RaiNdROP

すぐり

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昨日と今日 -encounter-

 見上げた空には真っ白な入道雲が広がっている。

 誰かがこの世界は綺麗だと言っていた。誰かがこの世界は生き辛いと言っていた。今日も何処かで人が泣き、人が死ぬ。

 それでも空はいつまでも変わることなく、透明感を保ったまま。どこまでも、どこまでも遠い青。どれだけ手を伸ばしても届かない。

 生と死の境界。

 朝と夜の境界。

 未来と過去の境界。

 すべての境界線の交わるところで、俺たちは生きている。世界なんか変えられないと、自分の無力さに気づきながら生きている。

 だから、せめて手を伸ばす。

 瞬間、風が吹く。夏風が髪を撫で、手首の熱を奪い去った。

 凪ぎを待つ。来世でも良い、凪ぎを願おう。

 そのために今は、自分の手が届く世界を救ってやる……壊してやる。


 揺れる草花に頬を撫でられて目が覚める。

 夜明けを告げる小鳥の囀りと、雲の流れる音、潮騒。世界が生きている音が聞こえてくる。また今日が来た。

 予告の無い映画のように意味も分からず過ぎ去っていく明日と、読み終わった雑誌のように積み重なっていく昨日。その間で、道化のように踊らされている今日。そんな決まりきった繰り返しの中で世界は生きている。

 一つ欠伸をしながら体を起こす。

 溶けたアイスクリームのように、どろりと緩慢な動きで髪に付いた草を取り払う。眠らなくて良い体なのに、つい眠ってしまうのはまだ人間として生きたいと願っているのか。少しだけ頭痛がした。左手で左目を覆いながら深呼吸し、意識を戻す。

 何か夢を見ていた気がする。遠い昔の記憶のような、懐かしい感覚。何かを思い出したようなもどかしさ。それでも目を開けると、夢は綿菓子のように一瞬で消えてなくなった。

 まだ思い出すつもりはないらしい――。

 空が白んでいく。

 濃紺が群青へ。群青が白へ。

 空の端が徐々に赤みを帯びていく。暖かな日差しと、涼しげな夏の朝の香りが満ちてきた。ちっぽけな自分の存在がノイズだ。

 伸ばした指の先で二羽の鳥が飛んでいる。その二羽が向かう先は水平線。

 昇る太陽に向かう鳥に、イカロスの神話が重なる。

 どれくらいの時間、この場所で座っていたのだろうか。青く澄み切った空に日が昇り、背にした大樹の木陰が短くなる。今日は何をする予定だったか、起き上がりふらふらと歩きながら考える。

 確か依頼人との待ち合わせがあったはずだが、まだ時間はありそうだ。


 海岸線をなぞるように作られた堤防に沿って歩く。肩を撫でる堤防の影。日向と影の境界に乗って進む。

 聞こえるのは波音とカモメの声、そして自分の足音。

 これから何をするべきかと、ぐるぐるループする思考の中、道路にまっすぐ伸びた影が揺れる。

 ふと顔を上げると、堤防に座って空を見上げる少女がいた。真っ白なシャツに、白とシアンのチェックが入ったアクアブルーのスカート。そのスカートから伸びた白い脚を、気だるげに交互に振っている。

 その姿は空から零れ落ちてきたように綺麗で、見上げた顔は空に憧れているようだった。

 あぁ、この人もか。俺は立ち止まって、少女がこちらを向くのを待つ。こちらからは声をかけずに、彼女の気が済むまで一緒に空を見上げることにした。流れる雲はどこへ向かうのだろう。どこか遠い国か、それとも明日か。

