乙姫様

稲荷田康史

乙姫様

 ある日突然、乙姫様がオレの部屋にやってきた。

 誰もが一目で乙姫様だと分かるあの格好だ。

「むさくるしい部屋ね」入ってくるなり彼女はそう言った。「でもわたしがきれいにしてあげるわ」

 彼女は、オレの部屋にいくつも平積みになっている本の重なりのひとつに手を掛けようとした。

 オレは慌てて言った。「何にも触るな! これはこれできちんと整頓されてるんだ!」

「あ、そう。でもわたしが座るところがないじゃない」彼女は部屋を見回した。

「勝手に座るな! 乙姫様がオレに何の用があるんだ!」

「あなた、もう40歳になるのにまだ無職で独身で恋人もいなくてひきこもりなんでしょ。わたしがなんとかしてあげるわ」

「君に何ができるっていうんだ! オレの何が分かるっていうんだ!」

「とりあえず、落ち着きましょう。さあ、座って座って」

 彼女は積み重なった本とちゃぶ台のすき間に身をよじらせて入り込んで座った。悪びれた様子もなくキョロキョロと周りを見回していた。

 オレは少し考えた。──乙姫様なら何かオレに恩があってそれを返しにきたのではないだろうかと。あまりご機嫌をそこねない方がいいのかもしれないぞ──。

「お茶とか出てこないのかしら」彼女はちょっと浮き浮きしているようでもあった。

 なんだかなあと思いながらも、オレは冷蔵庫から、それしかないのだが、二本の缶コーヒーを取り出した。

「はいはい」オレは彼女に一本差し出し、自分の缶のタブを開け、ごくごくと飲んだ。

「最近の缶コーヒーって凄くおいしくなったと思わない? やっぱ最高だね」オレはプハーと息を吐いたあとに言った。

「あなた缶コーヒー中毒なんですってね」彼女は急に真面目な顔をして言った。「缶コーヒーは体に悪くないというあれね、あれは間違っているわ」

 彼女はだんだん先生口調になってきた。

「缶コーヒーには結構たくさんの砂糖が入っているのよ。飲み過ぎると血糖値が上がってⅡ型糖尿病になるリスクがあるってことが判明したのよ。飲み過ぎは体によくないわ」

「ふーん、そうなんだ。知らなかったなあ。でもそんなことどうでもよくなくね?」オレはガブガブ缶コーヒーを飲んだ。

 さて、缶コーヒーを飲んだあとは一服だ。オレは煙草をくわえて火を点け、ゆっくりと吸い始めた。

「純一さん」彼女はなぜかオレの名前を知っていた。「あなた世の中には嫌煙権というものがあることを知ってて?」彼女は何か珍しいものを見る目をしていた。

「知ってるよ。でも、ここはオレの部屋だ、オレの自由だ」オレは煙草をくゆらせた。

「言うまでもなく煙草も体に悪いわ」彼女は急に態度を変えて、「ほんとにもうあなたって人はどうしようもないわね。どうしてこんな生活が続けられるの。もうあきれた」

「でも、この前、煙草を吸うと癌の免疫がつくっていう説をユーチューブで聞いたぜ。一理あると思わない?」

「あなたって、そういうことを信じる人だったのね」彼女は肩を落として言った。

 煙草を吸い終えてオレはしばらくボーッとしていたが、彼女が乙姫様であることを急に思い出した。

「なぜ、君はここにいるんだ」オレは改めて訊いた。「なぜ、君がここにやってこなくちゃならないんだ」

「当然でしょ。あなたがひきこもりになったって話を聞いて心配で駆けつけたんじゃない。あなた、なんで会社辞めちゃったの?」

「オレは会社も世の中も何もかも全部嫌になってしまったのさ。しばらくブラブラしてる。退職金結構いっぱい貰ったしね」

「何か嫌なことでもあったの? わたしに話してごらんなさい」

「大したわけはないよ。オレは元々会社員なんかになる柄じゃなかったのさ。オレはもっと自由に生きたいんだ」

「でも、きっかけとかあったんでしょ」

