挟まったままの私たちは

はごろもとびこ

第1話

 おねえ、きれいだなあ。何度も悩んで決めたそのマーメイドのドレスはね、きっとおねえのために縫われたんだよ。真っ白で、きらきらしていて、カナヅチのおねえもスイスイ泳げそう。おねえは「私は変わらないよ」と言ったけど多分、隣の人、そう旦那さんがおねえの大切なになっていく。今だってほら、漂って離れてしまわないようにしっかり支えてくれているでしょう。でもでもない狭間にはもう、おねえはいなくなってしまうの。大丈夫、そのくらいわかってる。わかっちゃいるけど、おねえ、知らないへ泳いでいかないで。どこでもない狭間の中に、私を置いていかないで。あれ、おねえ人魚になってるよ、カラフルな魚たちがおめでとうっておねえの周りをぐるぐるしてる。待って、待っておねえ。上手く叫べないし、かすれた声しかでないよ。おねえ、おねえ!

 しぶきを上げて、波どもはおねえたちを一気にさらっていった。気付けばおねえも旦那さんもカラフルな魚たちもいない。私はただ一人、たぽたぽと揺れる夜の水面に浮かんでいた。



 ゆらゆらと心地よかった身体が、だんだんと重みを増してくる。遠くから私を呼ぶ、声がする。


「――み、すみ起きて」

 肩を揺らして起こしてきたのはおねえだった。勉強をしていたはずなのに、いつの間にかテーブルの上で寝てしまっていた。

「んあ、よく寝た」

 袖に垂れたよだれを見て口元をそのまま拭おうとする。その様子を見て「あーあ、もう」とおねえはティッシュを差し出してくれる。ありがとう、言いながらティッシュ受け取り、ついでに濡れている目元も適当に拭いた。

「なんか寂しい夢を見ていた気がする」

「本当? すやすやよおく眠っていたけど。ここ私の家よ」

「おねえの家じゃなくておねえの部屋でしょ」

 こういう返しは可愛くないなあと自分でも思うけれど、おねえはいつも笑ってくれる。

「まさか高校生になってまでうちにくるとはねえ」

 友達とか彼氏とかいいの、とおねえは続けて聞いた。

「だっておねえ、もうすぐいなくなっちゃうから」

 ふいっと顔をそらし、こみ上げてくるあついものに引っ込め、引っ込めと暗示をかける。

「それじゃあまるで今生の別れみたいね」

 ふわっと笑った七歳上のおねえとはいわゆる幼なじみであり、私たちはの狭間で育ってきた。「大丈夫よ、すみ」と切りそろえた前髪をぐしゃぐしゃに撫でられる。いつもなら抵抗するが、今日はそんな気になれずうつむき黙り込んでいた。こみ上げてきたものが、まぶたの縁でふるふると震えている。するとおねえはふうと息をもらし、首を傾げてこう言った。

「私は変わらないから」

 そうして両腕で私を包み、大丈夫大丈夫、と背中をさすった。こんなに胸がぎゅっとなるのは、恐らくさっきまで見てた夢のせいだ。暗示に失敗した私の背中を丁寧に行き来する温もりに、ほろほろと気持ちが解けていった。

 おねえはもうすぐ、大好きな人と結婚する。


 落ち着いた私が帰ると言うと、おねえは門を出るところまで送ってくれた。

「……お邪魔しました」

「気をつけてね」

 すぐそこだけど、とおねえは付け加える。いつものやりとりも少し気まずい。こくんと頷き、二軒先の自宅へ帰る。玄関に手をかけ振り返ると、おねえはこちらに手を振った。

「またね」

 子どものころ、よくこうやって見送ってくれたっけ。私は手をあげて「またね」と小さく笑った。


 バタン、重い戸がしまる。時刻は午後七時過ぎ、三和土たたきには大きな革靴があった。おとう、もう帰ってきてるんだ。玄関まで、おかあの声が響いている。何やらまたおとうに文句を言っているようだ。リビングに近づくにつれて声がはっきりしてきた。

「……から、うちはO型だって何度も言ってるのに。自分の家でしょう? 便座カバーもまともに買えないなんて、もう」

「ああ、すまん」

 ぶっきらぼうなのはおとうの返事だ。

「アアスマンじゃないのよ!」

 くわばらくわばら。廊下に張り付き、昔ばあばに教わった言葉を小声で唱える。神さま、もしいま温暖化が急激に進んだとしたら、フロンガスや二酸化炭素よりおかあの鎮火を推奨します、と心から言えるだろう。母の小言が収まりそうにないのでリビングを諦めて自室でへ向かった。部屋着に着替えてベットに転がると、おねえと仲良くなった出来事を思い返した。

