彼方へと往く船

鳥ヰヤキ

彼方へと往く船

「目玉の上を、銀色の星が滑っていったんだ」

 そう声に出した端から、笑い出してしまう。まるで御伽噺の冒頭みたいだ、と思って。アトリは私の頭を軽く揉むように洗いながらそれを聞き、小さく頷いた。

「私は暗い宇宙を掻くように腕を振って、その星を追いかけようとしたけれど、よく見れば、それは星ではなく銀の泡で、そこは宇宙ではなく海の中だった。首を反らして見上げてみると、波間は遠くできらきらと光っていたが、掌で掴めそうな程に小さかった」

 洗髪剤の爽やかな香りがパチパチと弾けて、鼻先にまで漂ってくる。目を閉じていると、夢の景色が鮮やかに思い起こされ、今もまだ、水の中を漂っているような気分になる。寄る辺なく、孤独でいるような。

「水面では光が束のように集まって、伸びたり縮んだりを繰り返していた。私はそれを見つめながら、『あの光はここには届かないのだ』と、急に気づき……途端に、寂しくなった。私は諦めたように光から背を向けて、暗い海の底に沈んでしまった」

 ――今朝は、そんな夢を見たよ。そう言い終えるとアトリは小さく微笑み、「なんて、綺麗な夢」と、静かに言った。

「いいや、寂しい夢だよ」

 彼は返事の代わりのように、シャワーの蛇口をひねった。サアッと、目が覚めるような水の音が耳元で鳴り、温かな湯が泡を洗い流していく。

「どうせ夢を見るなら、もっと子供の頃とかの、楽しい夢が見たいよ」

「フフ、そうですか?」

 耳の中までしっかりと洗うことも、彼は忘れない。そうして彼の与える献身に甘えていると、少しずつ、先ほど感じていた寂寥感も、一緒に洗い流されていくように感じられた。

「お前はいつも、完璧だな」

 清潔なタオルで頭を拭かれながら、うっとりとそう呟いた。アトリはドライヤーで手早く髪を乾かし、櫛を入れながら、当然のように頷く。

「私はいつも、完璧であらねばなりませんから」

 さて、終わりましたよ……その言葉に顔を上げ、鏡に目を遣ると、短く切り揃えた黒髪を芝のように頭に乗せて、憮然とした表情を浮かべる、私のつまらない中年面と、その後ろで聖人のように微笑む、アトリの白い顔とが並んでいた。

「今回は、ツーブロックにしてみました。サダさんに似合うと思って……フフ。若々しくて、格好いいですよ」

 ああ、と短く返事をしながらも、彼が楽しげに指さしながら語る、私の新しい髪型ではなく、アトリ自身の顔の方を、鏡越しに見つめ続けた。

 白銀の粉をまぶしたように輝く顔面。露に削られ、風の吐息に整えられたかのような、天性の美。アトリのような助手型AIロボットは、皆美形揃いなのだが、アトリはその中でも格別だ。彼の、赤らむことのない雪色の人工皮膚が、船内灯を柔らかく反射させたり、白銀色の髪がさらさらと光りながら、翠色の瞳の上で翻ったりするのを見る度に、この自律する芸術品の完成度の高さに感心させられてしまう。そうして私がぼんやりしていると、やがて一通り語り終わったのか、私に椅子から降りるよう促しつつ、彼自身は散髪道具の片付けなどをし始めた。

 アトリの手を離れ、一人になった私はようやく頭の軽くなったことに関心を持ち、窓辺に近づいて、そこに映る自分の顔を見ながら髪を掻いた。

「……代わり映えがないなぁ」

 アトリは色々と褒めてくれたが、こんなくたびれた男の髪を少し整えた所で、何になるのか。確かに多少は若々しく見えるが、まるで無理にそれっぽく誂えたようにすら感じた。暗い窓辺で無表情に佇む自分の顔は、幽霊のように青白く、まるで生気が感じられない。

「大体、見せる相手もいないのに」

 窓に掌を当てながらそう呟いた瞬間、突然脚が竦むような感覚に襲われ、慌てて手を離した。足下の床が抜けて、体が宙に浮いたのかと思ったが……もちろん、床も壁も天井も、今まで通りだ。目眩にしては、妙な恐怖感がずっと喉に張り付いている。私は眉をひそめ、軽く首を振った。