「そうだなあ、この世は何もかもインチキってことに気が付いたんだ。日本社会のウソっぽさというのが、存在の耐えられない軽さなんで」

「なにそれ。あなたが自暴自棄になってるだけじゃないの」

「仕事も職場の人間関係も別に好きでやってるわけじゃないってことが分かっちゃったんだ」

「退職金なんてすぐになくなってしまうわ。どうやって暮らしていくつもり?」

「何も考えてない。今は考えてない。しばらく好きな本ばかり読んで暮らすよ。オレはオレの好きなことだけをやって生きていくんだ」

「そういえば、この部屋本だらけね。だったら本屋さんになれば?」

「オレは今そんな世俗的なことなんかどうでもいい世界にいるんだ。誰にも理解できない、君にも分かりっこない」

「なにそれ。お金がなくても暮らしていける世界なんてないのよ」

 オレは、ひょっとすると乙姫様はオレにお金をくれにきたのではないかとも思った。

「君、いや、あなた様はわたしに何か贈り物を持ってきたのではありませんか?」オレは恐る恐る訊いてみた。

「持ってきたわ、これよ」

 乙姫様はどこからか玉手箱のようなものを出して脇に置いた。

「これには、あなたにとって一番大事なものが入っているのよ」乙姫様は玉手箱の上部をなでながら言った。

「オレにとって一番大事なものって何?」

「今は教えられないわ。これだって今はあげられないのよ」

「そんな、もったいつけなくてもいいじゃない」

「機が熟すのを待つしかないの。あなたがこれをもらうにふさわしい人ってわたしが判断したらあげてもいいわ」

「え、オレはどうすればいいの?」

「わたしが出す試験に合格したらあげる」

「試験ってなんだよ」

 乙姫様は、少し居ずまいを正してから話し始めた。

「それでは、第一の試験を出します。あなたには善意ってものがありますか?」

「えっ、うーん、人並みにはあると思うよ」

「あなたは何か善いことをした憶えがありますか?」

「そうだなあ、あっ、学生時代に落ちてた財布を拾って守衛さんに届けたら、あとで持ち主に感謝されたってことがあるよ」

「そう、良かったわね、ひとつぐらいあって。プラス1点」

 乙姫様は取り出したメモ帳にちょっとしるしを付けた。

「それは何だよ」

「あなたの成績表よ。ちゃんと書いとかないと分かんなくなるじゃない」

「そういうもんなんだ」オレは首をひねった。

 乙姫様は次に言った。

「じゃ、あなたは悪いことをした憶えがありますか?」

「えっ、悪いことなんてしてないよ」

「そうかしら、本当にないの?」

「そういえば、小学生の頃、女の子に乱暴して泣かしたことはあったかな」

「ほら、ごらんなさい、マイナス1点、やっぱりあなたって人はろくなもんじゃないのよ」

「ちょっと待ってよ。小学生だよ、子供の頃の話だよ、まだ分別がなかったんだよ」

「言い訳なんか聞きたくないわ。それがあなたの本性なのよ」

「待って、待って、あっ、献血したことあるよ、オレ」

「そう、まだあったの、じゃプラス1点ね」乙姫様はまたメモ帳に記入した。そして言った。

「あなたには愛がありますか?」

「愛?」オレはあっけにとられたあと、考え込んだ。「あったような気もするけど」オレは頭をかきながら言った。

「あなたはご両親を愛していますか?」乙姫様は淡々と訊き続けた。

「いや、オレは親と仲が悪いんだ。口もきかない」

「それじゃご両親への愛はないの?」

「多分ね。向こうも愛してないし、こっちも愛してない」

「最悪だわ」乙姫様はあきれたように言った。「マイナス2点よ」

 メモ帳に記入してから、乙姫様はまた訊いた。

「今、愛している人とかいないの?」

「いないなあ」オレは言った。

「そうよね、あなたには恋人もいないんですものね。マイナス1点」

