十年目、帰還を諦めた転移者はいまさら主人公になる

氷純

プロローグ


「お客さん、金は足りてるんだろうね?」


 バーのマスターが洒落たグラスを下げながら、どこか心配そうに問いかける。

 マスターの視線の先には二十代半ばの黒髪の青年がいた。カウンター席に座り、店のメニューを高い物から順番に頼んですでに四皿を平らげ、まだメニューを眺めている。

 黒髪の青年、くさりとおるはすっかり慣れ親しんだこの世界の言葉で返した。


「先払い? 計算面倒になりそうだからまとめて支払いの方が楽なんだけど。あと、さっきのワインってどこのやつ? 結構おいしかった」


 マスターの言葉に返しながら、財布に無造作に手を突っ込み、金貨を一枚カウンターに置く。

 マスターがぎょっとした目を透に向けた。


「若いのに金を持ってるね」

「そうでもないよ。でも、今日くらいはパーっと使おうと思ってね。ワインは?」

「フラーレタリア産のだよ。そう珍しいものではないが、良い香りだったろ?」

「あんまり詳しくないけど、すっと消えるのがいいね」

「ふむ。金があるならもっといいのを出そうか。『ブラッディ・アーケヴィット』って珍しいリキュールが入ってるよ。お客さん、ワイン四杯目だったろう。そろそろ趣向を変えたらどうかね?」

「じゃあ、それで」


 悩む様子もなく、金額すら聞かずに注文を通した透はキノコと野菜の炒め物をつまみ始める。

 棚から赤いガラスの瓶を取り出しながら、マスターが透に声をかける。


「今日くらいはパーっと使おうって言っていたが、何かの記念日かね?」

「ははっ、記念日か、そいつはいいな。記念日ってことにしよう」

「顔に出てないだけで酔ってるかい?」

「酒を飲んでるんだから酔うだろう。実際、記念日っていうのも的外れじゃない」


 透は皮肉るようにくっくっと喉を鳴らす。

 九年前、十五歳だった透は突然この世界にやってきた。

 何の前触れもなく、唐突な異世界転移。

 しかし、選ばれた勇者というわけでも、特別な力があるわけでもなく、透は何の役割も持たない異邦人でしかなかった。

 透からトールとこの世界風に名を改めて、地球に帰る方法を探し回った。

 以来、九年の月日が経つ。


「ちょっとさ、疲れちゃったんだ。だからもう、あきらめてしまおうと思ったんだけど、寝られなくてさ」


 歳に似合わない疲れた顔で笑うトールに、マスターは気まずそうな顔をして、グラスに赤い色の酒を注いだ。

 マスターはトールの他に客がいないのを確認して、『本日店じまい』と書かれた看板を手に取る。

 店の入り口に看板を掛けたマスターはカウンターに戻ってくると、新しいグラスを出して酒を注ぎ、トールのグラスに軽く当てた。


「記念日なんだろ。祝うやつがいないのは可哀そうだから、付き合ってやるよ」

「それはありがたいね。……この酒、結構きついな」

「だが、美味いだろ」

「あぁ、華やかないい香りだ。ハーブだよな、この香り」

「そう、上品で華やかないい香りなんだ。菓子を作るのにも使えるんだが、流通量が少なくてね」

「どこで作ってんの? 近くに寄ったら買っておきたいんだけど」

「それが、まったくわからねぇんだよ。いきなり市場に出回ったかと思えば、ぱたりと消える。しかも、何らかの取り決めでもあるのか、転売でもない限り値段は変わらないんだ」