 たしか、おねえが中学生で、私は小学生だった。



「このマルなあに?」

 近所の公園で遊んでいると、制服のままで地面に何かを描いているおねえを見かけて隣にしゃがんだ。ものすご勢いで顔を上げたおねえは、私をみて見開いた目をさっと優しく細めた。

「なんだ、すみか」

 そうして枝と石を使って淡々と説明してくれた。

「丸がふたつあるでしょう。一つは内、一つは外って呼ぶの」

 内は味方で、外は敵だという。

「おねえ、なにかとケットウするの?」

 ドラマで覚えたばかりの言葉をそのまま使った私に、ぶはっとおねえは吹き出した。

「ちがうよ、でもそんな感じかも」

 ふふ、と笑って私の頬をつついた。いかにもな子ども扱いにむっとした私が「いい? そういうときはちゃんとセツメイしなきゃだめよ」と今度はおかあのまねをしたので、おねえはいよいよお腹を抱えてひいひい転がった。

「あーあ、すみは可愛いね」

 飛び出た涙を拭いて、むくれた私に小石をいくつか渡した。

「私はね、内は悪口を言われても許せる人、外は悪口を言われたら嫌になっちゃう人って分けてるの」

 そしておねえは小石をふたつ、内においた。

「まず、パパとママ」

 くるっと私を見て「すみもやってごらん」と言った。私は迷わずみっつ小石を置いた。みっつ? とおねえは不思議そうだった。

「おとうとおかあ、それからケンタ」

「ケンタ?」

 犬だよね、おねえは確かめるように聞いてきた。

「そうだよ、だってケンタはかぞくだもん」

「なるほどね」

 さらっと流された。それは違うでしょうと今なら言えるのだろうけど、少し前の大笑いでおねえは子どもの扱いを心得たのだ。二人で石を並べていくと、ほとんどの石が外になった。

「私たち、敵だらけだねえ」

 そう呟いたおねえは、下唇をきゅっと噛んでいた。石を数えて、私ははたと気付いた。

「おねえ、すみはどっち?」

「え?」

「おねえにとってすみはウチかな。それとも、ソト、なの」

 最後の方は言いながら悲しくなってしまい、尻つぼみだった気がする。おねえを覗うときょとんとしていた。これは聞いてはいけなかった、といっても出てしまったものは吸い込めず、ぐるぐると余っていた小石で地面をなぞってごまかした。

「そうねえ」

 ふたつの小石をもち、おねえは内と外の真ん中に並べて置いた。

「私とすみは、ここ」

「ここ?」

「そう、内と外の。すみは優しくて、いいこで、可愛いし」

「ハザマ?」

 ふふふ、と肩をすくめるおねえに私は口元が緩んだ。

「トクベツってこと?」

 うん、おねえは頷く。

「すみが大きくなったら、たくさん一緒に遊ぼう」

「もうあそんでるよ?」

「あーっははは」

 おねえはまた声を上げて笑った。そんなに笑わなくてもいいのに、と口をとがらせる。

「そうだね、遊んでるね」

 石をざっと集めておねえは続けた。

「さ、手を洗っておうち帰ろう」

「いっしょに?」

「うん、一緒に」

 公園で手を洗い、私たちは手を繋いで帰った。

「すみはそのまま、可愛いすみのままでいてね」

 帰り道のおねえの言葉はよく分からなかった。カワイイという単語だけが、私の頬をさっと赤らめた。


 あのとき、私の目の前では小石を外に置きづらくて、おねえは狭間なんて作ったのかもしれないな。真っ白な天井を見つめて考えた。もやもやが上から降ってきそうで、私はベッドからおりて机に向かった。こういうとき、昔からひたすら絵を描いていた。楽しい、空想の世界を、気が済むまでどんどん広げるのだ。



 コンコン、部屋のドアがノックされる。

「あ、はーい」

 返事をすると、開けたのはおとうだった。

「夕飯、できたぞ」

 ぶっきらぼうの中に、わずかな疲労感がにじみ出ている。時計を見ると午後九時、今日は随分と深く世界に浸ってしまった。

 リビングに入るとテーブルの上にはきれいに盛り付けられた素麺とサラダ、それぞれの器やお箸が並べられていた。

「すごい、これおとうが茹でたの」

 こくんと首だけでおとうは返事をする。

「おかあは?」

 おとうはビールを注ぎながら目線と首だけで、奥のソファを示す。そっと覗きにいくと、エプロンを掛けたままぐうぐうといびきをかくおかあがいた。コウネンキたるものはここまで人を無気力にしてしまうものなのだろうか。そっとそばにあったブランケットをかけ、夕飯の席に戻る。

