生物災害04

「あぁ~やっぱドブネズミは美味しいわねぇ」


 もぐもぐと生のネズミを頭から噛み砕きながら、モモが至福に満ちた声を漏らした。

 継実達は今、海沿い近くで見付けた洞窟の傍に居る。決して大きな洞窟ではなく、奥行きは精々五メートルかそこら。この大きさなら夜中の雨風は凌げるし、中に大型肉食獣が暮らしていた痕跡もないので、此処で一晩過ごす事にした。

 時刻はもうすっかり夜遅くになり、空には星と月が浮かんでいる。普段ならこんなに夜遅くまで活動などしない ― 普通の昼行性生物と同じく日没と共に眠るのが継実達のライフスタイルだ。夜行性生物と夜に戦っても分が悪いので大人しく寝るのが一番なのである ― が、今日は寝床となる場所、つまり傍にある洞窟の発見が遅くなった。そのため今日はこんな夜更けまで起きているのである。夜更けといっても、恐らく午後八時ぐらいだろうが。

 そんな夜更かしのお陰で、ここ何年もまともに見ていない星空を継実は目にしていた。文明が跡形もなく消えた夜空は、とても美しいもの。星の海という言葉があるが、光に満ちた空は暗闇の中に蒼さもあって、確かに海を彷彿とさせる。この星空を泳いだらどれだけ気持ちが良いか……そんな空想が自然と継実の脳裏を過ぎった。七年間の野生生活で現実主義になった継実だが、未だ十七の少女である事は変わりない。星空を泳ぐ想像に思わず笑みが浮かぶ。

 ……ぐっちゃぐっちゃと音を立てて次々とネズミを食べている人物がいなければ、もっとロマンチックさに浸れただろうに。


「モモさん、凄い勢いでネズミ食べてますね。昼間にも食べたのに……そんなにお腹が空いていたんでしょうか」


「それもあるかもだけど、やっぱなんやかんやモモは肉食獣だからね。最近虫とか貝とか果物とかで、肉をあんまり食べてないから、本能的に飢えてるんでしょ」


 ネズミを心底美味しそうに頬張るモモを、ミドリと継実は微笑ましげに眺める。自分の事を話してる、と気付いたのかモモは一瞬視線を向けてきたが、ネズミを食べる方に集中したいのだろう。すぐに意識は継実達から逸れた。正しく犬の食事風景である。

 夕食を堪能しているのはモモだけではない。継実達の分もちゃんとある。寝床探しで夜更かしした分エネルギーも消費したので、遅めの夕食を取る事にしたのだ。何時もなら夜行性生物と遭遇する危険があるので空腹を我慢して寝るところだが、此度の島は夜行性生物の気配もなし。継実達も自分の分の獲物をたくさん獲得した。ただしその獲物はネズミではない。

 蛾のさなぎである。

 蛾の多くは蛹になる時地面に潜っているものだが、それが此度はたっぷり見付かったのだ。具体的な数は数えていないがざっと百匹以上捕まえており、積み上げれば山が出来る。これだけで継実とミドリがお腹いっぱいになるのに十分。なので犬らしく肉を食べたいモモにネズミは渡し、『人間』である継実達が蛹を食べるというメニュー分けとなっている。


「……虫のサナギとネズミって、どっちが文化的なんですかね?」


「虫でしょ。昆虫食って、途上国だと割とポピュラーだったらしいし」


「そうなのですか。まぁ、ネズミよりは美味しいですからね、これ」


 生のままポリポリと食べてはいなかったと思うけどね――――生のままポリポリと蛹を食べているミドリの前でひっそり思いながら、継実も蛹を生でぽりぽりと噛む。七年前の継実なら「うぐぇー」と言いながら出したであろう代物だが、慣れてしまえば存外美味しい。羽化間近のものを除けば中身はどれもとろりとしており、その舌触りも面白いものだ。強いて欠点を挙げるなら時折大きく育った寄生バエの幼虫蛆虫がいて、気付かず食べると腐食性粘液能力による攻撃で口の中が焼け爛れる事ぐらい。

 栄養も満点で、今の世界においては特に優れた食材である。それを山ほど取れたのだから、これは実に幸先の良い話だ。


「なーんか猛獣も見掛けないし、此処は今までで一番過ごしやすいわねぇ」


「もう南極より此処に暮らす方が良いんじゃないですかね」


「かもねー」


 モモとミドリは暢気に語らい、食事を満喫する。勿論周囲の警戒は怠っていないが、モモが言うように猛獣の気配は何処にもない。この島に来て最初に出会った動物・ヤドカリ以上の脅威はついに現れなかった。

 正直なところ旅立つ前まで暮らしていた草原よりも住み易い。南極という目的地がなければ、ミドリが言うように此処に定住しても良いぐらいだ。勿論島の全てを把握した訳ではないし、一年を通してみなければ分からない事もあるだろう。困難も起きるだろうし、足りないものだってある筈だ。しかしそれでも、毎日猛獣が襲い掛かってくる土地よりは暮らしやすい筈。今の世界で一番の脅威は天災でもなんでもなく、野生生物の襲撃なのだから。

