私はクラゲになりたい(4/8)
屋外ショーが始まるまでもう一度館内を見て回ることとなり、私は改めて先輩と順路を辿った。今度はお互いの足並みを揃えてだ。
水槽の前を訪れるたび、先輩は目につく海洋生物のうんちくをのべつ幕なしに披露した。微に入り細を穿った講釈は外連味に乏しく、とても面白いものとは言い難かったが、私を退屈させないように努力している気概はなんとなく伝わってきたので、大人しく聞き役に徹することにした。
やがてトンネル型の巨大水槽が占めるエリアに差し掛かった。半円の形状をした通路の弧に当たる部分が水槽部に面している。『アクアロード』という名称が示す通り、まるで海の中に敷かれた小道のようだ。
穏やかなブルーの光に包まれた水の中を小魚の大群が泳ぎ、その合間をウミガメやマンタが気ままに遊泳している。頭上を大きな影が通り過ぎたかと思えば、イルカが弾丸のようなスピードで海中を直進していた。
初見よりインパクトは薄れているが、やはり何度見ても圧巻の光景だ。
隣をみれば、先輩の横顔にもいつになく陶然とした色が広がっていた。青白く光る眼鏡のレンズ越しに、切れ長の目が丸みを帯び、水槽の中の小世界にすっかり没入している。このときばかりは不躾な解説もなりを潜めていた。
ショーの開始5分前を報せるアナウンスが流れ、私たちはぞろぞろ続く人の波に付き従うようにして会場に足を運んだ。
扇型の会場に設置された客席は早くも続々と埋まりつつあった。
やはり水辺に近い前列よりも中列から後列辺りが人気で、大半がそこに詰めかけている。とはいえ、まだ座席に余裕はありそうだ。
遠目から座る位置の見当をつけ、通路の段差に足をかけたその時、
「おい、どこにいく気だ?」
背後から先輩の声がした。
振り返ると、先輩はこちらを見上げるような格好で、早くも座席に腰を下ろしていた。まさかの最前列だ。そこに浅く腰を据えて足を組み、膝の上に指組みした両手を置いている。
「えっ、そこに座るんですか?」
「当然だろ。観察対象は近い方がいいに決まっている」
「でも、その位置だとずぶ濡れになりますよ」
「そんなことは百も承知」
先輩は眼鏡のフレームを中指で押し上げながら顎を引く。
「見識を広げることが目的で来てるんだ。せっかく訪れたまたとない機会に体を張らないでどうする」
呆気に取られ、はあ、と気の抜けた返事をする。
作品のためならずぶ濡れになっても構わないという心づもりらしい。その自己犠牲精神はなかなか見上げたものだが、小説を書くのにそこまでする必要があるだろうか?
凡人の私には到底理解しがたい考えだ。しかし、当の本人が良しとしているものを、あえて他人の私が口出しして改心を促すのも筋違いだろう。
「そこまでおっしゃるならもう私からは何も言いません。どうぞ実りある時間をお過ごしになられてください」
ぺこりと頭を下げて踵を返す……が、
「だから、どこに行くつもりなんだ」
と再び先輩の声が呼び止めてくる。
「お前の席は
バン、バンと隣の空席を当てつけがましく叩く先輩。
「…………」
あまりの傍若無人さに閉口する。私は顔だけ振り返って、今日一番の顰めっ面をお見舞いしてやった。
「紛いなりにも部活動の最中だぞ。ここには遊びで来ているわけじゃないと何度説明させるつもりだ。いい加減肝に銘じやがれこの鳥頭が」
こちらの意向を全く無視した中傷的な物言いに、さすがにカチンと来る。ここまで『ものわかりのよい後輩』の役を演じてきたが……そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。
「じゃあ、言わせてもらいますけど……」
唇を舐めてから、私は反撃の姿勢に転じた。
「先輩の言うことは木を見て森を見ずの意見です。ええ確かに、前列だと後列よりイルカやアシカの動作を仔細に観察することができるでしょうとも。でも、会場全体の様子を俯瞰して観るには断然後列の方が適しています。他の観客の反応だったり会場全体の空気感だったり、離れた位置にいる動物同士の連携の模様だったりが最前列にいてわかりますか?」
先輩の眉間に深々と縦皺が刻まれた。後輩からの予期せぬ反撃に不快感を示していることが伝わる。
「クリエイターたるもの、普通の人間がやらないことをやってなんぼだ。定石どおりの行動ばかり取っているようでは、創作活動に不可欠とされる豊穣な感性は養えん」
あからさまな論点ずらしに議論を続けようという気力すら失われてくる。
本当にこの男は……自分の非を一切として認めようとしない。その強硬な姿勢を、どうにかして改めさせてやることはできないだろうか。
作家が備えるべき素養として、先輩のいう行動力は確かに大切なものだろう。だが、それと同程度には自分の言動の正当性を客観的に評価する力や、その評価に従って素直に言動を改める柔軟性も絶対に待ち合わせておかなくてはならない素養ではなかろうか?
「これは部長命令だ。背くことは許されんぞ」
有無を言わさぬ口振りは、かえって自身の立場が窮地にあることを物語っていた。
満を持して放った持論がいとも簡単に崩され、決まりが悪い思いをしているのだろう。せめてもの体裁を保つため強引に持論を押し通そうとしていることは想像に難くない。
呆れを通り越してもはや哀れにも思えてきたが、しかし、ここで情に流されて甘えを見せてしまうようではこの男の後輩は務まらない。
「従えません。今日はとりわけ水を被ると不都合が生じる格好をしているので」
そう言うと先輩は私の出立ちをまじまじ観察してきた。
上は白のブラウスに薄水色のカーディガン、下は深緑のワイドパンツといった装い。問題なのは
先輩の表情はしばらく怪訝な色に染まっていたが、それが一瞬ハッとした顔となり、続いて罰の悪そうな面相へと変遷を遂げた。
「準備のなってない奴だ」
腐すように呟いてから蝿を払うようにひらひらとてのひらを振る。
「お前に向上心がないことはよぉくわかった。もういい。好きにしろ」
突き放すような一言。
やれやれ、完全にへそを曲げてしまったようだ。
こちらとしてもまだ釈然としない思いが胸中を渦巻いているが、これ以上言い争いを続けても仕方がない。
私はため息を飲み込んで踵を返した。
数段上りかけたところで、なんとなく後ろ髪を引かれる思いがして、また首だけ振り返った。
「意地張ってないで、後列に移動しませんか?」
先輩の後頭部にそう声をかけるも、当の本人は依然として頑なだった。
「意地など張っていない。俺は自分の物書きとしての矜持に従っているまでだ。半端な憶測を働かせて他人に指図してんじゃねぇよ」
不意の暴言に頭の奥がカッと熱くなるのを感じたが、私は唇を噛んで堪えた。
「忠告しましたからね」
と捨て台詞を送るが、先輩からの反応は無し。
モヤモヤとした思いを抱えながら、私は後列の座席を目指して歩を進めた。
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