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 ツァドという固有の名前を与えられたそれらは、しかし一つの「何か」として認識するには、あまりにも輪郭が頼りなく、不確かなものに感じられた。ただ、何らかの現象と呼ぶにしても動きがなさすぎた。そう、それはまさに空洞だった。俺たちのいる世界がそこだけ切り取られ、何もない隙間が生じ、それが蛇の形になっているような……。


 そして、それらの動きはとてもゆったりとしていた。少しずつ世界の裂け目が広がるように、五体の蛇の形をした影は俺のもとに這い寄ってきた。それをよけるのは簡単なように思えた。


 だが、やつらがうごめいた瞬間、重く冷たい空気の振動が伝わってきて、俺の手足を硬直させた。


 なんだ、これは……?


 それは今まで感じたことのない感覚だった。まるで体中の力が、あの影の蛇たちに吸い寄せられているような感じ。そして、得体の知れない冷たさ。周りの気温が下がったから寒いってわけじゃない。まるで体温を、俺の体の熱を一気に奪われていくような冷たさだ。


「……なんだよ、ありゃ。あの蛇は宇宙の真空空間にでもつながってんのかよ」


 やべえ、と強く思った。そう、よくわからんが、あの五体の影の蛇はやばい。とにかくやばい。俺の全五感どころかセブンセンシズまでフル動員しても満場一致でやばい。やばいとしか言いようがないぐらいやばい! あれに捕まったら絶対ダメだコレ!


 俺は即座に脳内コマンド「逃げる」を連打し、その蛇から全力で離れた。そう、やつらの動きは緩慢だ。倒す方法はまったく思いつかんが、こっちが素早く動いていれば、何も問題はない……と、思ったわけだったが、直後、俺は信じられない体験をした。


「な――」


 そう、俺は確かにあの蛇から超高速で逃げていたはずなのに、気が付いたらその蛇は俺のすぐ近くにいた。な、何を言ってるかわからねーと思うが……って、まさに例のポルナレフ状態? なんなのこれ!


 まさか、この蛇、時を自在に操ることができるのか? いや、そんな……。


 ただ、考えてもそれで何かできるわけではなかった。俺はやはり逃げるしかなかった。俺自身の「とにかく超やばい!」という野性の勘を信じて。


 しかし、その結果は何も変わらなかった。俺は直後、再び「いつのまにか蛇に追いつかれている」という、ポルナレフ体験をしただけだった。


 こいつ……やはり時を操る能力の使い手?


 俺は戦慄せずにはいられなかった。今まで、殴る斬る突く射るぶん投げるで全ての敵を倒してきた俺にとって、いくらなんでも対処しようがない相手だった。試しにやつらに石を投げてみたが、実体がないガスのようなものらしく、貫通したし。物理攻撃一切無効で、こっちの時間を吹っ飛ばす能力持ちとか、チート過ぎるし!


 だが、本当に相手が時を操っているのか、決めつけるのはまだ早い気がした。俺は必死に頭を働かせ、リュクサンドールの言葉を思い出した。そう、やつはこの術について、こう説明していた。「この蛇の息吹に触れたものは、すべて活動を停止します」、と。


 それはつまり……相手のその能力で、俺の意識が止まっているだけなのでは? 確か、人間の意識ってのは、微弱な電気信号のやり取りで成立しているらしいからな。それを止めたら、意識もぶっ飛んで、キングクリムゾン食らったみたいな状態にもなるんだろう。そう、ようするに、やつらは時を操っているわけではなく、俺をごくわずかの間、行動不能スタンさせているだけなわけだ。なーんだ、時を操るようなチート能力の持ち主じゃなかったんだね。よかったあ……。


「って、なるか!」


 と、思わずセルフツッコミしてしまった。


 そうだ、時を操る能力の持ち主でなかろうと、戦闘中に意識を吹っ飛ばされるのは相当まずい! ほんのわずかの間でも相当まずい! つか、俺的には時を操る能力だろうと行動不能スタンだろうと、結果は同じですやん!