 今までの旅で一番楽な、久しぶりの、或いは七年以来初めての心安まる時。

 自然界は厳しいものだが、別に人間を虐めるために厳しい訳ではない。偶にはこんな、休憩を取れる日もあるだろう。ならその穏やかな時にしっかり休み、英気を養うのが合理的……と、心から継実も思っている。

 されど不意に、継実は蛹を掴んでいた手が止まった。英気を養わねばならない時に、小難しい表情を浮かべながら。

 次いでしばし、自分の手にある蛹をじっと見てしまう。


「どしたの継実? なんか変なもんでも混ざってた?」


 あまりにも長く見ていたからか、ネズミを頬張りながらモモが尋ねてくる。

 ハッと我に返り顔を上げて、無意識に視線を泳がせる継実。その際、ミドリも蛹を食べる手が止まっている事に気付いた。ただしそれは継実と同じ理由ではなく、継実が食べるのを止めたから、なんとなく不安になって中断しただけに違いない。怯えたようなミドリの眼差しがそう物語っていた。

 大した理由じゃないだけに、心配させてしまったのは申し訳ないと継実は思う。


「ああ、うん。やっぱ大きさの違いが気になって」


 故に継実は、自分が抱いた疑問を隠しもせずに明かした。

 昆虫の大きさというのは、同種内でも栄養状態によってかなり変化するものだ。その程度は種類にもよるが、例えばカブトムシの場合だと飼育環境などで非常に良好な栄養状態が続いた個体は、野外の小さな個体と比べて倍近いサイズを誇るという。蛾の幼虫だって季節や栄養状態で大きさが変わるものであり、条件がバラバラな自然界なら蛹の大きさも違うのが自然というもの。

 しかしながら、それを含めて考えても。

 見た目上どう考えても同じ種類なのに、のは、何かがおかしいと継実は思うのだ。


「まぁ、気持ちは分からなくもないけどね。確かに普通じゃなさそうだし」


「な、なんか変な病気でも持ってるのでしょうか……」


「そーいうんじゃないと思う。多分だけど……」


 不安げなミドリに自分の考えを伝えようとする継実だったが、その言葉はぷつりと途絶えた。ミドリがますます不安そうな目で見つめるも、継実は口をきゅっと噤む。

 いくらなんでもそれはない。

 そう思ってしまうような可能性が喉元まで来たから、その口を閉ざした。しかし感情的に否定した可能性が本当に間違っていた事は、継実的にはあまりない。嫌な考えは大概当たる。ならば根拠もなしに否定するのは、状況への対処が遅れるだけ危険というものだ。

 自然界は厳しいばかりじゃない。だけど休める時が来たとしても、それが十分な時間続くとは限らない。自然は人間を虐めないが、励ます事も守る事もしてくれないのだから。

 思考を、カチリと切り換える。


「……


 開いた口は、最悪の可能性を告げる事を躊躇わなかった。

 思えば妙なのだ。どんな理由があろうとも、全ての生き物が今の居場所から素早く動ける訳ではない。

 蛾の幼虫などその典型。根本的に足が遅いのだから、遠くに行きたくても行ける筈がないのだ。どんなに美味しくて栄養価のあるものが現れたとしても、或いは背筋が凍るほど恐ろしい外敵が現れたとしても、葉の上でジタバタするのが精いっぱい。

 その姿が全て、生まれたばかりの小さな幼虫まで含めて消えたとすれば、蛹になって隠れているとしか思えない。

 それが可能であるかとか、蛹になった後正常な成虫になれるかとか、そんな『些末事』はこの際どうでも良い。たった七年で樹木が百数十メートルの巨木へと育ち、直径二メートルの巻き貝が何処かで繁栄し、それを背負うヤドカリが誕生するのがミュータントである。能力以外も色々とおかしい ― 或いは進化するほど ― のは今更というものだ。

 勿論それでもやはり、相当の無茶をしているのは確かだろう。だから問題は蛹になった事そのものではなく――――そこまでして蛹になろうとした理由。

 蛹の役割は、幼虫の身体から成虫の身体へと生まれ変わるための『中間形態』である事。いわば成虫が生まれるための卵のようなものだ。しかし頑強な殻、どろどろに溶けた身体、活動しない事による代謝の抑制などのお陰で、環境変化に大して滅法強いのも特徴としてある。一説によれば蛹というのは本来、急激に変化していく環境を一時的にやり過ごすために発達した形態だという。今はその仕組みを利用し、幼虫と成虫の分業など様々な能力を発揮して昆虫は繁栄しているが……本質的に蛹は守りの姿なのだ。