「……巨大生物め」

 その言葉に思わずぶはあっと吹き出す。表情筋こそ死んでいるけれどユーモアは忘れない、そんなおとうが投下するたまの爆弾がきた。ぼそっと飛んだ小さな反抗は、私のごちゃごちゃしていた頭の中まで一緒に吹き飛ばしてくれた。




「っていうことがあってね」

 週末、おねえに呼び出されて買い物に来ている。休憩がてら寄った喫茶店でお茶をしながら夕飯時のおとうの話をした。

って、すみパパ、センスありすぎて、もう」

 おねえはひいひいお腹をかかえている。閾値いきちが低いというか、笑い上戸というか。

「でもさ、おねえのところはひどくなかったんでしょ」

 おばさんの更年期、と続ける。

「そうねえ、うちはあんまりなかったけど。人それぞれじゃないかな?」

 アイスティーをカラコロ混ぜておねえは言った。ふうん、と軽く相づちを打って、一緒に頼んだアイスレモンティーをちゅうっと吸う。

「しかし自分で準備するなんて思ってなかったわ。今ならサンタさんの気持ちわかるかも」

 おねえは両脇にある山積みの袋を持ち上げるふりをした。

「飾り付けって式場に頼むのかと思った」

 大量の戦利品が袋から飛び出している。最後に会ったあの日から二週間、私から連絡を取りづらかった。おねえが「買い物に付き合ってくれないか」と連絡をくれて二つ返事で頷き、今日に至る。

「すみがいて助かったよ。彼は週末も仕事で休みが被らないから」

「うん」

 ぴょこんと袋から顔を出すドライフラワーに目がいく。

「あのさ、結婚式にドライフラワーってどうなの?」

「ん、どうって?」

「なんか、枯れてるし」

 あはは、とおねえはさっきよりも控えめに笑った。

「ウェルカムボートとか、席札に使おうかなって」

 こんな感じに、とスマホを取り出して写真を見せてくれた。

「買ったの何の花だっけ?」

「うーん、黄色とピンクとまるいもふもふしたやつ」

「おねえ、それ、花言葉とか大丈夫?」

 大丈夫大丈夫、とおねえはスマホを閉じながら言う。

「知らなきゃ、ないのと一緒よ」

 そうかなあとも思ったけれど、本人が良いならまあいっか、と半分になったレモンティーにガムシロップを入れる。

「すみは甘いもの好きねえ」

 頬杖をつき、こちらを見つめてきた。私はレモンティーに目を落とし、ストローでグラスに波を作る。

「ねえ、おねえ」

 んー? と間延びした返事が返ってくる。

「ウェルカムボート、っていうの」

 うん、と頷きながらおねえはまたアイスティーをカラコロ鳴らす。爽やかな音色と正反対に、私は一音一音確かめるように絞り出す。

「私が作ってもいいかな?」

「え!」

 店内に響くような大きな声にぱっとレモンティーから顔をあげる。すると目を見開き、口はぽかんと開いて、動作もまるで止まってしまったまさにと言う感情を見事に体現したおねえがそこにいた。

「い、いいの」

 かろうじて声を発したような震え方だ。買い物はいいとして、おねえの結婚がいやで泣いたような私が手伝うなどと思いもしなかったのだろう。

「うん。良ければ、だけど」

 再び視界がテーブルとレモンティーになる。言い出したはいいが、自身の矛盾に恥ずかしくなってどんどん声は小さくなっていった。

「いい、かな?」

 尋ねると、おねえはさっとグラスに添えていた私の右手を握った。

「もちろんだよ、すみ。おねえとっても嬉しい」


 それから私はたくさん調べた。なにせ結婚式は一度しか行ったことがない。しかもよく知らない親戚の、私が幼稚園生のときだ。装飾品はおろか花嫁の顔すら覚えていない。「足りないものあったら遠慮なく言ってね」とおねえは言ってくれたが、何とかなりそうだった。ドライフラワーを使った、黄色がメインのアンティークなテーマでやるという。

「ここで役に立つとはね」

 本棚に擬態させている、空想の積み重ねたちを見る。何冊にもなった自分のセンスを信じるときがきた。

 おねえが用意した木板は三十センチの正方形だ。それをペンキで白に塗る。乾かす間に紺色のポスターカラーでおねえと旦那さんの名前を書くシミュレーションをする。何度もやって、ようやくバランスがとれた。冷や汗と格闘しながら木板に文字を書き上げ、周りに黄色で小ぶりな花の絵を描いていく。