「何、なに? 恋人がいないだけで悪いことでもあるんですか?」

「愛がないのよ、あなたには」乙姫様は溜息をついた。

「そんなこと、分かんないじゃない。好きな人ができるかもしれないしさ」

「駄目なのよ。今が全てなのよ。今この時の問題なのよ」

「あのね、あのね」オレはあせって口から出まかせを言った。「漠然と人類愛みたいなものはあるかもしれないよ」

「うそ。あなたは今自分だけの世界にいるって言ったじゃない」

「そういうことじゃなくて、なんて言うかさ、あるじゃない」

「あるの?」

「あるよ」

「うーん」乙姫様はしばらく頭を悩ませていたが、言った。「それは証明してもらう必要があるわね」

「証明?」

「そう証明よ。今から外へ出てあなたに実際に行動で示してもらわなきゃ」

 乙姫様は立ち上がった。「さあ行きましょう」


        ***


 オレと乙姫様は部屋から出て外にいた。

「あなたに人類愛があるってことを行動で示してごらんなさい」

「行動ってなんだよ、ここで愛を叫ぶのかよ」

「ほら、この町の様子、道端の様子などをよく見てごらんなさい」

 乙姫様がそう言うので、オレはしばらく町の様子を観察した。

 オレはあることに気付いたので言った。

「随分、ごみが散らかっているね」

 道端には、煙草の吸殻・空き缶・ペットボトル・レジ袋などが点々と散らばっていた。

 乙姫様は言った。「そうね、いいところに目を付けたわね。今こそあなたの人類愛の見せ所よ」

 乙姫様は、箒とちり取りそれにごみ取りばさみとごみ袋を取り出した。彼女は何でも瞬間的に取り出せるらしい。

「はい」と言ってそれらをオレに手渡した。「やることはひとつよ」

「えっ、掃除しろって言うの」

「それしかないわ。人類愛的には」

「それって人類愛なのかなあ。公共心とかそういうものじゃない?」

「細かいことはどうでもいいの。あなたの行動こそが問題なのよ」

 しょうがないから、オレはごみ取りばさみで空き缶やペットボトルを拾い始めた。一通りそこら中の空き缶やペットボトルを拾ってごみ袋に詰めたあとは、レジ袋だ。オレはやり始めるとなぜか夢中になっていた。レジ袋を拾ったあとは煙草の吸殻だ。オレは箒でそこら中を掃いては煙草の吸殻をちり取りに収めるという作業をひたすら繰り返した。

 小一時間も経つと、資源ごみ・プラスチック・燃えるごみの三つのごみ袋が一杯になって並んで置かれていた。

 乙姫様は言った。「やればできるじゃない。立派なもんだわ、あなた」

「ごみのポイ捨てをする人間って頭がイカれてるとしか思えないな」オレは手をはたきながら言った。

「これであなたの愛と善意は証明されたのよ、プラス3点あげるわ」乙姫様はメモをした。


        ***


 オレと乙姫様は、また部屋に戻っていた。

 オレは言った。「じゃあ、玉手箱くれるの?」

「まだよ」乙姫様は冷淡に言った。「ただ人が好いってだけじゃ駄目なのよ。まだ満足できないわ」

「えっ、しょうがないなあ。あと何が必要だって言うんだ?」

 乙姫様は斜め上を見つめながら「そうねえ、人類の発展に不可欠の創造性かしら」

「創造性?」

「そう、何か有意義なものを発明してほしいの。あっ、アイデアだけでもいいわ」

「そういうことなら、オレ、ひとつあたためているアイデアがあるんだ」オレは得意満面に言った。「海苔の佃煮をチューブ入りにするってこと」

「あら、それいいわね、便利かもしれない。って、そんなんじゃ駄目よ」乙姫様は思わずノリツッコミになったが、気を取り直して「もっと大きな問題なのよ。人類は今様々な危機に直面してるじゃない。地球温暖化とか核廃棄物の問題とか紛争が絶えないとか」

