惜しみなく、どうか。

遊月奈喩多

第1話 雨宿り









 雨が、降っていた。


沙耶さや、いい?」

「う、うん……っ、」


 キスをして、お互いにいっぱい触れて。

 わたしは、同級生の卯月うづき義則よしのりくんと、先の関係に進もうとしていた。近付く梅雨を先取りするように降り続ける雨の音がちょっとずつ薄れていって、お互いの鼓動と息ばかりが耳に焼き付いて。

 けど、いざその感触が進んできたとき、ふと怖くなってしまった。


「――ま、まって、」

「もう、」

「待ってってば!」


 思わず、義則くんの胸を強く叩いてしまう。軽く咳き込みながら、「悪い……」と謝ってきたけど、その様子はどこかふて腐れたようにも見えて。

「ごめんね……」

 呟くように発した言葉が彼の耳に届いたのかすら、よくわからなかった。


  * * * * * * *


 雨はずっと降り続いて、止む気配なんて全然ない。図書館で借りていた本の返却日が今日じゃなければ、外になんて出なかったのにな。わたしの溜息は、天気なんて関係なく出て止まりそうになかった。

 あれから数日、なんとなく義則くんとの距離感がわからなくなっていた。どうやら彼もそうみたいで、あの日より前はわりと気軽にお互いを部屋に呼んだりできていたのがもうできなくなってしまったし、放課後に会うことすら減ってしまった。

 わたしは、ただああいうこと、、、、、、をするのが怖かっただけなのに。

「はぁ……」

 我慢して受け入れたらよかったのかな。そこまでして、した方がよかったことなのかな……


「どうかしたの、文月ふみつきさん?」

「え、あっ、霜月しもつき先輩?」


 後ろから呼び掛けてきたのは、高校の演劇部の先輩、霜月留衣るいさんだった。もっとも、霜月先輩はもう高校を卒業して、今は喫茶店でアルバイトしながら大学に通ってるって言ってたっけ……。

 綺麗で、優しくて、それでいてどことなく子どもっぽい笑顔が素敵で……たぶんわたしだけじゃなくて、彼女と関わった下級生みんな、1度は霜月先輩に憧れてたんじゃないかな?


「――――――、」

 宇宙のように深く暗い色の瞳に見つめられているだけで、なんとなく見とれてしまう。本当に、綺麗な人だなぁ……。見つめていると、ふとその顔が不安そうに崩れた。

「ねぇ、文月さん。本当に、何かあった?」

「え、何かって別に、何もないですよ」

「なんか、泣きそうな顔してる」

 その言葉は、絶対に聞きたくなかった。友達も、義則くんも、誰も気付いてくれなくて。だから、そんなことないんだって、思おうとしていたのに。

 苦しいなら、ない方がよかったから。


 なのに。


 一滴、零れてしまったらもう手遅れだった。

 信頼できる人だから、その優しさを知っている人だから、というのもきっとあった。けど、わたし自身が否定しようとしていた気持ちにさえも気付いてくれる霜月先輩が『おいで』というように開いてくれた手を、拒むことなんてできなかった。

 子どもみたいに泣いているわたしを隠すように、先輩は傘のなかで抱き締めてくれていた。傘に当たる雨の音も、先輩の「つらかったね」という声も、その全部がわたしの心を掴んで離さなくて。

 霜月先輩は、わたしが義則くんのことを吐き出して、泣き止むのを待ってから、優しく髪を撫でる指先に乗せて、尋ねてきた。


「その彼氏くんも、もうちょっと文月さんの気持ちに気付いてくれたらよかったのにね……。よかったら、私の部屋来ない? この近くなの」

「え、そんな、」


 悪いですよ――そう断ろうとしたのに。

 先輩を見上げるように上げた唇を、甘い香りのする唇に塞がれてしまった。そのまま舌まで入って、押し戻そうと押し付けた舌はあっさり絡め取られて。

「んっ、ひゃ、や……っ、」

 怖い、怖い、怖い……っ!!!!

 そう思うのに、どうしてか義則くんのときのように強く拒めない。舌先から身体中が痺れるようで、溶けてしまいそうな……


「こんなキスをしてあげたら、きっと義則くんもあなたに夢中になってくれるんじゃない?」

 口の間を伝うわたしと先輩の唾液が、艶やかに光っていて。速まる鼓動に、限界なんてないみたいに思えて。

「ちょっと練習してみない、沙耶、、?」


 声色を使ったのか、どこか義則くんのそれに似せて出された声が、そっと背中を押した。

 ゆっくりと行き先を変えたわたしの躊躇を煽るように、雨が降っていた。

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