「あれ、もしかして貴方……私が見えるの」

 いつの間にか向いていた視線。潤いに満ちた瞳と、乾ききった瞳が重なった。青空の下で輝く、無垢な光を含んだ瞳は眩しすぎる。

「見えるよ」

 一言そう返すと、彼女は口角を上げて両手を堤防においた。

「良かった、誰も私のこと気にづいてくれなくて、どうしたんだろうって心配してたんですよね」

「まあ、なんの介入も無く、死者を視れる人間なんて少ないからな」

「死者……そういえばそっか。死んじゃったんだよね、私。あれ、じゃあ、貴方はどうして私のこと視えてるの? 待って、もしかして、この現実感の溢れる場所は天国?」

「残念ながら現世だ。あと、視えるのは俺も死んでるから。少しだけ特殊な状態だけど」

 彼女は小首をかしげてから、あたりを見渡す。

 何かを考えるように黙り込むので、喋りだすまでじっと待つ。

 あっ、と出した声に、今度はこちらが小首をかしげる番だった。

「じゃあ私、いま幽霊と喋ってる?」

「あぁ。ちなみに俺も今、幽霊と喋っているけどな」

「私が幽霊なんて実感がないな。っていうか、本当に幽霊っていたんだ。凄い不思議」

 堤防に背を預けて立つ。堤防越しに聞こえる波の音を受け、人の少ない公園を眺めた。青々とした芝が視界一杯に広がり、緑の香りが心地が良い。

 目の前でジョギングをする人影が、こちらを気にすることなく、ぽつりと横切る。

「本当に私たちのこと視えないんだね。……これからどうしよう」

 不安そうな声。

「心残りを無くすんだな」

「心残り?」

「そう、未練ってやつ。彼岸に行けないで、此岸に留まる魂っていうのは、例に漏れず未練があるんだよ。ちなみに俺は、そいつを解消する手伝いをしている」

「ということは、貴方にも何か未練が?」

「あるらしいけど、全部は分からない」

「いくつかあるんだ」

「二つだな。一つは、誰かを助けたいってこと。だから彷徨っている魂の未練を解消するなんてことをしてる。……あと一つは知らん」

 足元に伸びた左右に揺れる影。

「自分の未練なのに、なんか他人事ね。私は……未練なんて無いかな」

「だろうな」

「だろうなって、さっき誰にも未練があるって言ってたじゃない」

「その魂には未練があるけれど、それはお前じゃないってこと。簡単に言うと前世の未練」

「難しいな。前世に未練があるって言っても、前世なんかのことを知れるの? 思い出せないよ?」

「きっかけがあれば、思い出させることはできるし、俺は少しだけ前世を読めるんだよ」

「え、じゃあ私のも視れるの?」

「でも俺は前世を覗くだけ。思い出す切っ掛けは作れるけど、本人次第だ」

 少しだけ。ほんの少しだけの特殊能力じみたもの。どうしてこんな能力があるのかは分からないが、僅かに読めた自分の前世の後悔を無くすために始めた祓い屋。違うな、祓い屋というよりは何でも屋か。

 殆どの依頼人が死者だし、依頼が終わると依頼人はこの世を去っていく。常に別れと仲良く手を繋いでいる仕事だが、依頼人が幸せそうに消えていくのを見ると、自分は間違っていなかったと思える。

「不安になってきたけど、私の未練って前世にあるんだよね。実は私自身が忘れているとか」

「見た感じ心配はない。前世に未練がある人は、実体が濃いんだよ。うまく説明は出来ないけど、前世の魂を呼んでいる状態だから、呼び出す側の魂は強くこの世に引き留められて、生者に近い状態になっているって感じか。一つの魂に一つの風船を付けて空へ飛ばすのが成仏だとすれば、現世に未練がある状態は一つの風船についた一つの魂が、規定値より重くなって頭上を彷徨っているイメージ。前世に未練がある状態は、一つの風船に一つの魂ともう一つの未練を抱えた魂が付いているってことで、そりゃ、重くて全然飛ばないよなって思ってくれれば良い」

「なるほど、何となく理解したかな。私の存在が生者に近いから、未練は前世にあるってことなのね」

「そうだな。ちなみにこの状態なら、短時間だけど現世に干渉できるし、生きている人間とも関わることもできる。この辺は後で話すから、どうする、未練が何か思い出す作業をするか?」

