2.まずはお兄様を攻略しなければ
自由意志を持つ人間でも迷うことは当然ある。
むしろ自由意志があるが故に迷うものだ。意志決定XとYの二つのうち、どちらがベターか。朝のパンに塗るのはジャムかバターか。ランチAとBのどちらを食べるか。
萩乃は、兄にゲームを買って欲しいと頼むか、話さないまま諦めるか、選択に悩んでいる。諦めることもまた立派な意志決定だ。
運命に支配される存在だったなら、サイコロを握って「1の目が出たら買ってくれと頼もう、それ以外なら諦めよう」と言って、1の目が出るまで投げ続けるかもしれない。
(お兄様、ご機嫌を損ねてしまいますかしら?)
兄は一年前、アステロイドゲームスの方針について意見が対立したため、自主退社した。その意見対立は、ゲームの倫理についてだ。
どのようなゲームを作るかは、消費者のニーズに応じて企業が利益を考慮しながら自由に決定してよいという会社側の考え方に、兄は異を唱えた。フィクションでなら構わないが、実在する世界の人間を大量殺戮しようという目的のゲームは、倫理的に大きな問題があると主張したのだ。
しかし、アステロイドゲームスは方針を変えなかった。独裁者や魔王になって、世界を支配したいと思っている消費者は多いからだ。兄は迷わず会社を去った。
人間の存在は、大きく分けて二種類がある。
一つは自由意志を持つ存在。もう一つは運命に支配される存在。
可算無限世界帯域利用型ゲームの舞台になる世界には、後者しかいない。
そういう世界帯域の一部分を、アステロイドゲームスが独占的に購入している。いわゆる買い占めだ。その無限にある世界を束にして、ライセンス料を払う消費者に与えているのだ。ほうれん草の束売りと同じように。
もちろん、その代金にはゲームシステムの使用許諾とサポートを受ける権利の分も含まれている。
兄は、たとえ運命に支配される存在でも、命は尊厳すべきだという考え方を持っている。萩乃もそれに賛成する立場だ。
兄も萩乃も、人間に危害を加えることを主目的にしないなら反対はしない。自由意志を持つ存在者の娯楽として、ゲーム世界にいる自由意志を持たない者たちの記憶を変える程度は、まあ許してよいと思っている。でも殺人は許したくない。無差別大量殺戮は断固許せない。鬼退治なら許す。
一方、自分の所有する無生物を壊す行為は、その虚しさに気づけるならいいかな、くらいの考え。
要は、どこで線引きをするかの違いだ。兄の線と会社の線の間に大きな距離があっただけの話。
今の萩乃にとって重要なのは、現在の兄がどういう線の引き方をしているか、という一点である。
(決めましたわ。お兄様におねだりしちゃいます。大森くんより、まずはお兄様を攻略しなければ)
舌をペロリと出す萩乃。滅多に見せない仕種だ。
そして待ち侘び、いよいよ兄が帰宅してくる時刻を迎えた。
萩乃は、わずかに緊張しながらリビングへ向かう。
「お帰りなさいませ。お兄様」
「おう萩乃、ただいま。今日もお利口でいたか?」
「はい。お兄様」
「いい子だな、よしよし」
兄がいつものように頭を撫でてくれる。
(あはぁ、いい気持ち)
しばらく堪能してから、ゆっくり目を開く。
兄の顔がやけにツヤツヤしている。
「あら、お兄様。今日はいいこと、ありましたかしら?」
「お萩乃、わかるのかい?」
「はい。だって、わたくしの大好きな、お兄様のことですもの」
「ははは、そうかそうか。それなら、当ててごらん?」
「きっと、美味しいものをお食べになったのですわ」
「その通りだよ。あははは」
兄が嬉しそうに笑う。もちろん萩乃も嬉しい。
当てたことよりも、兄がとても嬉しそうだから嬉しいのだ。
「今日は仕事の打ち合わせで喫茶店へ行ったのだ。着くのが早くなったから、ババロアを頼んで食べたよ。それが、頬が落ちるくらいに美味しかった。あははは」
「あらまあ、そのようなことがおありでしたのね。お兄様のババロアは、わたくしがお作りして差しあげますのに」
ぷぅと頬を膨らます萩乃。
どこぞの喫茶店に、兄の心が奪われてしまったと知ったからには、決して黙ってはいられない。
萩乃はスイーツにもちょっとした自信がある。たまにプリン・ケーキ・ミルフィーユなどを作るのだが、必ず兄が食べてくれる。
「わたくし、今夜お作りしますわ!」
「お、ババロアを作ったことがあるのか?」
「初めてですわ」
「そうか、プリンとは違うのだよ? 知っているかい?」
「知っていますわ。もう、お兄様の意地悪」
また頬を膨らます萩乃。
「ははは、悪かった萩乃。許しておくれ」
「はい。お兄様」
「そうかそうか。それなら、失敗したババロアが出てきても、兄さんが全部食べてあげるからな」
「もう、ダメですよう、失敗したとか言っちゃ!」
「あははは、ごめんごめん。許しておくれ」
「許しませんわ! お覚悟なさっていてよ」
萩乃は兄に背を向け自室へ戻る。ババロアのレシピを調べるために。
「あと何回、食べさせてくれるのだろうか……」
妹の後ろ姿を見送る兄。
萩乃の余命二年を知り、世界で最も涙を流したのは、この人だった。
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