第2話
私はクラゲになりたい(1/8)
電車の扉が開いてホームに降り立つや、私は跳躍するように駅の構内を疾走した。
大股で階段を駆け上がり、連絡通路を渡って改札を抜ける。そのまま足を止めることなくロータリーに飛び出して、正面方向に見える噴水へと急ぐ。
そこにはすでに待ち人の姿があった。
噴水の縁石に腰掛けて、気難しそうな顔で読書に耽っている。
その男の名は東条鼎。同じ高校に通う一学年上の先輩で、私が所属する文芸部の部長を務めている男だ。
常日頃から芳しくない印象を抱いているせいだろう、その姿を目の当たりにした瞬間、胸の内に影が差した。
「遅れましたが栗棟乃愛、ただいま見参しました!」
読書に熱中するあまりちっとも私の到着に気付いていない様子の先輩に、私は息が弾むまま声をかけた。
妙ちきりんな挨拶になってしまったのは、下降したテンションを無理やり取り繕ろうとして空回った結果だ。
ややあって先輩は手元の本から顔を上げた。「あぁ、いたのか」とでも言いたげな冷めた眼差しを私に向けてから、手元の腕時計に視線を落とす。
「9分20秒か」
感じの悪い独り言を呟いて、のっそり腰を持ち上げる。
またぞろ説教が始まるのかと思いきや、
「行くぞ」
素っ気ない口調でそう告げて先んじて歩を進め始めた。
想定外の反応に戸惑いを覚えつつ、すぐさま先輩の後を追う。
ずんずん前進していく先輩の背中からは怒気は感じられない。でも、特別機嫌がいいわけでもなさそうだ。
恐らく原因は私の遅刻より今手にしているその文庫本だろう。
「何読んでたんですか?」
別に会話などなくても構わないのだが、これから長い時間、行動を共にすることを考えると機嫌は極力取っておいた方がよい。そう思って気軽な口調で探りを入れてみた。
先輩は歩幅を緩めることなく、また、こちらを振り返ることもなかったが、しかし質問には答えてくれた。
「『荒城の旗』というタイトルの歴史小説だ。戦に敗れるも敵国の温情で生き長らえることになった戦国武将が、なおも一国のあるじであろうとして傲然な態度を改めなかった末に、次々と家臣や臣民たちに見放され、落ちぶれていく。その一部始終を滑稽かつシニカルな切り口で描いた長編小説だ」
まだ訊いてもいないのに、ご丁寧に話のあらすじまで添えてきた。
タイトルだけなら私も知っている。たしか来年放映される大河ドラマの原作じゃなかったっけか。
ドラマ原作に選ばれるくらいだから相応にヒットしている作品なのだろう。しかし、その明らかに気力の欠けた口振りから察するに、どうやら先輩のお眼鏡にはかなわなかったらしい。もっとも、先輩の期待値を上回る作品なんて滅多にお目にかかれるものでもないのだけれど。
「なんだか陰気そうな作品ですね。私、少し苦手かも」
あらすじだけ聞くと面白そうな作品だなというのが率直な感想だったが、そんな本音をぶっちゃけてしまえば余計に機嫌を損ねる結果を招くだけだ。だから私は本音を隠して、そんな風におもねるような台詞を口にした。
「食わず嫌いは感心しないな。作家を志す以上、せめて太宰・芥川にノミネートされた作品くらいは目を通しておくべきだ」
お決まりの高説にもいつになく力がこもっていない。
大層な賞の候補にまで選ばれた作品らしいが、相当やばい内容だったのだろうか? 逆に興味が湧いてくる。
「なら貸してくださいよ。先輩が読み終わった後でいいですから」
半分冗談のつもりで言ったのだが、先輩はそうとは受け取らなかったらしい、私の発言を聞くなりくるりと振り返り、無造作に本を差し出してきた。
「え?」
「貸してやるよ」
唐突な申し出にぽかんとしていると、先輩は業を煮やしたように唇を曲げて、本の表紙で軽く私の頭を叩いた。
あいたっ、と反射的に声が漏れる。
胸の前に突きつけられたそれを、私はわけのわからないまま受け取った。
装丁に伝染した余熱をてのひらに感じながら、パラパラと中身をめくる。紙の栞が折り返し地点より少し前の辺りに挟まっていた。
我に返った時、先輩の背中は10メートルほど先の方にあった。
私は小走りでその後を追った。
「これ、まだ読み終わっていないのでは?」
今度は隣に並び立ち、先輩の顔色をうかがいながら尋ねる。常にも増して憮然とした面持ちだ。
「気にしなくていい。俺はもう読むつもりはないから」
「えっと……さっき『食わず嫌いは感心しない』とか言ってませんでしたっけ?」
ご機嫌取りの最中だというのに、つい反撃めいたことを口にしてしまう。
失言に気付いた時にはすでに先輩の顔は鬱陶しそうに歪んでいた。
「食ってみたさ。そのうえで性に合わないとわかったんだから、無理に食い続ける必要もない」