「うん。気になるしね」

「手を出してくれ」

 そう言い、俺は左手のひらを上に向け差し出す。

 堤防に座っていた彼女は、何も言わずに飛び降りた。ふわりと舞うスカートに目を背け、短くなる堤防の影を目で追う。

 トンっという軽い音が聞こえて、手のひらにひんやりとした温度が伝わる。溜息一つ、顔を右手で覆い深呼吸。

「始めるぞ」

 彼女の瞳を見つめると、小さくうなずく。

 ゆっくり目を閉じて、意識を集中させる。真っ暗になった視界が、白に反転し、再び黒に戻る。

 音が聞こえる。ノイズ。ノイズ。ノイズ。

 途端にノイズがクリアになり、誰かの声が届く。声にならない声。それでも何も見えない。

 暗い。苦しい。怒り。感謝。愛情。様々な感情が混ざりきらずに、それぞれ主張する。失敗した料理のように調和がとれていない。

 ぽたっ、ぽたっ、頬に落ちる暖かな雨。

 西瓜の香り。

 慈雨……薄れ行く意識の中、声が聞こえた。


 息苦しさに思わず目を開ける。激しい鼓動の幻聴が聞こえてきて、呼吸が荒くなる。これ以上は無理だ。

「大丈夫。どうして泣いてるの」

 泣いてる? 恐る恐る頬へ手を伸ばすと、左手の薬指が濡れる。どうして?

 暖かな指先があっという間に乾いて、涙の理由が消えてなくなる。

 見えた彼女の前世の記憶。いままでとは違い、言葉にするには難しすぎた。何とか言葉を紡ぎ、彼女へと見えた内容を伝える。感情、息苦しさ、雨、西瓜……。そして、慈雨。

「まったく思い当たらないなぁ」

「俺が見た影響で前世を思い出す人も多いんだけど」

「どうすれば思い出せるんだろう。何か方法はないの?」

「キーワードを集めるか、誰かの前世に俺を通して触れるかだな。簡単なのは前世に触れることだと思うけど、そうだな……俺の仕事を手伝ってくれないか」

「何でも屋を?」

「そう。無理にじゃないし、嫌なら時間はかかるけど別の方法を探すけどさ。まぁ、手伝ってくれないか」

「分かった。お願いしようかな」

 首をかしげて笑った。太陽の光を含んだ髪が、淡い色を帯びて輝く。

 俺は思わず口元が緩むのを感じて歩き出す。彼女の隣を通り抜け、誰もいない道の先へと進む。

 ふっ、と肩の力を抜いて振り返った。

「どうした、一緒に来てくれるんだろ?」

 目を丸くしていた彼女は瞬きを数回し、小走りで隣へ並ぶ。嬉しそうな表情が辛い。どうして死んでいる人の方が、綺麗な笑顔が出来るのか……。

「そうだ、名前」

「名前?」

「そう、名前教えてよ」

「名前か……そんなの忘れたな」

「何も覚えてないの?」

 遠い記憶で微かに残っている声。名前。

 久しぶりだったな、名前を聞かれたことなんて。

 あれは確か――。

「なぎ? あぁ、那岐か」

「それが貴方の名前?」

「分からない。でもその名前のことはよく覚えている」

「うん、私は貴方のことを那岐って呼ぶね。改めてよろしく、那岐」

「よろしく」

「ちなみに私はユウ。結ぶ雨って書いて結雨」

「結雨か、良い名前だな」

 空を見上げる。

 透き通った青の中に、まっすぐ伸びた白い線は時間とともにすぐに滲んでいく。雨とは無縁な空模様。今日も誰かの生きた証を見つけなければ。

 生きていてよかったと誰かが言えるように。

 隣を歩く結雨は、何か考えるように空を見上げては首元を摩っている。

 そうだな、炭酸水でも飲みたい気分だ。

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