第110話

 そのつもりが、美玖に突っ込まれてしまった。

「だったら……今と同じこと、男子校でもできるんでしょうね? 兄さん」

「青い空ってさ、なんだかウキウキするよね」

「こっち向きなさいよ」

 清々しい気持ちで練習を再開する。

 その後もクロールにバタフライと、『僕』の指導に熱が入った。

 遅くならないうちに切りあげ、解散する。水泳は全身を駆使する分、負担も大きいため、長々と続けるものではないからだ。

「P先生は明日もプロデュースのお仕事? みんなでお茶会するんだけどー」

「うん。誘ってくれてるのに、ごめんね? 忙しくってさ」

 水泳部の面々は談笑を交えながら、更衣室へ引きあげていった。『僕』も私物のバスタオルやらを抱え、すぐ隣の第二更衣室へ。

 壁一枚を挟んで、女の子たちの健全なキャッキャウフフが聞こえてくる。

「ミキ、そのブラ可愛い~! どこで買ったの?」

「P先生に教えてもらったお店でぇ」

 人間の姿なら今頃、ドキがムネムネして大変だったに違いない。『僕』は50センチ大の身体をバスタオルで満遍なく拭き、一息つく。

「ふう……。SHINYの学校生活を犠牲にはできないもんな」

 『僕』がS女子高等学校で体育を教え、また水泳部で顧問を務めているのも、すべてSHINYのためだった。

 現役の女子高生がアイドル活動するには、学校の同意ひいては理解が要る。

 そこで『僕』はプロデュースの傍ら、S女子に教師として赴任。SHINYがアイドル活動と学業を両立できるように陰ながらサポートしている。

 認識阻害の影響で、S女子の皆は『僕』のことを『喋るぬいぐるみ』と認識しつつも、疑問は抱かなかった。その認識がもっとも自然で、負担も少ない。

(男子が前提だと、どうやっても認識阻害が成立しなかったんだよなあ……)

 里緒奈や恋姫の声も壁越しに響いてきた。

「みんな、Pクンに油断しすぎっ。あんなのでも一応、男の子なんだから」

「そうよ! 泳がない日もスクール水着、着せたりするし……」

 その発言ごとにバレはしないかと、『僕』は肝を冷やす。

 しかし部員たちは当然のように言ってのけた。

「え? 水泳部だから、スクール水着を練習着にするんでしょ?」

「P先生のことになると必死なんだから~。大丈夫、誰も取ったりしないってば」

 どうやら認識阻害の魔法は百パーセントの効果を発揮している。

(これなら強化する必要もないか)

 ところが、ほっとしたのも束の間のこと。

 こちらの更衣室の扉を開け、ひとりの部員が入ってくる。

「エヘヘッ。お、に、い、ちゃ、ん!」

 妹の美玖――その素性をアイマスクで隠した、キュートだった。さっきまでの妹と同じスクール水着の恰好で、音を立てずにドアを閉める。

「ええと、み……キュート?」

 つい『美玖』と呼びかけそうになったのを、『僕』はかろうじて堪えた。

「S女子に来てたの? その、連絡してくれてもよかったのに」

「ビックリさせたかったんだもん。あ、ちゃんと手品を使って入ってきたから、お兄ちゃんは心配しないでね」

 あくまで別人のふりに徹し、とぼけるキュート(美玖)。

 たとえ正体に勘付いても、あの仮面がある限りは絶対に指摘してはならない。それこそが仮面のキャラクターに対する礼儀なのだとか。

(いや、どう見たって……美玖だよなあ)

 それでも『僕』は目の前の美少女を、妹と結びつけて考えずにいられなかった。

「お兄ちゃんっ。きゅーと、お願いがあるんだけどぉ……」

 普段の美玖が気位の高い女子に見えるのは、性格によるものらしい。キュートならではの舌足らずな言葉遣いが、持ち前のやや幼い顔立ちを際立たせる。

「お、お願いって?」

 ぬいぐるみの『僕』は動揺しつつ、宙であとずさった。

 妹の美玖におねだりされ、戸惑ったのが理由の半分。もう半分は艶めかしい水着姿に目を奪われてしまったせいで、生唾を飲み込む。

(不可抗力! 不可抗力!)

 頭の中で言い訳を連発するも、キュートの巨乳を前にしては成す術がなかった。スクール水着も身体もしっとりと濡れているせいか、甘い芳香を漂わせる。

 足元に水滴を滴らせながら、キュートは『僕』に迫ってきた。

「もうちょっとだけ、きゅーとと練習しよ? きゅーとにも平泳ぎ、教えて?」

 つぶらな瞳がアイマスク越しに『僕』を見詰める。

「平泳ぎって……え? 僕と?」

「うん。きゅーと、知ってるんだから。里緒奈ちゃんにも、菜々留ちゃんにも、恋姫ちゃんにも、お兄ちゃんが『ああやって』平泳ぎ教えたってこと」

 美玖の言葉とは思えなかった。

 今の今まで美玖は水泳部に所属しながらも、一度たりとも『僕』の指導を受けたことはない。さすがに兄に股座をスーハーされるような体勢にはなれないからだ。

 なのに今、キュートは『僕』にその指導を求めている。

(ここで断るのもなあ……)

 ぬいぐるみの『僕』は短い腕を組んで、逡巡した。

 妹の美玖はそれなりに水泳部の活動に打ち込んでいる。『僕』に教わればタイムは確実に縮む、だから教えて欲しい――動機そのものはわからなくもなかった。

 わざわざキュートに変装して来たのも、今さら兄に『教えて』と要求するのが恥ずかしいからかもしれない。そこは気付かないふりをしておく。

「まあ少しくらいなら、いいよ。今夜の仕事も急ぎってわけじゃないしさ」

「ほんとっ? じゃあ今から、ね!」

 『僕』が快諾すると、キュートは満面の笑みを弾ませた。

 ふたりでプールへ引き返し、練習を再開することに。

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