「不思議な酒だな」


 ちょっと親近感がわく、と笑みを浮かべながら、トールは『ブラッディ・アーケヴィット』と言うらしいその酒を呷る。

 あるいは、自分も次の瞬間にはこの世界から消えて地球に戻るかもしれない。そんな可能性も九年間で何度頭をよぎったか。

 だが、グラスが空になってもトールは変わらずカウンターに向き合っていた。

 マスターがトールのグラスに『ブラッディ・アーケヴィット』を注ぐ。透き通った赤い液体はろうそくの明かりに照らされるとまるで鮮血のように見えた。


「この街、ダランディの娼館はいろいろ遊べるぞ。どうする? おすすめの店を紹介してやろうか?」

「やめとくよ。どうにも割り切れない性分でね」

「ははっ、商売女に入れ込むのはまずいよな。若い奴にはよくあることだが、自分を知っているのはいいことだ」


 そうじゃないんだよなぁ、とトールは内心でマスターの言葉を否定する。

 この異世界、避妊はあてにならない。

 商売女はそのリスクを承知の上とはいえ、トールは異世界に突然転移したように、いつ地球に戻るかわからない。

 責任を取れないことはしたくない。ただそれだけの保身に似た感情だ。

 しかし、とも思う。

 九年が経ち、もう地球への帰還を諦めてこの世界に骨をうずめる覚悟をする。そのためにこの店に立ち寄ったのだ。

 今までの自分と決別するのもありかもしれない。


「……やっぱりないな」


 トールはすぐに自分の考えを否定して、ナッツを頬張った。

 マスターが席を立ち、カウンターでパンを切るとレバーペーストと一緒に出してきた。


「朝まで付き合ってもいいぜ?」

「マスター、なんでその人柄でこの店は人気がないんだ?」

「やかましいわ」


 初対面とは思えない気安さで笑いあい、酒を酌み交わす。

 しばらく、こんな時間を過ごしていなかったな、とトールは素直にマスターに感謝した。



 バーを出る頃にはすでに空が白み始めていた。

 魔石を動力源とした機械、魔機の街灯も消えている。

 パン屋はこの世界でも早起きで、通りの空気が香ばしい。

 石造りの建物が並ぶ小通りを歩きながらトールはすっかり酔った足取りで、時折壁に手をついて体勢を立て直しながら歩いていた。


「くっ、情けなさ過ぎて笑えるんだけど」


 半笑いで宿への近道になるだろう脇道に逸れる。

 数歩歩いて、何か硬いものを踏みつけた。

 トールは足元を見て目を疑う。

 路地裏に落ちていたのは一本の腕だった。


「ちょっ、猟奇的な落とし物ですね! 手袋じゃねぇんだぞ」


 ふと思いついて、トールは腕を拾った。

 おもむろにその腕を左手で支え、右手で握手する。


「路地裏で僕と握手! 誰やねん、お前! クッソウケる」


 腹を抱えて不謹慎極まりないジョークを一人で披露する酔っぱらい、トールの目は抜け目なくその腕のを見ていた。

 金属製の義手だ。

 握手の時に気付いたが、ある程度は関節の自由も効くらしい。だが動きはぎちぎちと何かに引っかかるようでぎこちない。歯車のかみ合わせが悪いようだ。

 魔機手、装着者からの魔力供給で稼働させる義手の一種だ。

 しかし、何か違和感があった。


「――おい、そこの奴、その腕を返せ」


 違和感の正体は何だろうと酔って散漫な頭で考えていると、路地の奥から声をかけられた。

 ローブを羽織り、フードを目深にかぶって顔を隠した小柄な男が立っていた。


「その腕、オレのなんだよ。返せ」

「あぁ、すまない。ちょっと握手してたんだ」

「は、握手? ちっ、酔っぱらいかよ」


 小柄な男は面倒くさそうに左手で首の裏をかく。男の右腕は袖のたれ具合から見るに存在していないようだ。


「酔っぱらいだからって見下すのはよくないぜ。こうして落とし物を拾うくらいの常識があるんだからな。ほら、返すよ」


 トールは魔機手を男に差し出す。

 男はふんだくるようにトールから腕を取り上げると、細工がされていないかを確かめるように見分し始める。