「……はあ。そういうもんですか」
なんだか釈然としないが、まあ個人の考えは自由だ。他人の私がとやかく口出しできることではない。
ましてや『頑固一徹』の代名詞でもある先輩が相手となると、その考えを改めさせるには多大な労力を費やさなくてはならないだろう。そんな無駄なことにエネルギーをかけるくらいなら、こうやって手っ取り早く話を受け流してしまった方がストレスフリーで良い。先輩と接する上でのライフハックだ。
私は改めて手元の文庫本に視線を落とした。
表紙にはしかつめらしい顔をした武士と、その背景におんぼろのお城と彼に背を向けている人々の姿が描かれている。
数奇なものだな、と心の中で呟く。
先輩がこの本をいけ好かないと感じるのも無理はない。
かつてトップに立っていた人間が自らの驕傲が原因で落ちぶれていく――本のあらすじを聞いて、すぐにピンと来た。まんま先輩のことじゃないかと。
あれは今から半年前のこと。先輩が文芸部の部長に就任してからというもの、その厳しい活動方針と先輩自身の難儀な性格が災いして、退部を申し出てくる部員が後を絶たなかった。そして気づいた時には、40名近く在籍していたはずの文芸部は私と先輩のふたりだけという閑古鳥が鳴く有様になっていたのである。
先輩自身、自覚しているかどうかは知らないが、この本に出てくるバカ殿と今の自分の境遇が少なからず重なって見えたのだろう。直視しがたい現実を突きつけられて面白くないと感じているわけだ。
「なんだその物言いたげな顔は」
指摘されて初めて自分の頬が緩んでいたことに気がつく。
「あ、いえ。有り難く拝借させていただきます」
慌てて表情筋を引き締めて、はぐらかすように俯く。
先輩はしばらく怪訝そうな眼差しをこちらに寄越していたが、私は終始、気づかないふりを決め込んだ。
――まったく……たまの休日に、どうしてこんな窮屈な思いをしなければならないのだ。
内心で愚痴をこぼす。
なんだか馬鹿らしい時間を過ごしている気がしてならず、今すぐにでも帰りたい衝動に駆られてくる。
が、おいそれとそうするわけにはいかない。
なぜなら私が今ここにいる理由は『小説家になるため』だからだ。今日に限らず、私が文芸部に残留しているのも、それだけが理由といっていい。
だからここで衝動に流されてしまうのは、なんとなく覚悟が欠如しているようで抵抗があるのだ。
私は確信している。小説家になるためのいちばんの近道は、先輩への敵愾心を抱きながら、可能な限り先輩の技術を盗み得ることだと。
—―今は雌伏の時だ。夢を叶えるための修行だと思って堪えるしかない。
拝借した文庫本をカバンの中に仕舞い、折れかけた心を鼓舞する。
そうこうしているうちに、前方に目的地が見えてきた。角森マリンパーク――県内随一の規模を誇る巨大水族館だ。
休日ということもあり、入り口前の一帯にはわんさかと人だかりができていた。
弾んだ声があちこちから聞こえてくる。だいたいが家族連れかカップルで、みんな表情が晴れやかだ。
楽しそうな空気が伝わってきて、自然と私の頬も緩む。下降の一途を辿っていたテンションが初めて上向きに持ち直した瞬間だった。
隣を見ると、先輩は相変わらず気難しそうに唇を結んでいた。まるで今から法廷にでも臨むかのような顔付きだ。場違いにも程がある顔だが、しかし子供みたいに無邪気な笑みを浮かべている先輩というのもなかなか想像がつかない。いつか見てみたい気もするが、まあツチノコばりのレアものだと思うので過度な期待はしないでおこう。
「心してかかれ。戦いはもう始まっている」
ものものしい発言をかましてから、先輩はチケット販売窓口に足を向けた。
それに対する適切な返しが思いつかなかったため、私は無言でその後を追った。
せっかくなら好きな人と一緒に来たかったなあ、なんて乙女心に夢想しなくもなかったが、そんな浮ついた考えは心を鬼にしてかなぐり捨てる。
ここにはあくまで文芸部の活動の一環として訪れているのであって、断じて先輩とのデートが目的ではない。
そう周りの人たちに邪推されてしまうのは業腹だが、赤の他人の目など気にしていては何処に行けようかという話だ。
ただし、学校の知り合いにだけはくれぐれも見つからないようにしなければ。悪名高い東条鼎と親密な関係を築いているだなんて噂が広まってしまえば、間違いなく明日からの学校生活は窮屈なものになる。
私はカバンからキャップを取り出して、人目を忍ぶよう目深に被った。
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