8.大森くんとの切ない出会い
生命体の成分は、大きく分けて二種類がある。
一つはボディつまり生命体球。もう一つはソウルつまり生命体魂。
ソウルトランスファーは、生命体魂を他者宇宙に存在している別の自分の生命体球に割り込ませることである。割り込まれる側は、たとえ強い霊感があると思っている人であっても、割り込まれたことに一切気づかない。
割り込む側、つまりゲームプレイヤーの猪野萩乃(十六歳)は、もう一人の猪野萩乃(十八歳)が持っている全記憶を得ることができる。
ゲーム内の現在は、第一帝国大学入学式から一週間後、四月十七日午後三時の少し前である。
萩乃は工学部の第四講義室にやってきた。一年生のうちは授業のほとんどが一般教養科目なのだが、専門科目も少し履修できる。選んだ一つが複素関数論。
迷うことなく最前列の三番目に座る。ここは萩乃専用席――日本の帝国大学では、例外なく全講義全席指定されているのだ。
左隣に大人っぽい女性が澄ました顔をして座っている。あまり積極的ではないので、萩乃からは話しかけられそうにない。
(お考えごとをされているなら、邪魔をしてしまっては悪いですわ)
他の席は、ポツポツと空席がある程度で大部分が埋まっている。周囲を見回してみると、一つだけ見知った顔があった。
二列目の廊下側端の席に、兄の後輩でゲームのサポート担当者でもある二十四歳の吉兆寺桜を、少し若くしたような人が座っているのだ。
(大学一年生の桜さんだわ。お可愛らしいこと。ふふふ)
その他は、男子学生も多いのだが知人は一人としていない。
(大森くんは、複素関数論を取っていないのかしら……)
さらに一人、大人っぽい女性が入ってきた。
その人は教壇に立った。きっと講義をしてくれる先生なのだろう。まだ若く、二十代後半といったところ。
「はあい、みなさんお待ちかねの複素関数論、第一回目講義始めるわよ~」
(まあ、フレンドリーな口調をなさいますこと)
このとき、講義室内に滑り込んでくる者がいた。
「やっべぇ、アウトですか?」
「ぎりぎりセーフよ。うふふ」
(あらあら、まあまあ、大森くんですわ!)
その学生は、紛れもなく萩乃が探していた男子だったのだ。
運命に支配される存在だったなら、このシチュエーション、「ああ、神様が複素関数論の講義室に、彼を呼んでくださったのだわ。運がよければ、わたしに告白してくれるかもしれない」と思うことだろう。そう考えること自体、運命に支配された結果だ。
一方、自由意志を持っている萩乃は違う。
(複素関数論を履修しようという意志決定は正解でしたわ)
ただし、自由意志は「全能」を意味するものではない。あくまで、100%自分で意志決定をして行動できる能力にすぎない。
だから、たとえ「わたしだけの大森正男くんを攻略しちゃうよ!」という意志を持って行動しても、それが実現しない確率を0にできるとは限らない。
正男は萩乃の左(着席)の左(通路)の左(空席)に着席した。比較的近い位置だ。これは運命ではない。氏名の「あいうえお順」で全席指定されているという事実の必然的結果にすぎない。
出欠確認を兼ねて、自己紹介が始まった。
萩乃は近くに大森くんがいるのだと思うと余計に緊張してしまい、なにを話したかも忘れてしまうような、情けない状況になってしまった。
正男は出身高校と将来の夢を話した。その男子工業高校名は、萩乃がゲーム内で得た記憶の出身女子高校名とは当然違っている。この世界では、お互いに面識のない二人だった。
複素関数論の第一回目講義は講義がなく、学生の自己紹介と先生の自己紹介だけで終わる。先生も「大森」という苗字だった。
萩乃は正男に話しかけようと思ったが、夢で会う大森くんとの会話のようにはいかなかった。一言も話せないまま、あろうことか正男は、この世界の桜と肩を並べて講義室から出て行く。
(まあ、おつき合い、なさっているのかしら……)
ただ呆然と、正男の背中を眺める萩乃だった。
【~課題クリア~第0話.大森くんとの切ない出会い】
一週間後の午後三時。今日は、もう夏が近いと感じられる陽気だ。
なぜか正男が指定されている席の左隣に座っている。彼の席であるはずの場所は空席になっている。
(どうして? わたくしから少しでも、離れたいの……)
萩乃は、正男とまだ一度も言葉を交わせていない。
ここへ大森先生が入ってきて、ややあって突然の事件が起こる。
「違うって!! もう怒ったわ、歯を食い縛りなさい!」
大森先生の右手が高く振り上げられた。それが、すごい速さで孤を描き、正男の左頬を張った。正男の身体が勢いよく隣の空席に倒れ込む。
(きゃあーっ、大森くーん!)
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