら立食スタイルにしてくれたほうが良かったのに、と上谷は内心で毒づきながら、案内された席に向かう。当然、両隣は知らない会社の知らない男性、正面どころか、斜め向かいも知らない男性。最早上谷は内心の毒づきを止められそうにない。


 彼女は、美味しい食事だけを楽しむことにしようと小さくうなずいた。


 なんとなく、の流れで上谷は両隣の男性たちと着席のまま、自己紹介をする。さすがに名刺交換までする人間は、この会場ではいないようだった。そのまま、ありふれた世間話をするけれど、彼女にとってはこれも非常につまらないものだった。愛想笑いが限界だ。知ってるってそんな事、と言いたくなるような話題をそうなんですね、と営業的な笑顔で受け流していく。


「失礼します」


 やがて、ホテルマンらしき男性がやってきて、上谷の左隣の男性に声をかけた。その後ろには浅岸が立っていて、上谷は一体何事だろうと首を傾げた。


 やがて男性は嬉しそうに席を立ち、そこには浅岸が座った。


「交換して貰ったんだ。利害が一致して良かったよ。ほら、俺の席の隣の会社の人、ここの会社の席の人と接触持ちたかったらしくてさ」

「いいの?そんな事して」

「いいんだよ」


 そう言って、くしゃっと笑った浅岸の笑顔に、ああこれはモテる男の笑いかただな、と上谷は思う。


 彼は、誰に対しても感じが良い。親切で、優しい。だから女の子はみんな、こんな笑顔を向けられて、彼に期待をしてしまうのだろう。


 商品の発表がされ、食事会が始まった。会場のざわめきに負けないようにか、彼は上谷の耳に顔を寄せて話しかけていた。

 距離感を考えてほしい。わたしの椅子に置いたその手は何なんだ、と上谷は思いつつも、太ももに触れないギリギリの位置に置かれた浅岸の手を払いのけることはできなかった。鼻先をくすぐるようなコロンの香りに、この動悸は食事に添えられたワインのせい、勘違いしてはいけないと、鉄壁の笑顔で彼女は自分自身を強く戒めた。


 食事会が終わり、会場を出る。今ごろはプレスリリースも済んでいることだろう。隣の結婚式場はとっくに人がはけて、遠くの壁際には記念撮影をしているらしい、パーティードレスやスーツ姿の人々がちらほらといた。

 クロークで荷物を受けとると、浅岸は良いことを思いついたとでもいうように、パッと表情を輝かせた。


「ねぇ、上谷さん。すぐ近くに水族館があるんだって。どうせ直帰なんだし、新幹線まで時間もある。せっかくだから寄っていかない?」

「水族館」

「そう、お魚さん。それでさ、東京に着いたら晩御飯を食べて帰ろうよ。大丈夫でしょ?みんなにお土産も買っていきたいし」


 さすが隣席、できる男浅岸は上谷の趣味をとっくに把握していたらしい。

 目を輝かせた上谷の手を、浅岸はとても嬉しそうに握って、歩き出した。


 これは、デートじゃない。デートじゃないし、彼はきっといつも誰にでもこうだから、女はみんな勘違いするんだ、自分も勘違いしては恥ずかしい思いをするだけだ。………そうやって上谷は改めて、心の兜の緒を絞め直す。


 仕事ができて、穏やかで、人当たりが良ければもう、それだけでモテるだろう。それでいて見た目が普通以上、近くに寄ればほんのりコロンか何かの香りがして、清潔感もある。


「楽しかった………!」


 上谷は、水族館が大好きだ。特に魚に詳しい訳ではないけれど、とにかく魚が泳ぐ姿はいい。一緒にいるのが会社の同僚だということを忘れ、真剣に水槽に見入ってしまったし、お土産物コーナーではあれこれと買い漁ってしまっている。こんなのに付き合わせて申し訳ない、と我に返った上谷が少し凹んでいたところ、浅岸もそこそこの買い物をしていた。いったい自分たちは何をやってるんだ、と売店で二人、笑いあってしまった。


