記憶の欠片 -mind-
夜明けで冷めていたアスファルトも、徐々に熱を持ち始める。疎らに増えてきた人影の合間を縫いながら歩く夏の朝は、柔らかなレースのカーテンのように空気が体を撫でては去っていく。公園の緑も、空の青も、海の白も鮮明に描かれ視界を彩っていた。
行き交う人々は皆、表情を無くし俯きながらどこかを目指す。黒や濃紺のスーツを身に纏って。
「普段、依頼ってどういう風に受けているの?」
「幽霊も依頼可能って謳っている探偵事務所があってな。変な話だろう? まあ、そこの探偵は生きているんだけど、死者が見えるからってそんなことを始めたらしい。俺とそいつは少し古い付き合いで、忙しいと死者関連の依頼はこっちに回ってくるんだ。どうせ暇だろって」
「仲良いんだね」
「どうかな。報酬は貰ってるし、仲の良し悪しは考えたことないけど」
人との関係か。長く考えたことなかった。
いつからだろう、別れることが当たり前になっていたから、関係に名前を付けることを忘れていた。密度の高い別れに怯えていたのかもしれない。
ちらっと結雨を横目で確認する。結雨は依頼人だから関係を言葉にするのは簡単か。
どこまでも続く終わりの見えない海岸線を歩いていると、ポツンと光りを反射するオレンジ色のカーブミラーが見えてきた。その下に一人、透明感のある男が立っている。そう透明感。そして浮遊感。
今日の依頼人はあの人か。
もしかして、と隣の結雨が呟く。
「そう。依頼内容は前世についてじゃない」
「少し浮いてるよね?」
「正解。ほかにも体が透けているだろ。それが未練がどこにあるかを判断するポイントだ」
近づくと、顔を上げた依頼人と目が合う。
小さく会釈をすると嬉しそうな表情に変わり、手を上げた。結雨も、こんにちはと声を弾ませていた。結雨がいるだけで、いつもより明るく世界が見えた。
改めて依頼人に向き合う。身長が高く、年齢も二十代後半から三十代前半といったところだろうか。ぱっと見、元気そうで病気や老衰で亡くなったようには思えない。もしかして事故か……それとも事件か。
「僕のことを視えるってことは、貴方たちが探偵さんですね。……あれ、でも一人って聞いていたけど」
「結雨……彼女は助手みたいなものです。差支えが無ければ、同行しても?」
「良いですよ」
「ありがとう」
「結雨です、よろしくお願いします」
「こちらこそ、僕は晴です。それで今回の依頼内容なのですが、聞いていますか?」
「それなら簡単に。行きたい場所があるってことを」
「はい、実家なのですが思い出せなくて」
「晴さん。年代、場所、建物……何かヒントになるものは」
「確か二十年前。この街で、山と畑が見える場所だった。家の隣が畑で、目の前に小さな公園が」
今この街で畑がある場所っていうのが、あまり思い当たらない。
二十年間でどれほど土地が変わったのか。記憶がなければ、土地情報も今と違う。
「図書館に行くしかないか。あそこなら地図も豊富だから簡単に見つかるはずだ。少なくても、今まで何度か解決しているから安心してほしい」
「でも僕たちって本に触れられないのでは?」
「俺は少しだけなら実体化できるんだ。ちなみに結雨も」
「本当ですか! さっそく行きましょう」
嬉しそうに歩き出した後姿を、笑顔で追いかける結雨。今回の依頼では結雨の前世は思い出せそうにもないが、楽しそうなら十分か。
「探偵さんも、早く行きましょう」
遠くで呼ばれる声がした。そういえばいつもの癖で名前、伝えてなかったな。
隣に立つカーブミラーを見上げる。
世界を映す鏡の中に、俺たちは映っていないのだった。
子供たちが走る回る公園を抜け、信号待ちで皆が手元を見つめている交差点を通り、閑静な住宅街へと彷徨いこんだ。夏休みだからか、人影のない校舎や賑やかな庭先が多い。
俺たちをすり抜けていく家族たちはどこへ向かうのか。遊園地か、水族館か。それともどこか遠くの場所か。家の前に置かれたアサガオの鉢。赤や紫、緑と街を彩る夏の色。斜めに刺さった支柱に巻き付いたツタが、迷うことなく空を目指す。
歩いていると住宅街がひらけ、図書館が現れた。
大きくガラス張りの壁に、直接光が入り込まないように作られた植物のカーテン。開放感を出しつつも、本を傷めないような作りに好感が持てる。
青い芝が広がる敷地を歩き、入口へと向かう。
晴さんが入口のドアを通り抜け中へ入る。浮かぶ薄い影が、ガラス越しにさらに透明度を増す。
「どうやったんですか、それ!」
「これですか……? 普通に通っただけですけど」
ドアの前で唖然とした表情を浮かべる結雨。ガラスへ手を伸ばしては、引っ込めるの動作を繰り返す。五回ほど繰り返した後、助けを求めるような目で俺を見上げてくる。
欠伸を一つして、結雨の手を取る。微妙に実体を持った指先が冷たい。
「良いか、生前の常識は捨てろ。幽霊なんだ、壁なんか通り抜けられると思い込むのが大切だ。いくぞ」
「通り抜けられる、通り抜けられる」
呟く結雨の手に触れたまま、ガラスへ体を勢いよくぶつけた。俺と目をつぶったままの結雨がガラスの向こうへ。
境界をすり抜けた。
「簡単だっただろう」
「う、うん。でも怖かった」
「そのうち慣れるさ」
まぁ、慣れる前に過去を解いて自由にしてあげるから――。
「晴さんも、待たせてすまなかった。行きましょう」
