好きなものいれ
陋巷の一翁
『みずうみ』テーオドール・シュトルム
死にゆかむ、ああ、死にゆかむ われはただひとり!
(岩波文庫版『みずうみ』より)
せっかく二つ手に入れたので、岩波版と光文社古典新訳文庫版の『みずうみ』をこのたび比べ読みしてました。
前掲の箇所は光文社版では散文調に「死ぬときは、ああ、死ぬときは、あたしはひとりぼっち!」と訳されてますが、こちらもなかなか味のある訳文です。
ですが死に直面している感は岩波訳の方が遙かに強いので、私には岩波版が鮮烈に印象に残ります。なにしろ読んだ頃は光文社新訳古典文庫なんて影形も無かった時分でね! おまけに当時の文庫の価格は260円ですよ! 安いなぁ。これで人生変わっちまうんだから文学って奴はたまんない。
まあ新訳だけあって読みやすさでは光文社に軍配は上がるのですが、(なにしろ岩波版は戦後間もなくの訳なので)詩が重要な役目を果たす作中で、詩を韻文で訳している岩波もまだまだ楽しく読める翻訳だと思います。岩波版は他のシュトルムの初期短編が読めるのがいいですね。(夫が妻に改めて惚れ直す『遅咲きの薔薇』がオススメです!)
さて、『みずうみ』はラインハルトとエリザベートという二人の間に悲恋と言うにはあまりにも幼い恋が生まれ、当然のように消えて、しかし男の方は老年になってもその初恋が熾(おき)のように燻っている――といった状況を丹念に描いた作品で、それを私はたいそう気に入っているのですが、文学に興味の無い人から見ればなにこれキモイと言われてしまいそうな作品でもあります。それを後年のトーマス・マンは認識していて、自伝的作品の『トニオ・クレエゲル』で鮮やかにこの作品を使っております。
それは芸術的人生と市民的人生という二つの人生の対比です。普通の人間(市民的人間)は人生をあるがままに謳歌し、キモイ男の回想小説である『みずうみ』みたいな本を読まないし、共感もしないのです。まあそれはトーマス・マンなどの作家という立場の人間――芸術的人間のひいき目も入っているのですが。
(『トニオ・クレエゲル』についてはまた別で取り上げると思います。)
またそれは、『みずうみ』の作中でも民謡蒐集(しゅうしゅう)家のラインハルトと地元の名士であるエーリヒという対比ではっきりと分断されています。二人は友人関係ですが、かつての恋のライバルで、エーリヒが勝者、ラインハルトが敗者でもあります。そしてラインハルトはそのことを引きずっていますが、エーリヒの方はまるで意に介さない。
それどころか、ラインハルトを友人かつ学を為した名士だとして取り扱う。ラインハルトの方もこの隙に結婚した二人の間に割って入ればいいものを積極的に入ろうとしない。
結局ラインハルトは過去の思い出ばかりを語り、未来を語ろうとしない。こんなんじゃかつての恋人も心を動かされるはずも無く、ラインハルトは傷心のまま二度と合うことはないと言い残してこの屋敷を後にするのですが。
しかしそもそも浮き草のような芸術家に未来を語る資格が無い。安定性や資産などは名士たるエーリヒに完膚なきまでに負けている。
では一体何を語れば良いのか。何もない。もはやかつての恋人は触れることさえできない次元へ行ってしまったのだ。
それをうまく現しているのが睡蓮を摘み取ろうと泳ぐラインハルトの行動に痛いほど表されていると思いませんか? 少なくとも俺は思います。
さて、今までさんざん芸術的人生と市民的人生の対比という話を指摘してきましたが、ところで当の作者であるシュトルムは小説家と判事の掛け持ちをしていて、その両方をかなえているんですよね。もちろん当の本人に聞いてみればまた違った感想を(絶対に!)言うと思いますが。
それにしても、
死にゆかむ、ああ、死にゆかむ
われはただひとり!
この『みずうみ』に出てくるこの民族詩は使い方も素晴らしく、読んだ時しばらく頭に残っていて、いまでも口ずさむぐらい好きな詩です。
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