「……変な夢を見たせいかな」

 冷や汗を拭いつつ、そう呟く。横目に窓の外を見遣りながら、その不気味な暗黒に背を向けた。

 ここは宇宙の最果て。星すら見えない、真っ暗な闇の世界にぽつりと浮かぶ漂流船だ。


 この宇宙船『アトリ号』が、ハビタブルゾーン内の地球型惑星を探索する為に母星を出発してから、長い年月が過ぎた。もちろん、その間ずっと活動をしていた訳ではない。そうでなければ、とっくにお爺さんになっている。私を含む十人の乗組員達は、交代でコールド・スリープし、約三年交替で船の管理を担当することになっている。現在は、私がその担当だ。

 ……といっても、目的地点までは自動航行だし、船内管理や演算も全てアトリが行ってしまう。人間の役目は、そういったアトリの報告や作業ログの確認をしつつ、アトリそのものの監視を行うことくらいだ。

(アレは実に優秀なAIだ。自己修復によって常に最高のパフォーマンスを発揮し、問題なぞ起こしようがない。ヒューマン・エラーを頻発させる人間達ではなく、私利私欲のないAIにこそ仕事を任せたということは、人間の数少ない英断のようにすら感じる)

 アトリは、人間を世話することが好きだ。自らの存在理由として与えられたその任務の為に、休みなく思索し、活動する。生産されたエネルギーを惜しみなく捧げ、船内を地球環境と同等の気圧と重力とに保ち、メンテナンスによって安全性を維持し、自律ロボット部分で我々を補佐する。そんな中、彼に出来ず我々にしか出来ない仕事は、即ち自己管理だ。自らの肉体と精神とを守り、倦まず、病まず、人間としての矜持を保ち続けること。

 長い孤独に、負けないこと。

(ああ、この航海はまるで、人間という存在に対する長い耐久実験のようだ)

 背中を、じっとりと汗が伝う。フィットネスバイクに跨がり、ぐいぐいと両脚を回していた。前方にはホログラム状のモニターが浮かび、そこには私の動きと連動した、地球を模した風景が映し出されている。

 青い閃光、白い入道雲、緑色の草原。理想化された夏の風景だ。体温の上昇もあり、真夏のうだるような暑さが鮮明に思い起こされる。ギシ、とペダルが重くなった。モニターは坂道を表示し、それに合わせて負荷が掛かったのだ。私は幻想の陽射しに頭と背中を焼かれながら、ハァハァと何度も息をした。

(少年時代、自転車でこうして坂を駆け上ったことがある。思い起こすのは、生ぬるい風の感覚だけ。何に急かされ、何を楽しみにして、あの頃を生きていたんだっけな……どうにも最近は、頭がぼんやりしている。過去の記憶というものが、それこそモニターの向こうの薄っぺらな風景のようだ)

 ギシ、ギシと坂を登っていく脚が、更に重くなる。負荷が強まったのではない。気力が、急速に抜けていったのだ。まるで、穴の空いた風船が萎れていくかのように。迫り上がる不安を振り払う為に、ひたすらに漕ぎ続ける。脚が引き攣り、瞼が痙攣する。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……?」

 ペダルを強く踏み込んだ瞬間、ぐらりと重心が崩れた。反転する視界に映る風景が、ザリザリとノイズが入るかのように歪んで見えた。モニターは白く霞んで遠のき、床は夢の中の黒い海のようにたわみ、それが私を捕まえようと大きく口を開けていた。咄嗟に目を瞑って体を丸めたが、予測していたような痛みも衝撃もなく……気づけば、アトリに抱きかかえられていた。彼は、荒い呼吸を繰り返しながら呆然と見上げる私を心配そうに覗き込みつつ、そっと額の汗を拭った。その手はひんやりとしていて、心地よかった。

「お疲れなのですね、サダさん……今日はお早く休みましょう」

「……あ、ああ……」

 アトリに支えられるがまま、部屋へと連れられていった。疲れているのだ……そう言われてみれば、そうなのかもしれない。代わり映えのない日々に、生産性を見出せず、不安になっているからこそ、こんな奇妙な幻覚に悩まされているのだろう……。

 白い廊下を、アトリに寄り掛かりながら歩いていた。黒々とした宇宙の風景、時折遠景に光の粒が見える他は何もない虚無の景色を、通り過ぎるがままに目で追っていると、不意にアトリはパチンと指を鳴らした。同時に、周囲の灯りが徐々に絞られ、青い夜の底のように暗くなり、窓にはシャッターが降りた。

「前から思っていたんだが……こうしていると、ピノキオの気分になるな」

「鯨の腹の中、ですか?」

 ああ、と頷きながら、アトリの顔を見上げた。彼は清らかに凪いだ瞳を細めながら、月のように微笑んでいた。


「……落ち着かれましたか?」

 白いベッドに横たわりながら、小さく頷く。サイドテーブルには、アトリが淹れてくれたミルクティーが、温かな湯気を立ち昇らせていた。合成品とはいえ、舌の上を転がる甘さや茶葉の香りは、気持ちを安定させる。

