【5章】萩乃と正男に与えられる任務
36.竹輪が道端に落ちていたらどうするか
第四講義室を出た萩乃と正男は、なんら迷うことなく左方向に進む。大森先生から手渡された、お手製の雑な地図に描かれている矢印に従ったのだ。
ほんの少しばかりの距離ではあるが、他に誰の姿もない廊下を二人きり並んで歩いて行く。
最初は迷いもしたけれど、勇気を振り絞って手を挙げた。そうしようという意志決定は正解だった。萩乃の胸に、喜びの気持ちが満ちてくる。
「大森くん、同じ委員になったね」
「おう、文化な。めんどっちぃこった、まったく」
「そんなこと言わないで、一緒にがんばろ、ね?」
「あオレさ、もしサボったらスマン。先に謝っとくな。あはは」
「もうダメですよう、そんなの!」
ぷぅと頬を膨らます萩乃。
だがそんな表情とは裏腹に、心では現実を噛み締めている。夢ではない、夢に見た会話ができたのだから。
短い廊下はすぐ終わった。階段を降りると、工学部棟の西側出入り口がある。
外は風が少しだけ吹いている。今日の空はよく晴れ渡っていて、日差しもやや強め。そのため、閉めきった講義室内の窓側は暑いくらいだった。
しかし、やはり四月の風だ。若葉の香りを含んでいて、やわらかい肌触り。
「お、涼しいな。ちょうどいい感じだぜ」
「はい。大森くん」
桜並木の続く道を、太陽を追うようにして西へ進む。
購買部に向かうのだ。そこで文化委員の仕事に必要となる
しばらくして萩乃が気づいた。少し先の道端に、なにか落ちているのだ。
「あら?」
「猪野、どうした?」
「あちらです。落し物ですわ」
「ゴミじゃねえのか」
「わたくし、確かめてきますわ」
萩乃は目標物まで駆けて行く。
興味がなさそうな表情をしている正男も黙ってついてくる。
「これは竹輪さんですわ」
「チクワサン!?」
正男が頓狂な声を発しつつ、萩乃が指差している物体を覗き見る。
確かにそれは、透明なラップに包まれた一本の竹輪だ。しかも片一方の先に、ちぎられたような跡がある。一口だけ食べて不味いから捨てられた、という可能性も考えられなくはない。
そんな竹輪が道端に落ちていたらどうするか。
運命に支配される存在だったなら、そういう運命の竹輪なのだと思って、ただ見過ごすか、あるいはゴミ箱行きにするか、そのどちらかを選択することだろう。
一方、自由意志を持っている萩乃は違う。なんらためらうこともせず、拾って話しかけるのだ。
「竹輪さん、こんにちは。わたくしは猪野萩乃ですわ」
《こんにちは。わたしチクワちゃん》
「あらまあ、チクワちゃんですのね」
萩乃に拾われた竹輪が名乗ったのは、この世界の女の子たちの間で大人気のお人形さんの名前だった。
しかも、アニメーション作品『わたしチクワちゃん』に出てくるヒロイン名であり、それがそのまま竹輪の商品名にもなっている。食べるほうの「チクワちゃん」も子供たちはみんな大好きだ。DHA(ドコサヘキサエンサン)が豊富に含まれていて、親も喜んでそれを選んでいる。
「おい猪野、いったい誰としゃべってるんだ?」
「こちらのチクワちゃんとですわ。大森くん、ご存知なくて?」
「知らねえっての、そんなキャラ。というか、そいつと話せるのか?」
竹輪の少しキンキンした声は、正男には聞こえないようだ。
「はい。わたくしは三等級ですけれど、料理ライセンスを持っておりますわ。それを取得するときの実技試験には、食材や食品と会話する必要がありますのよ」
「なんだそれ、すげぇ技能だな」
萩乃が再び竹輪に話しかける。
「でもチクワちゃん。このような場所に独りきりで、どうされたのですか?」
《わたし、昨日麻布工場で生まれて店に送られ、今朝買ってもらったの》
「まあ、新鮮な竹輪さんですわ」
《ええ。でも一口齧られてラップに包まれ、少しして落とされちゃって》
「あらあら、それはお気の毒ですわ。落としたお方も、さぞかし困ってらっしゃることでしょう」
《どうかしら。わたし、お味を気に入ってもらえなかったのよ、きっと》
「お気をしっかりお持ちになって。あなたは世界一美味しい竹輪さんなのよ」
《ありがと、猪野萩乃さん。わたし、ちょっと元気が出てきたみたい》
「それはよかったですわ。あ、そうですわ、わたくしが落とし主さんを探して差しあげましょう。ね、チクワちゃん?」
《はい、よろしくお願いします、猪野萩乃さん》
静かに待っていた正男が口を挟んでくる。
「おい猪野、落とし主を探すとか言ってもなあ、この大学かなり広いぞ」
「確かに広いですわ。まるで独立した一つの町のよう」
「だろ。それにオレらは購買部で道具買って、それからすぐ文化委員会に顔出さなきゃなんねえんだからな」
「そうですわね。どうしましょう?」
「いやあ、オレに聞かれてもな。うーん、途中で事務局にでも寄って、落し物として届けたらいいんじゃね?」
「まあ、大森くん冴えていらっしゃるわ!」
「え、そうか。えへへ♪」
「でも事務局というのは、どこにありますのかしら?」
「オレは知らねえよ。けど、購買部で聞けばいいんじゃねえかなあ」
「そうですわね」
こうして二人は、予定通り最初の目的地に向けて足を急がせるのだった。
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