雨雲の下の相合傘
舞川秋
あたしのモノローグ
相合傘。
人によって抱く印象の異なる行為だとは思う。
思うけれども、多くの場合親しい相手──家族や恋人──とを思い浮かべるのではないだろうか。
いや別に誰とやったって法令に違反するわけではなく悪行でもなんでもなく良心に苛まれる謂われもないのだけれど──あたしの中では、やっぱり親しき人とする行為なのである。
だから。
単に博愛の精神でされると困ってしまう。
いや、博愛よりノブレスオブリージュとでも呼んだ方が近いだろうか?
家族でも親友でも恋人でもなく、ぎりぎり
背の高い彼女は軽々と大きな傘を差していた。
「どうしたんですか?」
あたしの視線に気づいた彼女は言った。いや何でもと適当に返事をしておく。
あたしが傘を忘れたのが全ての元凶だった。確か折り畳み傘を通学鞄に仕込んだような気はするのだけれど、ないのだから仕方がない。
高校から駅まではそれなりの距離だか、耐え難いほどではない。濡れ鼠になって帰ることを覚悟したとき、相合傘を提案したのが彼女だった。
周囲の目もあった。相合傘は恥ずかしいけれど、頑なに拒めばもっと目立ってしまう。
しぶしぶあたしは了承し。
そのまま雨がやむ気配はなく、傘が意義を失うほどの豪雨になる様子もない。
だから、あたしは彼女の傘から逃げられない。
再び、彼女を見上げる。
「何かあるんですか? そんなにわたしの顔じろじろ見て」
「いや、そうじゃなくて──」
「あ、水溜まりあるから危ないですよ」
「あ──ありがと」
彼女は貴人だ。雲の上の人だ。
そう言って差し支えないと思う。
肩書きを無数に並べ立てればすぐ判ることだ。
あたしには記憶力がないので社長令嬢くらいしか覚えていないけれど、驚くほどくっつく肩書きが多い。
それぞれの持つ意味に感心する前に、あたしは彼女の記憶力に感嘆してしまった。
そんなあたし如きと同じ高校に通っていることは反証にならない。あたしはちょっと無理して県内有数の進学校に行ったので、彼女の学力は申し分ないことが判る。あたしがこの進学校の最小値で彼女が最大値なだけだ。
「あ、車が来ますよ」
「え? うん──」
いや、立場や学力など本質ではない。
その挙措こそ彼女の高貴さの
今だって、当たり前のようにあたしを自動車の飛ばす水から庇うように動いている。あたしは為されるがままだ。
例の多すぎる肩書きにしたって、彼女は自己紹介のとき、その多さをネタにした
その冗談のお蔭かは定かでないけれど、彼女の地位を羨む同級生は多いが妬む級友は少ない。
要するに、彼女は誰からも好かれるような人柄だということ。
雨は一定のペースで降り続いていた。
あたしは彼女に話しかけようとして、しばし躊躇って、それから口を開いた。
「あの──」
「何ですか?」
「どうして傘を?」
あたしなんかのために、とまでは訊けなかった。
彼女はきょとんとする。そんな表情でも気品を失わないのは流石だ。
答えは判っている。あたしは知っている。
彼女は博愛の精神の持ち主だから、困っている人がいれば見捨てられようはずがなく、手っ取り早い解決策があれば躊躇しない。
ただ、それだけのはずである。
けれども、あたしは訊かずにいられなかった。
もし、あたしの予想が外れていたら。
まずあり得ないことが起きていたら。
もし、彼女が、あたしを特別な存在だと見なしていたら。
それは──。
さあ、と彼女は言った。
「どうしてだと思う──?」
彼女はとても魅力的な、悪戯っぽい微笑みを浮かべていて。
だから、あたしはそれ以上の追求ができなくなってしまう。
「そ──それは、やっぱり目の前で困ってたから?」
「まぁ──そういうことにしときましょうか」
「そういうことって何さ?」
「まあ良いじゃありませんか。──あ、そろそろ駅ですね」
彼女はくすくすと笑った。
結局。
駅についたのであたしたちは別れ、聞き出すことはできなかった。
あたしは無能だ。
部活に勤しんだり校舎で雨宿りしている生徒が多いのか、ホームに制服姿は少ない。
彼女は上りの列車。あたしは下りの列車。
あたしは一人でホームにたたずみ、ため息をつく。
ああ、どうして真実にたどり着けないのだろう?
もし、彼女があたしのことを特別視していたら──。
そんなことには耐えられないのに。
博愛でされては困るけれど──。
あたしが特別なのだとしたら、困るどころでは済まない。
彼女は雲の上の人である。
彼女自身や周囲の認識はともかく、あたしはそう思っている。
あたしと釣り合わないどころではない。
雲の上で陽光を思う存分浴びるのが彼女で。
雲の下で雨にうたれるのがあたし。
この感情は、きっと憧憬というより畏怖なのだろう。
あたしは彼女を畏≪おそ≫れているのだ。
彼女はとても素晴らしい人物だ。
残酷なくらいに。
彼女と比べれば、あたしは何者でもない。
肩書きはなく、学力もなく、挙措が優れているわけでもない。
彼女に近づくほど、あたしは空っぽだと思い知らされる。
級友として接するだけで、数えきれないほど打ちのめされてきた。
それなのに、これ以上近づこうものなら──。
周囲がどう見るかは関係ない。
あたしが比べてしまう。
あたしは、彼女と比べれば無価値だと悟ってしまう。
あたしは高貴ではない。高校生にもなった今では常識人のような顔をしているけれども、昔からそうだったわけではない。小学生の頃やらかしたことの数々を知れば優しい彼女でもあたしを軽蔑するだろう。
月が鼈≪スッポン≫に恋をしたらどうなるだろうか? 鼈は押し潰されるに違いない。
甲羅があったところで、月の質量を前にしてはぐちゃぐちゃに砕けるだけだ。
雲の下のあたしは、好意を受け止められるほどにも拒めるほどにも強くない。
好意が存在しないと祈るしかない。
もちろん月が鼈を好くことなどあり得ない。
でも、もしも、そんなことがあったら──。
結局真意は判らないまま。
どんよりとした雨雲のように、不安が広がっていく。
雨雲の下からでは、雲の上の存在の心など決して判らない。
それは月が悪いわけではない。
月にも雲の下は見えないだろう。
相合傘。
人によって抱く印象の異なる行為だとは思う。
思うけれども、多くの場合雨模様を思い浮かべるのではないだろうか。
いや別に晴れた日に日傘でやっても法令に違反するわけではなく悪行でもなんでもなく良心に苛まれる謂われもないのだけれど──あたしの中では、やっぱり雨の日にする行為なのである。
分厚い雲が太陽を覆い隠す雨の日に。
雨は激しくなりつつあった。
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