 く……やはり逃げるのは無理ってことか……。


 俺はそこで覚悟を決め、やつらに向かって魔剣を振り、真空の刃を飛ばしてみた。だが、それらは石を投げた時と同様に、やつらの体を貫通するだけだった。


 ならば、と、今度は棒立ちのままでいる術者本体、すなわちリュクサンドールにその真空の刃を放ってみたが、それは真空の刃で両断されるもすぐに再生して元通りになった。何の意味もない攻撃のようだった。


 やっぱり俺の攻撃は一切通用しない――。


 絶望でめまいがした。逃げても追いつかれるうえに、何も対抗手段がないとか。どんだけ追い詰められてるの俺ぇ……。


 い、いや! 意外とあいつら攻撃能力しょぼいかもしれんし? なんか気配だけでびびってしまったけど、よく見たら、ただ黒っぽい影が蛇の形してふわふわしてるだけですやん? ほーら、よく見たら、全然たいしたことなさそうだよね? 大丈夫、ダイジョーブ、痛いのは最初だけだから……。


 と、俺は必死に自分を鼓舞し、今度は思い切って蛇たちのほうに踏み込み、魔剣で直接その体を斬りつけた。


 すかっ!


 予想通り、魔剣本体でも一切ダメージは与えられそうもないようだった。


 しかも、その直後――俺の右腕は蛇の一体と接触してしまった!


「うっひゃああああっ!」


 冷たい冷たい冷たい! 何この、めっちゃ「持っていかれる」感じ? 痛くはないけど、めっちゃ不快で気持ち悪い感じ? 自分の体に穴をあけられて、中身をチューチュー吸われてるような感じ? いやもう、やめてマジで! 温泉卵じゃねえから俺!


 俺は涙目になりながら、あわてて蛇から離れた。一瞬、触れられた右腕の感覚がなくなって、腕ごと持っていかれたような気になったが、よく見たらちゃんとまだ右腕はあった。しかし、蛇に触れられた時のおぞましい感覚は体の中に残ったままだった。冷や汗が滝のように流れた。


 こ、こいつは本当にマジでヤバイ……。


 瞬間、俺の中で、心がバキバキに折れる音が響いた。だって、いくらなんでも倒せないじゃん、あんなの! 触れられたらほぼアウトなやつじゃん! 何が最強勇者だよ、何が伝説の勇者様だよ。俺って、本当は一人では何もできない、ダメダメで弱っちいやつだったんじゃん……。もう負けだよ、こんなの。つか、もう泣いちゃうよ。俺ってば、どこにでもいるような普通の男の子だもん、うっぐ……。


 だが、そうやって涙目で膝を落としかけた瞬間、ユリィの顔がまぶたに浮かんだ。それも、俺を「勇者様」と頼りにしているときの顔だ。その黒い瞳は澄んだやさしい光をたたえ、俺をどこまでも信じ切っているように見えた――。


「……お、俺は何をやってるんだっ!」


 倒れこむ寸前、俺はとっさに床に手をつき踏ん張った。そして、すぐに体を起こした。


 そうだ、どんなに絶望的な状況でも、俺はあきらめちゃいけない! あいつは俺のことを、何度も勇者様って呼んで頼りにしていた! だから、どんなときも、俺はあいつが信じた「強い勇者様」でなくちゃいけないんだ!


「うおおおおっ!」


 泣くな、俺ッ! 折れるな、俺ッ! くじけるな、俺ッ! 俺は強い子できる子頑張れる子! あいつの信じた「最強の勇者様」は、こんなところで倒れたりしないんだ、絶対に!


 と、その直後、蛇が再び俺のほうに接近してきた。ただ、俺の中にはもうやつらへの恐怖はなかった。


 今まで、あいつらからは逃げても無駄だった。斬りつけても無駄だった。だったら、今度は――もっと強く斬りつけるだけだっ!


 体は自然に動いた。闇を払うように、俺は水平に一閃、鋭く剣を振った。ただそれだけだった。


 直後、俺の目の前の景色は一変した。


「……え」


 なんと、本当にその一閃で目の前の闇が払われてしまったのだ! 俺の光る魔剣によって――って、なんで急に光ってんだこれ?


 さらに、光っているだけではなく、ほんのりあったかくもなっているようだった。


「この感触は……」


 覚えがあった。そう、このぬくもりは、ユリィのものだ。

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