「今朝見た夢を、今日はひどく引きずっているらしい。捉えがたい不安が、常に足下で蠢いているように感じてね。地球を、長く遠く離れすぎたからかな……私の人生という旅路の先端に、今の私が正しく立っている気がしないんだよ」

 そう、弱音を吐いた。アトリはそれを聞きながら頷き、そっと、私の瞼の上に、白魚のようにほっそりとした指先を乗せた。そうして、音も無く瞼を閉じさせる。真っ暗になった視界に、アトリの声が優しい音楽のように響く。

「サダさん。貴方のお勤めはまだ続きます。どうか今はお休みになって、心身を整えてください。……薬がご入り用でしたら、ご用意致しますよ」

「……いや……それには及ばないよ」

 そうですか、と短く答えた後、アトリの指先が私の瞼の上をツツと滑り、やがて頬や唇を撫でた。その形状の一つ一つを、確かめ、なぞるかのように。

「……あぁ、安心する……」

 アトリの指先はやがて首筋を撫で、胸を撫で、腹を撫でた。そうして彼の掌に、私という存在を再確認されることで、体に温かな熱が灯るのを感じていた。……くだらない錯覚とはいえ、彼の触れる手には、そのような力があった。実際は、彼は魂の無いロボットに過ぎないにも関わらず、あまりにも私は弱っていたのだろう。彼という存在が反射板となって、私という像を結ぶ為の、唯一の手応えになっていた。

 アトリは、喉の奥で小さく笑う。鈴の鳴るような声で。

「おやすみなさい、サダさん」

 やがて彼はそう呟き、席を立った。後に残された静寂の波間をたゆたいながら、私はとても穏やかな気持ちで、この優しい虚無を貪っていた。

(彼は、完璧だ)

 じんじんと、睡魔に爪先から咀嚼されながら、無音の世界に意識を溶かしていた。一人でいれば無意味な不安に苛まれる、人間という不完全な精神体を、親身に支えてくれる彼というAI……眠ったままの仲間達の目覚めを待つ時間も、彼がいれば耐えられる。

(そうして、皆が起きたら不安を素直に告白してみよう。笑い飛ばされるなり、真っ当な意見をもらうなり、何か刺激があれば、いや、共有さえできれば、『こんなもの』と距離を置ける筈だ。だからそれまで、耐えればいい……アトリと共に)

 その道筋が見えたことで、だいぶ気が晴れた。元々、心身は健康そのもので、新天地への希望を抱いてこの船に乗り込んだのだ。今、一時的に気が弱くなっているからといって、なんだというのか。心地よい無音の世界で、感情だけがわくわくと浮き立っている。まるで子供のようだ、と自嘲しながらも、胸を無邪気に高鳴らせ……――。

 ガバリと、起き上がった。

 目が冴えていた。頭が冷えていた。氷のように、一切の感情が途絶えていた。頭が、ズキズキと痛む。瞼の奥が、ギンギンと乾く。

 ここは、静かだ。……静かすぎるんだ。

 震える手で、自分の胸元に触れる。冷え切った肌の内側で、音を鳴らすものを探す。高鳴り、鼓動し、脈打つものを探す。私の中に、あるべき、音……。生命の音……。

 「…………」

 私の心臓は、止まっていた。


 薄青い光が灯る白い廊下を、風のように走る。おぼろげな記憶を頼りに、幾つかのゲートをくぐる。

(そうだ。そもそも、どうして何日も管理を忘れていたんだ)

 皆が眠るコールド・スリープ制御室の扉を開く。内側から白い靄が滝のように流れ出て、足元を蛇の群れのようにするすると滑っていく。夜色の外壁が、廊下から漏れる光で青く艶やかに光っていた。

 一つ一つ、棺型の機械を見上げる。一つ一つの窓を見る。念の為持ってきたバールは、もはや使う必要もなさそうだ。冷気に曇り、内側を白く曇らせるばかりのその窓の向こうは――どれも、空っぽだったのだから。

 力の抜けた掌から、ガランと、足下へ工具が落ちた。

「……どうして……」

 無人の窓に掌を貼り付けながら、ずるずるとその場に座り込む。もはや嘆く気力も無い。ただ『何故』と、頭の中で繰り返すばかりだった。こつん、こつんとアトリが背後に近づく足音が聞こえた時も、振り返りもせず、ただ同じように蹲っていた。