「うーん、そうだなあ、地球温暖化なら人工光合成をやるってことかな」

「それは、もうすでに誰かが言ってることじゃない。あなた独自のアイデアじゃなきゃ駄目よ」

「うーん、あっ、石灰水ってCO2を吸収するっていうじゃない。大量の石灰水を砂漠に撒けばいいのさ」

「砂漠が白い沈殿物だらけになるわね」

「いいじゃない、元々砂漠なんだから。その上にさらに撒いていけばいいのさ」

「本当にそんなのでCO2を減らせるのかしら」

「知らないよ。やってみなきゃ分かんないじゃない」

「まあ保留ってことにしとくわ。核廃棄物の問題はどうしますか?」

「そうだなあ。月の地下に埋めるしかないよ」

 乙姫様は目を丸くして言った。

「どうやって月に持っていくの?」

「ロケットで」

「どうやって地下に埋めるの?」

「ロボットとかあるじゃない」

「うーん、大変ね。莫大なコストが掛かるわ、きっと」

「でも、もう、そうするしかないんじゃね?」

「そうねえ、凄いSFみたいね。これも保留かしら」乙姫様は首をかしげた。そして、言った。

「紛争が絶えないってことはどうしますか?」

 オレは日頃考えていたことを言ってみた。

「軍隊も宗教も止めて無くしてしまえばいいのさ。なまじ宗教なんかを狂信するから、正義と称して戦争をやるんだよ。だからもう全ての宗教を無くするのさ」

 乙姫様は言った。「保守的な人達が絶対反対するわね」

「でも、オレはそう思ってる。エイジ・オブ・アクエリアスには、軍隊も宗教ももう要らない」

「あなたって人はとんでもない理想主義者ね。頭がお花畑なんじゃない?」

「どうとでも言ってくれ。でも、もう、そうするしかないんじゃね?」

 乙姫様は少しの間考えていたが言った。「これも、やっぱり、保留かしら」

 それから、乙姫様はまとめるように言い始めた。「一応、アイデアは出ることは出たわね。でも、あんまり荒唐無稽なのばっかりだからプラスマイナス0点ってとこね」

「でも、オレの創造性は証明されたろ」

「全然証明されてないわ」乙姫様は言った。「あなたの頭の中はおかしな空想だらけってことが証明されたのよ」

「でも、何もないよりはましだろ?」

「それは、そうなんですけどねぇ」乙姫様はまた首をかしげて考え込んでいた。そして、しばらくすると言った。

「何にせよ、いよいよ結果を発表する時がきたわ」

「何かドキドキするね」

 乙姫様はメモ帳を見ながら言った。

「あなたの愛と善意は、プラスが5点、マイナスが4点、創造性が0点ね。あら!」乙姫様はすっとんきょうな声を上げた。「合計プラス1点になっちゃったわ」

「それってどうなの、合格ですか?」

「大まけにまけて、合格にしとくわ」

 乙姫様はオレに玉手箱を手渡した。

「それじゃ、わたし、帰るわね」乙姫様は立ち上がった。

「もう少しゆっくりしていけば?」オレは言った。

「いいえ、わたしにはゆっくりしてる暇なんかないのよ。あなたと違って」

「一言多くね?」

「純一さん」乙姫様はさとすように言った。「しっかりしてよね、お願いだから。ちゃんと生きていくのよ。それじゃ、さようなら」

 乙姫様は来た時と同じように瞬く間に部屋の入口から出ていって、消えた。


        ***


 数日の間、オレは玉手箱を開けたものかどうか迷っていた。それは、もちろん、浦島太郎みたいな結末を恐れてのことだった。

 だが、次第にどうでもよくなってきて、中身を知りたい好奇心の方が強くなっていった。

 ある日、オレは玉手箱を開けた。

 玉手箱には「時間」が入っていた。

 玉手箱を開けている間は周囲の時間が止まり、オレの成長も止まり、腹も減らない。その上、自由に行動できるのだ。

 となると、オレは好きなことを好きな時間だけやりたい放題になってしまった。

 そういうわけで、オレは余計な時間をもらって暇を持て余しているところだ。



                  (了)


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乙姫様 稲荷田康史 @y-i-2018

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