おじいちゃん

文月瑞姫

 おじいちゃんが死んだ。80は超えていただろうか、終に知らない。


 おじいちゃんのことを思うとき、幼少期のぼんやりとした記憶が頭を離れないのは、あるいはこれが夢の記憶に過ぎないのではないかという疑念を長らく抱えているからだ。

 五歳に満たなかっただろう私は、ゴルフ場の隣の坂を登った先の、五階建ての邸宅をおじいちゃんの家と呼んでいたはずだ。教室よりも広いフローリングの部屋、壁沿いに低い本棚、そこで私は児童向けのキャラクター本を読んでいたはずだ。お風呂は5m四方の大きすぎるものがあったはずだし、そこを泳ごうとして怒られたはずだ。


 その記憶が不思議になったのは、私が高校生になってから、不意にそれを思い出したからだ。私の家は、貧乏とは言わないまでも決して裕福な生活は送っていない。これが豪邸住まいであれば、何も思うことはなかっただろう。記憶にあるおじいちゃんの家は、あまりに裕福だ。戦後を生きたおじいちゃんだから、何か一山当てたのかもしれないが、何も分からない。今さら知ることもできない。きっと、ただ子供の頃に見た夢を現実だと思い込んでるという可能性の方が十分に高いだろう。


 おじいちゃんとの記憶は、お盆に火を焚いたり、お正月にお寿司を食べたり、そんなものばかりだ。甲子園の中継を眺めたり、戦争映画を見たり、基本的にテレビ前のソファにいる人だった。

 こう考えると、私はおじいちゃんのことを何も知らないのだな、と思う。何せ、名前すら知らない。父に名前がある(パパではない本当の呼び名がある)と知ったときの驚きも大概だったが、それをおじいちゃんに宛がう機会は終になかった。きっと壮健な名前だったのだろう。


 そして、私が18にもなった頃には脳梗塞で倒れた。一年間、目を覚まさなかった。目を覚ました頃には、もう一人で歩くことも、上手に喋ることもできなくなっていた。

 あれもお正月だった。挨拶回りの中で、おじいちゃんに会いに行くと言われた。てっきり、また眠ったままのおじいちゃんに声を掛けるのだと思っていた私は、いつ目覚めたのかと驚いたものだ。箱根駅伝の中継を眺める中で、造船の話をまじまじと見ていた。あるいは、そういう仕事をしていたことがあるのかもしれないな、とは思った。

 この日一番の苦痛は、その面会後に両親から、手を洗うように言われたことだった。施設で暮らしてるとはいえ、自分でよだれを耐えることすらできないおじいちゃんと、握手をしたから。


 次に会ったのは、四年後になる今年のお正月だった。ベッドの上で、自己意識さえ明確ではなく、手を動かすこともできず、目だけがかろうじて動いていた。痛々しかった。死に近しいものを可愛い呼ぶのが人間だが、あれを可愛いとは呼べなかった。壁には人工的な寝返りの計画が、二時間置きに組まれていた。自分で体を動かすことは、もうできないのだろう。


 そして五月の終わり、おじいちゃんは息を引き取った。何歳かも知らない。どんな顔で葬儀に出れば良いのかも分からない。ほんの半日前には自殺を企てていた私が、何故他人の命を尊ぶ権利があるのだろうか。終に分からない。

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おじいちゃん 文月瑞姫 @HumidukiMiduki

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