第三章 その8 樟林 桂(くぬぎばやし けい) 『生き死にの境界線。』

どうだ?

蜂蜜入りミルクの味は?

温まるだろう。

こうしてバーナーでお湯を沸かしてコーヒーを飲んでいるとあの頃を思い出す。


雪山ではな、雪を鍋に入れて溶かして飲むんだ。

汚い?

まぁ煮沸してしまえば変わらんよ。

たまに葉っぱやら苔が浮いていたがな。


…私がサークル仲間達とその山に挑んだのは大学四年生のゴールデンウィークだったよ。


悪天候が続いてな。

私達は頂上を目前にしながら足止めを喰っていたのさ。

食料も乏しくなってきて。

私のチームが途中まで偵察…ロープザイルを貼ったりする先導役だな…に向かう事となった。


天候は悪かったが…。

私は反対しきれなかった。


なるべく距離を稼ぐ為に真夜中日が変わる前にベースを出た。

凍てついた風は身体を切り刻むような、鋭い音を立てる。

それに混じって雷鳴が聞こえた。

いや、実際は何メートルもの高さの氷河が砕ける音だったのさ。

だが間近で聞くとバリバリと透き通った、乾いた、嘘みたいに轟く音を立てるのだ。

あの透明感のある、恐ろしい音を私は表現出来ないな。


風と雷鳴のような氷河が砕ける音、自分の息遣いだけを聞きながら黙々と歩いた。


進行は遅れていたな。 

現地のガイドの制止を振り切って、仲間が歩き出してしまった。

そして、クレバスに落ちたのさ。

私と、な。


命綱のザイルは途中で切れたのだと…思う。

我々は冷たい氷に叩き付けられたのだから。

幸い二人とも生きてはいたが、私のパートナー…だった男は既に様子がおかしかったな。


人間というのは、神経質すぎると生きていけないのかもしれないな。

経験したことの無い怪我をした時、人は冷静ではいられない。

アイツはあの時点でもう、助からなかったのだろさ。


◇◇◇

『テツジ、テツジ無事か!?』

『ピッケルを…ピッケルを落としたぞ!?荷物も、荷物もどこだ』 

『テツジ、動くな』

『立てない!?なんで立てない!?』

『テツジ、お前、足が!動くな。その足では』

『ピッケルを探さなくちゃ。荷物も荷物を』

『仲間が来る、動くな。今度滑落したら助からないぞ』

『カミナリが、カミナリだ?落ちるぞ』

『落ち着け、テツジ。あれは氷河の砕ける音だ』

『ピッケル…俺のピッケルを。登らなきゃ。ピッケルがあれば登れるはずだ』

『動くな。仲間が…来てくれるさ』


私達は寄り添って座り込んだ。


『くっついていれば良い。それで夜明けを待とう。テツジ』

『荷物…荷物を』

『ああ、探そう。明るくなったらな。このまま人生が終わるとも。愛しているよ、テツジ』

『…ピッケル…ピッケルを探さなきゃ』

『うん。探そう、一緒にな』


私は自分が目を覚ます事はないと思ったな。

酷く疲れていたし、この天候で仲間が来る事も期待出来ない。

それで自分の人生は終わりだと思っていた。


どれ程の時間が経過したのだろう?


私は確かに日差しを感じたんだ。

吹雪が止んで、クレバスの中に日の光が届いたんだな。

不思議なものさ。

決して暖かな日差しではなかったはずだ。

だが、太陽の光が冷え切った身体に何か力を与えてくれた。

今ではそう思える。


そして私は目を開けた。

目を開ける事がこんなに億劫だと感じた事はなかったがな。

おまけに瞼が凍りついてバリバリと音を立てながら。

それでも。

私は


だが。

テツジは


いいかい?


人の生死の境界線なんて、そんなものなのさ。






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