新人賞がなんぼのもんじゃい!(4/5)
背後でキーボードがカタカタとビートを刻むのを耳にしながら、私は中空に視線を彷徨わせた。
ぼんやりとした違和感が徐々に輪郭を伴って、胸騒ぎへと発展していく。
「あの、先輩。さっき『新作の構想を練る』とか言ってませんでした?」
振り向きざまにそう尋ねると、先輩は私の方を見向きもせずに、そうだ、と首肯した。
「じゃあ、今連載してる奴はどうするんです? 先輩って同時連載はしない人じゃなかったでしたっけ?」
「無論畳むつもりでいる」
至極あっさりとした回答。
反して、私を襲った衝撃は絶大たるものだった。
先輩が現在手がけている終末医療現場を舞台にした医者と看護師の物語『性と死』は、ネット受けが芳しくない先輩の小説にしては珍しく好評を博している作品だ。ブックマーク登録者数は他の人気作と比べるとやや少ない傾向にあるものの、多数のコアなファンを獲得することに成功しており、最新話が投稿されるたび一定数の反響が寄せられる。投稿サイトの現代ドラマ部門で週間ランキングに掲載されたことも何度かあった憶えがある。
かくいう私も、エピソードが更新される毎週月曜19時を心待ちにしている隠れファンの一人だ。さすがにコメントを送るのはプライドが邪魔するのもあって控えているが、いつか先輩の鼻を明かした後に(つまり、私が小説家デビューした暁に)言ってやろうと、各話ごとの感想をスマホのメモ帳に書き溜めている。
方々から根強い関心と評価を収めている本作をなぜこのタイミングで打ち切ろうとしているのか?
まだ回収されていない伏線は山ほどあるし、最新話では新キャラも登場したばかりだったはずだ。ストーリーの展開的にも完結はまだまだ先のことだろうと高を括っていたのだが……。
「その、理由をお尋ねしてよろしいですか?」
こちらの声が聞こえていないはずがないのに、先輩は作業に没頭するふりをして無視を決め込んでいる。
いくら待っても質問の答えが返ってくる気配がなかったため、少し訊き方を変えてみた。
「もしかして、続きが書けなくなったとか?」
不意にキータッチの音が止んだ。
先輩の視線が渋々という具合に正面の私に移ろう。
「書こうと思えば書ける。プロットは最終話まで完成してるし、これといって筋書きに不満もない」
だったらなおのこと打ち切る必要なんてないじゃないか。
まるで要領を得ない話に、私は無言のまま唇を尖らせて不満の意を示した。
先輩はおもむろに腕組みしてから「ただ……」と言葉を続けた。
「未来が見えなくなった」
まるで苦いものを吐き捨てるような口調だった。
「俺は小説家になるために小説を書いている。だが、この小説は俺を小説家にはしてくれないと悟った。限られた時間を犠牲にして未来のない作品の連載をだらだら続けるのも不毛なだけだからな。それで、いっそいちからやり直すことにしたのさ」
思い切った決断を明かされて、私は途方に暮れた。
自分が書いた作品は言うなれば我が子も同然の存在だ。その作品と向き合った時間が長ければ長いほど情や愛着も沸くし、手塩にかけて育てた作品に心ないコメントを寄越されたりしたら当然腹も立つ。
執筆に対するモチベーションが潰えない限り、自作をエンドまで書き切りたいと願うのはある種の親心であり、それが共に成長を見守ってくれている読者への誠意でもあろう。それだけが私の唯一と言ってもいい、書き手としての信条だ。
故に先輩の判断が非情に思えてならず、率直に言ってショックだった。
……とはいえ、作品はあくまで作者自身の所有物だということも理解している。
読者にできることと言えば、せいぜい「やめないでくれ」と嘆願して作者の心変わりを期待することくらい。当然そこに強制力は存在しない。
私は激しい葛藤の嵐のただ中にいた。本心を明かすなら、泣きすがってでも打ち切りの再考を願いたいところだった。だけど私の中のちっぽけなプライドがそうすることを許してくれず、結果として歯がゆい気持ちを抱えたまま閉口することを余儀なくされるのだった。
だが、勘の良い先輩の前でそんな隙だらけの態度を見せてしまうのは悪手だった。
「もしかしてお前、読者だったのか?」
こちらの虚をつくように先輩の口からストレートパンチが放たれる。
「いや、えぇっと……」
しまったと思ったが時すでに遅く、先輩の表情はふてぶてしいくらいニヤついたものに変わっていた。
「期待してろ。次はもっと面白いもん読ませてやるから」
自らの手前勝手な理由で作品を打ち切ると発表したばかりの発言とは思えない。
私はまたしても呆気に取られてしまった。
軌道に乗っていた意欲作を手放すというのに、随分さっぱりしているというか前向きな気持ちでいるみたいだ。そうなると今更慰留しようという気も失せてくる。
先輩の心がすでに作品から離れているのだから、これからいかなる説得を試みたところで改心させられる余地はないだろう。
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