 つまりこの地に暮らす幼虫達が急いで蛹になったのは、そうまでして身を守ろうとしたという事に他ならない。

 普通に生きていても為す術がなく、リスクも何も全部度外視して蛹になるしかないと本能的に感じる『何か』が起きようとしていると考えるのが自然だ。そしてその『何か』はまだ起きていないだろう。こんな無茶な方法を選ばざるを得ない災禍なのだから、全てが終わった後はそこらに死骸がごろごろと転がっていないとおかしいのだから。


「やっぱりこの島、なんか変だ。出来るだけ早く旅立った方が良いと思う」


「……そうね。今のところなんも感じないけど、自分を信じ過ぎるのは自然で一番やっちゃ駄目な事だし。継実の感覚を信じましょ」


 正直に話せば、モモはすんなりと継実の考えを受け入れた。獣である彼女は賭けを好まない。リスクがあるなら、それを避けようとするのが自然な考えだった。

 対してミドリは、いきなり告げられた危険性にわたふた。安全だと思っていたのに突然危険だと言われて、どうして良いか分からなくなったのだろう。


「えっ。そ、それじゃあもうすぐにでも此処を出た方が良いのでしょうか……」


「いや、それはもっと危ないでしょ。私らの能力じゃ海を渡るだけで自殺行為なのは、日本を出た時に思い知ったでしょ?」


「日本からフィリピンほどの距離はないけど、隣の島、というか大陸まではそれなりには遠いからね。まずは渡る方法を見付けないと駄目だよ。明日はそれを探そう」


「は、はい。そうですね。分かりました」


 モモと継実に説明され、ミドリは少し落ち着きを取り戻す。『文明人』である彼女には危険と隣り合わせなど我慢ならないだろうが、急いで行動する方が危ないとなれば話は別。そのぐらいの合理性は持ち合わせているのだ。

 それに継実とモモを信用していて、二人の言う事を聞こうという決心もあるのだろう。無論ただの盲信では却って危ないが、疑問に感じればちゃんと尋ねてくるのでその心配は必要あるまい。任せるところは任せて、自分は自分の出来る事を全力でする。一番良い精神状態だろう。

 ちなみに野生動物であるモモは最初からミドリと同じ心構えが出来ているので、端から心配などいらない。そして何かがあっても、無駄な事はさらっと諦め、気持ちを切り換えるのに長けている。継実達の中では一番タフな、鋼のメンタルの持ち主だ。

 実のところ継実が、精神的には誰よりも厳しかったり。


「(さぁーて、本当に焦らない方が良いのかどうか)」


 夜中に海を渡る。それがどれほど危険なのかは、ミドリに話した通り日本出発時に散々思い知った。今でも自殺行為だと思っているし、ツバメの手助けなしに日本海を渡る方法なんて未だに考えも付いていない。次の渡海は距離的にそこまで過酷ではないだろうが、だとしても困難なのは確か。考えなしに挑めばほぼ確実に死ぬ。

 しかし、これからこの島にやってくる『何か』がどうして渡海よりも安全だと言えるのか。夜中に渡海した時の生存率が〇・〇一パーセントだとしても、『何か』と遭遇した時の生存率が〇・〇〇一パーセントなら、前者を選ぶのが正解に決まっている。果たして夜明けを待つのが正解なのか、実はとんでもない間違いをしているのではないか――――

 ……こんな事を考え出したら切りがないのは継実にも分かっている。それでももしもを考えてしまうのが人間なのだ。誰かに頼ったりスッキリ割り切れたりすれば楽なのだろうが、継実はミドリに頼られる側で、犬ほど単純にはなれないホモ・サピエンス。うだうだと脳裏に、考えても仕方ない可能性が過ぎる。

 尤も、七年前小学生の時と比べればかなり単純にもなったもので。

 ぽつりと頭に『水滴』が落ちてくるだけで、そんな考えは何処かに飛んでいってしまった。


「んぁ? 雨?」


「あら、何時の間にか雨雲が来てるわね。こりゃ土砂降りになるかしら」


 モモと共に空を見上げてみれば、ついさっきまで広がっていた筈の星空が暗雲に包まれていた。

 継実の目は雲の厚みを捉える。厚みは精々数千メートル程度の、ごく普通の雨雲積乱雲だ。とはいえこれだけ大きければ大量の水分を含み、かなりの大雨を降らすだろう。

 やがて森の方から海に向けて、強い風が吹き始めた。雨と合わされば所謂暴風雨。ちょっとした災害だ。

 幸いにして、継実達は寝床として利用するため洞窟の傍に陣取っている。


「わわわ。食べ物も濡れちゃいますし、早く洞窟の中に逃げましょう」


「そうだね。モモも蛹運ぶの手伝って」


「あいよー」


 手分けして食糧を洞窟内へと運び入れて、すぐに自分達も洞窟の中へ。奥行きのない穴だが、入口から数メートルも離れれば雨粒の飛沫など入らない。吹き荒れる風は森から海に向かっており、洞窟は海側を向いているので、風で雨が入り込む心配も不要だ。

 兎にも角にも一安心。

 そうして継実達が準備を終えた頃になって、空から本格的に大粒の雨が降り出すのだった。

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