私はクラゲになりたい(6/8)

 館内の喫茶店でホットミルクティーを傾けていた最中、ふいに隣の窓ガラスがゴンゴンゴンと叩かれた。何事かと思って横を見ると、ガラスの向こう側に先輩が張り付いていた。

 いつもの憮然とした表情だ。まあ何が言いたいのかは察しがつく。


 Tシャツに濡れ跡があり、髪も少し湿っている。案の定、水を被ったらしい。みすぼらしい有様だが、そんなにまでなって彼は何を学び得たかったのだろうか。


 数秒私を睨みつけた後、先輩はさっと身を翻して喫茶店に足を向けた。それから一目散に私のもとにやってきた。


「勝手に離れるなと何度言ったらわかるんだ」


 聞き分けのない子どもを叱りつけるように、先輩は開口一番そう低く怒鳴った。


「……ドチラサマデスカ?」


 先輩の視線から逃れるようにそっぽを向く。

 周りの人たちにこのずぶ濡れの男の知り合いだと思われたくなかった。


「何をわけのわからんことを」


 先輩は真向かいの席に腰を下ろす。

 やがて注文を取りにきた店員さんに先輩はホットコーヒーを注文した。

 それから店員さんが立ち去った後、テーブルの隅に置いてあるメニューの冊子に手を伸ばし、パラパラと中を眺め出した。


「見ない間に随分と派手な格好になりましたね」


 まるでドブネズミみたいだ。

 濡れるとわかっていて、なぜ代えの服を用意していないのか。


「やはり中抜けしていたんだな。まったく、何しにここまで来てるんだか」


 メニューに視線を走らせながら先輩は嘲笑うように口の端を持ち上げる。

 私はムッとして口を尖らせた。


「それはこっちの台詞です。なんですか、さっきの茶番は?」


「茶番?」


「アシカショーですよ。いい年して、なにアシカとキャッチボール始めちゃってるんですか。ほんと、呑気なもんですよ。遊ぶのに夢中で気付いていなかったでしょうけど、あの場にいる観客もスタッフさんも全員ぽかーんとしてて、会場中の空気が冷え切ってましたよ。あー恥ずかしっ。少しは周りの空気を読むことを覚えてくださいっ」


 先輩はふんと鼻で笑って、口元を歪ませた。


「少しはいいエンタメになっただろ。調教師や前の子どもがやったことをただなぞるだけというのも芸がないからな。アシカの対応能力を測るために、ああいった試みに出たわけだ」


「誰一人として求めていないことを……」


「しかし、あのロロとかいうアシカ、どの角度からも易々とボールを返してみせたな。相当調教されているらしい」


「ルルくんです。そんなに感心していながら、なんで覚えていないんですか」


 全く噛み合わない会話を続けているうちに、先輩の頼んだコーヒーが運ばれてきた。

 先輩はメニュー表を閉じて、元あった場所に戻した。眺めるだけ眺めて、追加注文はしなかった。


 店員さんが私たちのテーブルから離れるのを見届けてから、先輩はコーヒーカップを口元に運んだ。そして喉を潤してから改まった顔つきとなって、さて、と告げた。


「本日の総括といこうか」


 私は内心でほっとひと息つく。

 あと少しでこの地獄のような時間から解放される。

 それを思うと気分が高揚してくるが、まだ完全に気を緩めるわけにはいかない。

 ここが正念場だ。


 私はカバンからノートを取り出してテーブルの上に広げた。ボールペンのしんがりをノックして真っ白な見開きの端に点を打ち込む。

 準備万端、と目で合図を送ると、先輩は頷き、組んだ腕を卓上に載せた。


「今日の活動から学び得た知見、発見、感想等々。何でもいいから列挙していくぞ」


 恒例のブレーンストーミングタイム。顔を突き合わせて意見を述べ合い、発想力や思考力の強化を目指す取り組みだ。少々面倒だが、これをやらなかったら本当に何のために大切な休日を犠牲にしたのかという話になるから、否が応でもやる気になる。


