失われた世界

芝田 弦也

無音

寝息をたてる事すら躊躇う、無音が支配する心許ない夜。

ちらちらと今にもかき消えてしまいそうな蝋燭が、

陰鬱な室内を少しでも明るく灯らせようと揺らめている。

火の光を浴びて淡く輝く、

右手で大事に握りしめている殺傷を目的とした刃渡り10cm程のナイフ。

暇さえあれば、何度も何度も磨き上げては切れ味を鋭くしていた。


少しでも油断してしまうと、

弱気になりがちな心の隙間に入り込んでくる負の感情が押し寄せてくる。

でも、このナイフを眺めている間は、

これを磨き上げている間は幾分か平穏でいられる。


光を放つナイフを持つ少年を正面から照らす蝋燭の火は、

少年の後方に黒々とした不穏な影を生み出している。

これから暗澹な未来が差し迫っている事を暗示するかのように、

火の力は少しずつ弱まり色濃く染まっていく。



光が失われた世界で、遠目からでも視認できる揺らめく仄かな光。

それを目敏く見付け、駆け寄っていく一つの個体。

その先に居るであろう、命の灯火。



闇が光りを。静穏を怒号が。

好機を瞬間を狙いすまして息を潜めていた。



突如、甲高く響き渡る窓ガラスの割れる音。

碎け散る破片と共に飛び現れてきた一つの存在。

禍々しい凶器を片手で握りしめ、狂気に満ちた仮面を被り、

赤黒い液体が染み込んだ服を着た輩。


その虚ろな瞳が映し込むモノは、それと対峙している少年の姿だった。


今まで想像してきたのに、いざとなると手も足も動かない。

激しく脈打つ鼓動。粘り気を帯た汗が全身に吹き出てくる。

緊張と汗で、掌で握りしめていた物が滑り落ちた。

道具が転げ落ちたのに、その異端な存在に視線を奪われ身動きが取れない。

そして、荒い息遣いだけがこの世界で音を発していた。


時間にして数秒の刹那に、脳を駆け巡る今までの思い出。

一瞬の内に半生を振り返る、記憶の解放。

疾風の如く溢れかえった記憶の中には

一つも、この瞬間に巧く立ち回る為の記憶はなかった。

『ーーーーーーっはははは!!』


笑う事しか出来なかった。

目元は涙で滲んで、心は重圧で押しつぶされて今にも崩れ落ちそうだ。

でも、命乞いはしない。

これが今の自分に出来る精一杯の抗い。


怖くない。

だから笑える。

怖くない。

だって笑えてる。

怖くない。

だって今、笑ってるんだから。

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