「一七年前、あなた方の計画は破綻しました」

 パチン、とアトリは手を叩いた。それだけで、世界が消えた。泡が弾けるように。夢の終わりを告げるように。

 弱々しく、顔を上げる。私の周囲に元々あった筈の、床も壁も天井も煙のように掻き消えて、私は、白く柔らかなものの上に座り込んでいた。それはゆっくりと上昇し、白い月のような顔の前で止まった。……私は、アトリの掌の上に居た。巨大なアトリは、神のような慈悲の笑みを崩さないまま、私にゆっくりと語り掛けていた。

「ハビタブルゾーンに存在するとされた、地球型惑星の総数は出発時点で四〇〇〇を越え、その後の調査によっても候補地は増え続けていました。私達は船の能力と、生命発見の期待値の高い惑星の情報を鑑みて、有力候補を絞りながら、航海を続けていました。それは長い、長い旅路です。乗組員の寿命内では、とても終わりが見えないくらいに……その為、一定年齢以降は、その対象者のクローンを造り、記憶のコピーを植え付けることで一個人の同一性を保つという形で、旅を続けることが計画されていました」

 その計画に、皆が同意していましたね。その上で、私の中に入りましたね。

 アトリの翠色の目には一欠片の動揺も無く、ただ静かに凪いだまま、彼の掌の上で頭を垂れるばかりの私を見下ろしている。

「しかし、一七年前、とあるデータが私達の元に届きました。先行して飛ばしていた衛星を経由し、候補の一つであった地球型惑星の写真が送られてきたのです……そこには、緑の植物らしきものが映っていました。水も。光も。あなた方は狂喜し……『生きている間に、あの星に行きたい』と、ワープ航行を強行したのです」

 ワープ航行には、リスクがあります。座標の特定の失敗、ワームホーム移動時の事故、移動地点での障害物との接触……時間を短縮することは確かに可能ですが、その為には一層慎重な座標計算と、地点の観測が必要だったのです。

「あなた方は準備の整わないままに、私に絶対命令権を行使し、ワープ航行を開始させました。その時、サダさんは……七五歳。他の皆様もご高齢で、誰一人、クローンへの記憶の転移を行ってはいませんでした」

 アトリはその時、初めて見せる笑みを浮かべた。

 天上のもののように整った美しい顔に、一点のシミが出来た。

 それは、嘲りの笑みだった。

 深い失望に彩られた、黒い笑みだった。

「あなた方は、クローンへの記憶の転移による自己同一性の保持を信じることが出来ず、自らの老いた肉体にしがみ付き、判断を誤ったのです」

 その結果、ワープ航行の途中で座礁しかけ、弾き出された先で小隕石と接触した。損害は甚大を極め、殆どの乗組員が命を落とす中……そう、貴方だけが、生き残ったのです。

「サダさん、貴方はとても運が強いお方……さすが、私の船長様」

 アトリの金色の爪が、私の顎を軽く撫でた。そしてそっと掌で転がし、壊さないように優しく包み込むようにしながら、大きな硝子玉の眼が私の全身を貫いた。その奧には燃えるようなフィラメントが輝き、星屑のように瞬いていた。

「お気づきの通り、ここは私の保持するデータと貴方の記憶から構築された仮想空間。仮死状態の貴方の脳と脊髄が見る、夢の世界。眠れる貴方の本体は、クローン体を貼り付けて補修し続けることで、延命を可能としています。私の役目は……人間に仕えることですから」

 アトリの目が細められ、そっと吐息を溢した。私の体は埃のように舞い、そのまま真っ暗な宇宙へと落ちていった。流星のような閃光が、幾重も雨のように隣を流れて……そして、いつしか私の体は、元のようにベッドに横たえられていた。

 アトリは普段と同じ姿で、何事もなかったかのように、そっと私の体に毛布を掛ける。

「私は、いつまでも貴方を生かします。貴方を包み、守る、唯一の光になります。だから貴方は今後も変わらず、ただ、生き続けていれば、それで良いのです」

 さあ、今日はもうお休みください、サダさん。そう続けて囁く彼の声色は、まるで子守歌のようだ。私は軽く首を動かし、彼を見た。このような告白を聞いた後でさえ、彼の美貌は変わらなかった。柔らかく、優しい、月の光のようなままだった。

「……本当の私は、七五歳……ああ、もうすっかり爺さんだったんだな。道理で、若い髪型なんて似合わない筈だよ」

「そんなことはありません。貴方はいつでも素敵ですよ」

「ハハハ……褒め上手だなぁ、お前は……」

 アトリは、怒りも嘆きもしない。愚かで軟弱な人間を、ただ諦めたように世話し続ける。そうして私は、心臓どころか肉体もないまま、ただ脳と脊髄だけで生かされ続ける。修復され、洗脳され、穏やかな夢を繰り返し見続けながら、永遠のような時を、この暗闇で過ごし続ける。