「一つ。アシカは意外と足が速い」


 大真面目な顔で先輩が言った。

 私はあらかじめ打っていた点の後にそれを書き留める。


 ペンを走らせながら、なるほど、と合点していた。

 舞台袖から登場するなり、スタッフのお姉さんの後を追ってプールサイドを身軽そうに駆けていたアシカたちを思い返す。

 言われるまで気にしていなかったが、確かにあんな愚鈍そうな図体をしていながら陸上を俊敏に移動できるというのは意外な事実に他ならない。


 私も何を言わなくては、と咄嗟に思考を捻る。

 別にそういった決まりがあるわけではないのだが、順番に意見を言い合っていくのが通例となっている。


「えっと、クラゲの大群は幻想的」


 小学生の感想みたいなことをいうと、先輩の顔色がやや曇った。

 だが反対意見はもちろん、相手の感想に対して言及することは禁則事項だ。

 無言の圧力を感じるが、そんなものに今更怯む私ではない。


 先輩は気を取り直すように咳払いして続けた。


「イワシの群れにリーダーはいない」


 ふうん、と内心で膝を打つ。

 トンネル水槽で見た小魚たちはあっちこっち方向転換していたが、あれは誰がどうやって舵を切っているのだろう? あとで先輩に訊いてみよう。


「ペンギンは種類によっては暑いのも平気」


 続く私の番。

 屋外エリアの寒空の下、元気よく戯れているペンギンたちを見て、夏場ペンギンは何処にいるのだろうと疑問に思ったのだ。

 スマホで調べたところ、ペンギンといえば南極に住んでいるイメージが強いが、実は南米や赤道直下の温帯域に生息しているペンギンなんてのも存在するらしい。この水族館ではその種のペンギンも飼育されており、夏と冬で屋外エリアにいるペンギンの顔触れも異なるという。


「魚類の中で最も頭が良いのはマンタ」


 これまた興味深い話だ。傍目からは何も考えていなさそうな見た目をしているから、なかなか意外な事実である。頭の良し悪しは何をもって判断しているのか、その基準も気になるところだ。これもあとで確認しなくては。


「水族館はひとりで来るところじゃない」


 雑学合戦になっても味気ないので、ちょっと趣向を変えたことを言ってみる。

 先輩は無表情のまま浅く頷く。共感を得られたかどうかはいまいち判別し難い。


「人気がある展示の前は人が集中しているため、ろくに観賞できない。対策必須」


 なんだそれ、と一瞬首を傾げたくなったが、そういえば深海魚の水槽の前とか人がたくさん寄り合っていてちゃんとは観れなかったかもな、と思い出す。


 かくいう私自身もクラゲの水槽の前を長い時間独占していた気がしなくもない。私があそこで立ちんぼしていたせいで、クラゲの観賞を断念した人もいるのかなと想像すると、申し訳ない気持ちが膨らむ。


 しかし、対策とは?

 簡単なことならすでに水族館側も実行に移しているだろう。

 見切り発車を嫌う先輩のことだ、その辺りの具体的なプランまですでに思い描いていて、後々それを発表する布石として『対策必須』などという含みのある一言を付け加えたのかもしれない。


 そんな感じで、私たちは順繰りに思いつく限りの発見と感想を述べ合っていった。

 この作業が想像以上に熱を帯び、小一時間が過ぎてオーダーしたドリンクのカップが空になっても、まだまだ喋り足りないとばかりに私たちはひたすら口を動かし続けていた。


 やがて見開きのページが三つほどが埋まる頃になって、先輩が目頭を押さえ込みながら深い息を落とした。


「だいたいネタは出揃ったな。では、次のフェーズに移るとしよう」


 その一声を合図に、私はノートを浮かせて今まで書き留めてきたコメントに素早く目を走らせた。


 この後に続くのはプロット制作だ。

 ブレーンストーミングで列挙した要素を組み合わせるか、そこから派生したアイデアを使って、掌編〜長編小説の土台となるプロットを制限時間30分以内に練り上げるのである。


 執筆のトレーニング法として無作為に選ばれた単語から即興で物語を創作する、いわゆる『三題噺』と呼ばれるものがあるが、感覚的にはそれに近い。

 それと違うのはテーマの取捨選択が作者自身の意思に委ねられているということ。取り組みやすいテーマを作為的に選択することができるため一見『三題噺』より簡単そうに思われるが、いざ実践してみるとテーマの軸がしっかり定まっている分、なかなか筆を進めるのが難しかったりする。


『三題噺』が発想力を鍛えるためのトレーニングと言うなら、こちらは文章構成力の向上を目指すトレーニングと言えよう。

 文章構成力は特に私が課題としているスキルだ。

 出来上がったプロットはお互いに校正し合って意見を交換する段取りとなっている。その手の能力が優れている先輩からの指摘は、悔しいが大変勉強になるのでいつも重宝している。


 店内の座席にまだ余裕はありそうだが、さすがにカップが空っぽになった状態で居座り続けるのも忍びないので、再度ドリンクを注文する。


 それが運ばれてくるまでの間、私は目を瞑って思考世界に身投げしていた。

 ブレーンストーミングで熱を帯びた頭を冷却する時間に充てるつもりが、脳内では早くも物語の輪郭が整形されつつあった。

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