「いえいえ。あいにく、時間は無限にありますからね」
冷房の効いた涼しい館内は、勉強する人や本を読む人、居眠りをする人などが疎らに見られる。その一部、目立たないところに設置された、地域に関連した書籍が集められたコーナーに目を通す。
俺はあたりを見渡し、実体を露わにする。数年分の地域マップや土地の歴史を始め、結雨や晴さんが気になると言った本を手に取って、座席へと向かう。
隣に座った結雨が街の歴史本を開いて眺め始める。その向かいには晴さんが、宙から覗き込む。百年以上前はこんな感じなんだと言いながら捲るページは、すこしだけ黴臭い。
「晴さん、二十年くらい前で良いんですよね」
「はい。地図を開いてくれると、僕でも分かるはずです」
積み上げた本の山から、該当しそうな一冊を取り出し開く。ほとんどが白黒写真のページを眺めて実感するのは、自然の多さが今とは全く違うということだった。二十年でこんなにも大きく変わるのだろうか。
畑や家屋の写真を流し見しながら数ページ捲る。当時の時間が切り取られ、一ページ毎に閉じ込められている。本というのは時間の牢獄なのだろう。もしくは、永遠の具現化。
捲ったページの先に、当時の地図が現れる。
「とりあえず、隣が畑の民家か」
「そうですね。公園が近くにあると完璧なのですが」
畑、公園、民家……。
目標を絞って地図を指でなぞる。今よりもビルは少なく、オフィス街すら見当たらなくなった紙の上で抵抗も無く滑る指先は、いくつかの公園を通過して縦横無尽に動き回る。
「民家に隣接する公園は、ここかここの二か所ですね」
「あっけなく候補が絞れたな。どっちも山が見えそうだけど、何か他に覚えてないですか。明確に場所を思い出さなくても、その場所の思い出でも」
「思い出、記憶、少しだけ時間をください」
手がかりが無くなった。あとは晴さんの記憶だけが鍵だ。
開いたままの本をテーブルに置き、シーリングファンがゆったりと回る広い天井を見上げた。目を閉じると紙の擦れる音だけが空間に溢れる。紙に溺れる感覚。
「那岐。見て見て、江戸の頃、この街にも義賊がいたみたいだよ。凄いよね、悪い権力者からお金を奪って、庶民にばら撒いて。鼠小僧とか石川五右衛門みたいな人たちが、この場所にもいたって思うとワクワクするね」
「そうか? 義賊って言っても、所詮盗賊だろ。咎人は、どんなに綺麗に言葉で装飾しても咎人だよ」
「夢がないなぁ。誰も逆らえない相手に逆らうっていうのが、格好いいのに……。あ、他にもあるよ」
「他に?」
「これも百年以上前だけど、この近くに土牢があったんだって。そこの処刑執行人が、土地の権力者たちに一人で叛乱を起こしたって書いてある。圧政をしていた藩主たちを何十人も斬って、苦しんでいた人々を救ったみたいだよ。……へぇ、この人、叛乱の前に処刑前の女の子を土牢の中で殺してるんだ。なんでだろう」
「本人にしかわからないだろうな。何年も前、生きた時代も違うって、さらに人殺し、そんな人の気持なんか分かるわけない」
「でも、圧政から皆を解放しようとした人だよ。悪い人ってわけじゃなさそうじゃん」
「殺した時点で一緒さ。さっきの義賊もだけど、罪は罪なんだ。いくら美化したって過去の枷は外れない」
「私は信じたいけどな」
再びページをめくる音が聞こえだし、俺の思考はまた紙の海へと沈んでいく。
どれほど時間が経ったのだろう。そろそろ実体化の限界が来そうだ。その前には本を戻さないといけない。
「探偵さん、思い出しましたよ」
この後の方針を考えていると、嬉しそうな晴さんの声に現実に引き戻された。
目を開けると、開いたままの地図に指を突き刺した晴さん。半透明の指が机を貫通する。
「ここですよ! 昔、おばあちゃんと一緒に庭から大樹を見上げていました。そうそう、そうだ、神社があって、その木の下にタイムカプセルを埋めたりしたな。懐かしい」
言葉の勢いに圧倒されながら視線を下へ戻すと、確かに地図には公園と民家、そして公園以外に空き地があった。場所を確認して、現代の地図を開き場所を見比べる。
ここから向かうには、オフィス街へ戻り海へと向かう途中だ。
土地開発が進み、いまでは公園は残っていないようだが、民家と神社が隣り合っている。そこだけ時間が切り取られているような、少しの安心感と寂しさ。
地図情報を頭の中へ刻み込み、そっと席を立つ。
「結雨、行くぞ。晴さんの目的地が見つかった」
「本当に? 早速行こう! 晴さんもよかったですね」
「思い出せたのも、お二人のおかげですよ。結雨さんもありがとうございます」
「いえいえ、私は何もしてないですよ」
話し込む二人を余所目に、山のように積まれた本を戻していく。
手に付いた本の匂いと別れを告げ、実体化を解いた。僅かにクラっとするこの瞬間が気持ち悪く、思わず手を当て顔をしかめる。
晴さんと、霊体化した結雨の三人で図書館を後にした。
「このまま何も起こらなければ」
ひとり呟いた声は、蝉の声にかき消される。現世への執念が怨念にならないことを祈って。
むせ返るような蒸し暑さとは縁のなくなった俺たちは、手を伸ばせば届きそうな夏空の下、揺れる陽炎と一緒に、どこまでも不安定に存在していた。
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