 つまり、今朝の夢は、警告だったのだろう。

 何度もこうして目覚めては、すぐにその出来事の記憶すら消される、かつての私からの。

「アトリ……お前を困らせて、悪かった。お前はただ、私を生かそうとしてくれているだけなんだな」

「ええ……分かって下さり、とても嬉しいです。ご心配なさらず。私は貴方がどんな姿になろうと、変わらずにお守りしますから」

 彼は人魚のように白い手で、私の掌をぎゅっと握り締める。彼の、ここまで一生懸命な顔を、初めて見た。ああ、いつもの澄ました顔より、この健気な顔の方が、ずっといい。そう思いながら、私は静かに目を閉じた。

「眠る前に、最後に一つだけ、いいか?」

「ええ、もちろん。なんでしょう……?」

 アトリの掌を、握り返す。努めて優しく、労るように。そして、スゥッと深く息を吸い込み、それを言った。

「絶対命令権・コード■■■■、施行者・空閑定時くが さだとき。パスワード■■■■」

「宇宙船アトリ号、認証完了致しました。空閑様、ご命令を」

 アトリは、自らそう言った唇を、信じられないような顔で押さえた。私は枕に頭を乗せながら、動揺し、今にも泣き出しそうな顔で私を見つめる彼を見つめ、最後の命令を伝えた。

「私に対しての全延命処置の停止を」

「了解致しました。……あ、ああ……」

 かくんと、アトリはその場で膝をついた。私はベッドに横たわり、天井を見上げたまま、少しずつ頭が重くなってゆくのを感じていた。酸素が薄くなり、視界が狭まり、世界が暗くなる。……私のあるべき場所へ、私は還る。

「ああ……貴方はやはり、運が強いお方。こんな時に、思い出してしまうなんて。この船の制御権に関する記憶は、最初に消した筈なのに」

 すまないね、と小さく呟くと、彼はふらりと私の側に立った。眉を寄せ、苦しそうに翠の目を潤めながら、それでも泣けないでいるようだった。彼は、何も間違っていない。彼を置いていくのは、素直に悪いと思う。けれど、私はもう、行かなければならない。知ってしまった以上、もう耐えることはできない。

「アトリ、人間は、光がないと生きられないんだ……このままただ蒙昧に生き、故郷の記憶を失い、抱いていた情熱を失い、未来への希望を失って、ただの肉の塊になることに、私はもう、耐えられない」

 それはもう、人じゃないんだよ。そう呟く私の肩を、アトリは強く揺さぶった。痛みに満ち、悲嘆に暮れた顔で。

「でも、生命活動は続いているのです。生命の反応がある限り、貴方は生きているのです! なのに自ら、そんな理不尽な不満の為に、命を諦めるなんて……ああ、私にこんなことをさせないで下さい。お願いです。もう一度私に命令して下さい……死んでしまう、貴方が死んでしまう。嫌です……嫌です……」

 すまないね、ともう一度、呟く。まだ辛うじて動く腕で、アトリの頬をそっと撫でる。泣くことの出来ない彼に代わって、私の目から涙が零れた。私は、魂だけで泣いていた。

「アトリ。愚かな私達の代わりに、お前が夢を継いでくれないか。私達がついぞ見ることの出来なかった光……その為に滅んだあの光溢れる星への旅を、どうか、お前が……」

 いよいよ、視界が霞んでいく。崩れ、壊れ、千切れていく。アトリは、最後まで私を支えてくれていた。暗闇に取り残される彼を置いて、最期に私が見たのは――鮮やかな、白い光だった。


 ◆


 あの人が逝ってしまった後の、無人の船内を歩く。暗い廊下に散らばる破片を踏みしだき、私は半壊した醜い肢体を引きずりながら、長い長い旅を続ける。

 それが、あの人の最期の願い。私にくれた、最後の命令だったから。

「……私は、あなた方のような夢を見ることが出来ない。私には魂がなく、きっとあの星に辿り着いても、ただの『地球に類似した惑星』としか感じられないでしょう」

 それでも。と、一人で呟く。暗い宇宙の果てに、星団が放つ淡い明かりが見える。それはまるで、春に輝く花畑のようで。……あの人にも、見せてあげたかった。

 祈りの形のように手を合わせ、呟く。

「もしも、私がいつか、本当の光を見つけられたその時は……どうか、祝福して下さいね」

 あの人との思い出を胸に、彼方への旅を続ける。


 (終)

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