「よし」

 あとはドライフラワーを飾り付けるだけ。おねえなら何でも喜んでくれるだろうなとわかってはいるものの、その反応が怖くて仕方なかった。



「おかあ、これ時代遅れじゃない?」

 結婚式当日、良いバッグなんて持ってない私はおかあに借りたのだが、どう見てもバブリーなハンドバッグにため息が出た。

「文句があるなら制服着ていきな。あんたがどうしてもドレスで行きたいって言うからおかあはヘソクリをくず――」

「あーあー! わかった、わかったよこれでいいよ」

 長くなりそうだったので話を遮ると後ろで「なによ生意気な、私がどれだけ苦労して買ったか」などとぐちぐち続けている。稼いだのはおとうでしょ、と言いたかったが今日はおねえの大切な日。反抗期はお預けだ。

 会場にいってウェルカムボートを設置する。他に準備している人たちがちらほら褒めてくれて、気恥ずかしかった。

「ドレスは挙式まで内緒」

 以前、おねえに言われた。教会風の建物に入り、慣れない讃美歌を歌ってバージンロードを歩いてくるおねえを今か今かと待つ。

 バン、と扉が開いた。生演奏の入場曲が参列者を包み込む。

「わあ……」

 目の前に現れたのは夢に見たマーメイドドレスではなく、Aラインの上品なドレスをまとったおねえだった。いつものバカ笑いや、冗談をいう底抜けに明るいおねえとはまるで違う。別人の、きらきら輝く素敵な花嫁がそこにいる。

「ちょっと、やだあんた、もう泣いてるよ」

 隣に座っているおかあがハンカチをくれた。受け取ったけど、一瞬もおねえの姿から目をそらしたくなくて、おかあには「うん」と言ったきりだった。


「いやあきれいだったねえ」

 首筋に流れる汗を拭って、帰りのバスの中でおかあは言った。

「旦那さんもいい人そうでさ」

 式の間、旦那さんは本当に愛おしそうな眼差しでおねえを見つめていた。

「そうだね」

 揺れる車体に身を任せ、ガタンと引き出物が飛び上がる。紙袋の取っ手についている黄色のリボンはいつの間にか解けていたみたいだ。嫌だったバブリーなハンドバッグも、日が落ちればそこまで気にならなかった。


「ただいまあ」

 私は慣れないヒールを脱ぎ捨てて、おかあはジャケットを剥ぎながら玄関に引き出物を置く。

「おかえり」

 仕事から帰ってきたばかりのおとうが、出迎えてくれた。

「これ引き出物。リビングにだしといて」

 おかあが言った。

「じゃあ私、着替えてくるね」

 アクセサリーを外しながら、私は自室に向かった。


 コンコン、とドアがノックされる。

「入るぞ」

 入ってきたのはおとうだった。

「どうしたの、またおかあ、コウネンキ?」

 なにも言わず、おとうはスッと手紙を差し出した。

「引き出物の中に入ってた」

 それだけ言って、おとうは「じゃ」とドアを閉めた。黄色の封筒の裏には“私のかわいいすみへ、おねえより”と書いてあった。言わずもがな、おねえからの手紙だ。はやる気持ちを抑えて、破らないようそっと開封する。内容は便箋二枚だった。さっと読めてしまう量。それでも私には十分な文字の数だった。読み終えて、私はばふんとベッドに倒れた。潤んだ天井から、今日だけもやもやは降ってこないだろう。

 おねえはこれから、あの旦那さんと二人で新しいをつくる。照明を浴びて笑い合う二人は、大きなひとつの丸の中にいるようだった。そのうちに私もおねえにとってになる。わかってる。私も慣れて、こんなことすっかり忘れてしまうかもしれない。だからきっと、

「おねえ、幸せになってね」

 私が今言えることは、それだけなのだ。




『私のかわいいすみへ


 すみ、今日は来てくれてありがとう。すみはまだ学生だからすみママにも招待を出してしまって、行き帰りでケンカはしなかった? 更年期はずっと続くわけじゃないんだから、仲良くするのよ。

 ウェルカムボート、作ってくれてありがとう。まだ見てないから楽しみ! 大事にするね。正直すみが寂しがってくれて驚いた。そんなに私のこと大好きだったのね~(笑)

 昔、公園で話したこと覚えてる? 私たちは狭間にいるんだよって。小さかったから覚えてないかなあ。当時は学校も部活も何もかもイヤになって、私はすみに救われたの。ありがとう。

 これからも仲良くしてね。落ち着いたら連絡します。


 おねえより』


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