 トールは肩をすくめた。


「言っておくが、その魔機手の造りが雑なのは元からだろ。因縁はつけないでくれよ?」


 まるで素人がパーツを作ったように、各部関節の動きが悪い魔機手を男は当然あるべき位置だと右腕に装着した。

 トールはあくびしながら男の動作確認作業を眺める。

 一通りの動作確認が終わったのか、男はめくっていた右袖を直した。

 これでもう用はないだろうと、トールは男の横を通って宿へ歩き出す。


「じゃあな。それと、冒険者ならもうちょっといいものを使った方がいいと思うぜ」


 余計なお世話かもしれないが、それでもトールは心から忠告した。

 ファンタジーにおなじみの魔物に加え、この世界には体が半分機械化された魔機獣という脅威も存在している。これらの討伐を生業にする冒険者なら、質の悪い義手など寿命を縮めるだけだ。


「……必要ないさ」


 男がぼそりとつぶやく声が聞こえた。

 直後、トールはその場で素早くかがむ。

 トールの頭上を金属の塊が通り過ぎた。ブンッと風を唸らせるそれは男が装着したばかりの魔機手だ。

 死角から後頭部を狙う不意打ちを避けられるのは想定外だったのか、男は驚いたような顔をする。

 トールは身を起こす勢いを乗せて裏拳を放つ。

 男は後ろへ倒れこむようにして、トールの裏拳を辛うじて避けた。


「くそっ、酔っぱらいのくせしていい動きしやがって」

「やっべ、吐きそう」


 急な動きで腹の調子がおかしくなったのか、トールは少しばかり上を見て吐き気をこらえながら男に声をかける。


「なんだ、魔機手を雑な作りって言ったのが気に障ったか? 確かに無神経だなとは思ったけどさ。命がかかってるなら言うだろ。それが優しさってもんじゃね?」

「んなことはどうでもいいんだよ!」

「どうでもいいなら殴り掛かってくるなよ。なに、思い出の品だった? 彼女から贈られたの? これで私のことを抱きしめられるね、的なロマンチックときめいちゃう品だった? なら、その、マジごめん」

「本気で謝ってんじゃねえよ!」

「えぇ、じゃあどうしろと?」

「死ね」


 端的に告げられた要求に、トールは眉を顰める。


「もしかして、おたくも酔ってる?」

「一緒にすんじゃねえ」


 さっと左手で短剣を引き抜いた男が右手の魔機手で短剣の刃を隠しながらじりじりとトールとの距離を詰め始める。

 間合いを測らせない構え方から、対人戦に慣れている様子がうかがえた。

 だが、トールは武器を構えることもなく男の間合いを正確に測ってぎりぎり外に出られるように後退する。

 男の顔が怪訝なものに変わっていった。刃を隠しているにもかかわらず、トールが完璧に間合いを把握しているからだ。


「てめえ、何者だ?」


 トールは男の問いには答えず、青くなり始めた空を見上げる。


「うーん。今日は記念日だからのんびりしようかと思ったんだけど、よく考えたら日付変わってるんだよな。捕まえて衛兵かギルドに突き出すのもアリな気がしてきた」

「――そこ、何をしている!?」


 男の間合いから外れるべく後退しているうちに、いつの間にか路地裏から出ていたらしい。

 町の治安維持をつかさどる衛兵の制服を着た二人組の男が、トールたち目掛けて走ってくるのが見えた。

 それを見た魔機手の男の反応は早かった。


「今日のことは忘れろ」


 吐き捨てるようにそう言って、その場でくるりと反転すると路地を駆けていく。

 身体強化をしているのか、なかなかに速い脚だ。


「忘れろって、今日はまだ始まったばかりだろ」


 追いかけようかとも思ったが、吐き気がぶり返しそうだ。トールは衛兵に後を任せることにして、道を譲った。


「朝からお疲れ様です」


 自分は被害者ですよ、とアピールするため衛兵に労いの言葉をかけて見送った。


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