 水族館に併設されたレストランはとっくに閉まっていて、時間に余りもないということで、急いで二人は駅に向かった。


「浅岸さんもお魚好きですか?」

「今まではそんなでもなかったかな?でも、今日、水族館が好きになった。一人で行くのは寂しいし、できたらまた、上谷さんに付き合って貰って行きたいな」


 天然タラシはしれっとそんな事を言う。


「いいですよ、たまになら」


 行きと違い、帰りは話が弾んだ。会話の内容は先ほどのパーティーについてが二割、会社のことが三割、水族館についてが四割に、プライベートについてが一割。


「え、上谷さん、彼氏とかできたことないの?好きな人がいたことは?」


 一本くらいはいいよね?と二人でアルコールの缶を手にすれば、それは心も少しは緩んだりもするだろう。まして、食事会でもアルコールを嗜んでおり、更には先ほど買ったばかりの水族館グッズで上谷の幸せゲージは満タンである。


「んー、誰かをちょっといいなって思うことが無かった訳じゃないですけどね、でも、よくわかんなくて」


 えへへ、と緩んだ笑顔を上谷は浅岸に向ける。


 本当に良くわからないのだ。上谷だって、誰かを想って胸が苦しくなったことがないわけではない。けれど、付き合うとか、付き合わないとか、一体何をどうしたらそうなれるのか、付き合い始めたら一体何をするものなのか、その辺りが上谷にはよくわからなかった。


 それに、自分のような、特に美人でもかわいくもない、平々凡々な容姿の女に好かれて、男性はうれしいものだろうか?………そう思うと、上谷は尻込みしてしまう。


「浅岸さんこそ、彼女が途切れたこと、無いんじゃないですか?この前も告白されたばっかりって噂、聞きましたよ」



 上谷の言葉に、浅岸は露骨に嫌そうな顔をした。浅岸でも嫌そうな顔をすることがあるんだな、と上谷は浅岸の新しい一面を発見した気分になる。

 彼はいつも穏やかで、誰にでも親切だった。


「ほんと、なぁんで皆、勘違いするんだろうな」


 苦笑いをして、くいっとアルコールを煽った喉が、男らしいと見とれていることに、きっと浅岸は気付いていないだろう。


 見とれつつも、上谷の内心は大忙しだ。今日、わたし、勘違いしたような、変な言動してなかったよね?とあわてて自分の行動を振り返っている。………大丈夫、たぶんだけど。大丈夫だよね?と冷や汗のひとつもかきたいところだが、動揺はいつもの笑顔でしっかりと押さえ込んだ。


「えっと………上谷さんは違うから」


 缶から口を離し、上谷の笑っていない笑顔を見てしまった浅岸は言いにくそうにうつむき、呟いた。

 その仕草に何かを一瞬、期待してしまった上谷は、更なる動揺を押さえ込むのは無理だと、缶の中身を一口こくりと飲み下した。すぐには浅岸のほうを見られそうにない。


 落ち着こう、わたし。彼はいつも、誰にでもこうなんだから勘違いはいけない。深呼吸、深呼吸、と上谷は自分に言い聞かせる。ある程度落ち着いてから、上谷はうつむいたせいで肩にかかった髪を軽く後ろに流す。


「そっか。浅岸さんもいろいろ、大変なんだね」

「えっと………その、ここ三年は俺、誰とも付き合って無いんだけど」


 東京駅から乗り換えて会社近くの駅に着き、二人は一旦、ロッカーに行きよりも増えすぎた荷物を預けた。

 うっとりするような夜景のレストランで食事を取り、その後、気軽に入れる飲み屋に行って、アルコールを追加する。今日一日でけっこうな金額を使ってしまったような気がする、と上谷は遠い目になりかけたが、楽しかったのは事実だ。明日からは心の兜の緒だけでなく、お財布の紐も引き締めよう。


 アルコールでふわふわとした頭で浅岸におやすみなさいとさよならを言い、上谷はアパートにある自分の部屋に向う。

 アパートの入り口で浅岸とは別れている。さすがモテ男、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。

 ふと、上谷は酔いのせいで、何かの判断力が鈍っているような気がした。浅岸の家は同じ駅で良かったのだろうか………?と思いかけて、男を家に上げなかったのだから、良いだろう、と玄関の鍵を閉めた。

 週末の休みに、早速魚にハマったらしい浅岸が、水槽を選ぶのだとはしゃいでいた。それに付き合う約束をさせられたような気がする。明日にでも確認しておこう、と酔った頭で上谷は手帳にメモを書き残した。


 ただ、上谷は、浅岸の言動を勘違いしないよう、注意することだけは忘れていないつもりだ。





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