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「行ってきます」
前夜に何をしたとしても、翌日には何食わぬ顔で過ごさないといけないのは、言わば、一番身近な苦行だ。自分の徳を一番嫌らしい形で問われている。
業だ。因果だ。こんなもの。そう考えると、ほらお寺に行かなくても、修行なんてすぐ出来る。
彼がキスをしようとした時に、私は初めて拒んだ。結婚して初めてのことだった。付き合っていた頃は、二人だけのゲーム感覚で困らせるために拒んだこともあったけれど、結婚してからは生活のためにも昼間の足を引っ張ることはしてはいけないと思い、拒むことはなかった。結婚したら一人じゃなくて二人の生活が始まるから素直に生きられる。一旦エンディングを迎えた後の始まりだから、昼間の間は駆け引きや遊びをする必要もなくなる。その代わり夜は、結婚という枠に守られている二人なら何でも出来るとも言えるが。
彼は私を見て苦笑すると、「今日はご機嫌斜めなの?」と言った。私は彼の目を見ることが出来なかった。「今日は遅いの?」と玄関の、まだ何も飾っていない飾り棚を眺めながら聞くと、彼は分からない、と答えた。こんなことを言いたいんじゃないのに、と思っていると、彼は私の右手を引き寄せた。反射的に視線を移した途端に彼の大きな二重の目が視界に入る。耳元でふっと囁く声がした。
「昨日は楽しかったね」
頬を起点にして、体温が一気に上がるのが分かった。「何でそんなこと言うの!」とむくれて大声を出すのが精一杯だった。彼は外見は優しそうに見えるけど、性格は負けず嫌い。勝ち逃げが嫌いだ。
彼は私の反応を勝ち気な男の子のように観察すると、勝利の味を味わうかのような表情になった。結婚した彼が、私にしかしない表情。今の所、という懸念は残るのが悔しくて、二重に辱められた気分になる。何も答えられない私を、彼はからかいすぎたと思ったのか、一瞬目を見開いた後に詫びるような目つきになった。…今日、会社を休んでくれるなら、許してもいいよ。口に出せないわがままが、喉元まで出かかって、自分で考えたはずの甘い言葉に内側から溺れそうになる。
私は笑顔を作ると、彼は安心したように笑った。
じゃあ行ってくるね、と言う声とともに、彼は玄関から消えた。
あの週の土曜日に、彼はデートと称してテーマパークに連れて行ってくれた。彼は忙しかったから二人で出かけるのは数週間ぶりだった。土日の日差しは平日よりもより穏やかに降り注ぐような気がしていた。普段ずっと家にいるからそう感じるようになったんだと思っていた。つい数か月前までは普通に学校に行ったり、就活をしたりして平日・休日問わず外で歩き回っていたのに、もうあの頃の感覚が薄れてしまっている。結婚して専業主婦になると、外界から隔絶されると聞いていたが、それはこのことだったのか。これから歳を取っていったら、この感覚はもっと強くなっていくのだろうか。そう思うと、巨大な竜巻のような激しくうねる時の流れに、なすすべもなく飲まれていくような漠然とした不安を感じた。折を見てパートでもいいから働きに出たいと言おうか、と思った。
一通り、アトラクションを楽しんで、園内のフードコートでランチを食べた。園内のフードコートのパラソルの下は、家族連れと、若いカップルばかりだった。そうなる前とそうなった後というくくりの中で、両者は同種のものに思えた。フードコートのパラソルの下をやんちゃな子どもが二人、はしゃいで駆け回っていた。小学校に入った位の歳の近い兄と妹。奇声を発していないから、嫌な感じはなく、周りの大人達もテーマパーク内だからなのか、気が優しくなっているようで、微笑ましそうに走り回る彼らを見るともなく見ていた。お兄ちゃんの方の男の子は、黒いTシャツと薄いブラウンの短パン姿で、テーマパーク内の出店で売っているサングラスを麦藁帽子の上に掛けていた。先に席を離れてかけっこを始めたのはこちらの方のようで、話している内容によると、テーマパークのキャラクターをもじった、彼にしか分からない特殊なルールの鬼ごっこをしているようだった。妹の方の女の子は、髪型はポニーテールだが物静かそうな女の子で、よく見たら本当は静かに座っていたいんだけど、お兄ちゃんに付き合って走ってる、という感じの子だった。運動が得意ではないようで、薄いピンクのTシャツとお兄ちゃんと同じ薄ブラウンの短パンで、お兄ちゃんを追いかける体で、息を切らせて走っていた。ただそんな風に走ってはいてもお兄ちゃんのことは好きなようで、時折止まっては探るような目で男の子の姿を探してはその方向を目指して走っていた。
あんたたち、もう行くわよ。母親らしき女の人の声がした。男の子が女の子に近づいて来た。女の子はちょうど私達のテーブルの3メートル位先で俯いて苦しそうに息を整えていた。ほら、行くぞ、と男の子が言った。女の子は自分のことで精一杯で、何も反応出来ないようだった。喘息でも患っているのだろうか。正常な呼吸になかなか戻らないようで、肩で息をしていた。男の子はまたか、というように顔を顰めた後で、女の子の手を取った。こいつのせいでまた自分が怒られると思っているのだろう。妹に当てつけるような大げさな足取りで、母親の方に女の子を運んで行った。
私たちは一部始終をソフトクリームを食べながら見ていた。あの兄弟が今、幸せな状況でないのは明らかだが、安易に解決出来るものではないし、第一他人が上から目線で口を挟むのは偽善でしかない。でもこんな状況で別の話をするのもわざとらし過ぎるから、ソフトクリームを食べるのに集中している風を装って、見て見ないふりをしていた。彼も感想を言わないのが彼らのためになることを分かっていたようで、私達は時折アイコンタクトをしながら、無言でソフトクリームを食べていた。
「芹沢くん?」と言う声を聞いたのは、その時だった。
声の方向を見ると、高そうなスーツを着た、キャリアウーマン風の女性が立っていた。逆光だったせいか、最初は姿がよく見えなかったが、ダークスーツに身を包んだ長身の身体は、ピシりと背筋が伸びていた。肩位の髪で、上品な顔立ちをしている。顔立ちの端正さと肌艶の良さのせいで、年齢が分からない。休日のテーマパークにそぐわないのは向こうの方なのに、遊びの恰好をしたこちらの方が気後れさせられるような、威圧的なオーラがあった。このテーマパークの社員の人だろうか。彼と知り合い?じゃあ、もしかしてこの人が……。そう思った瞬間に、常に心の奥底でくすぶっていた形の見えない不安が胃の下辺りに凝固するのが分かった。実体化した不安が、内側から突き上げるように胃を圧迫する。吐き気を感じ始めた。自分の座っている椅子の下にぽっかりと穴が開いたような奇妙な感覚もそれを助長した。落ちも吸い込まれもせず、穴の上でただ椅子に座ったままで浮いている状態。ただ不気味だった。この幻覚を作り出している私の心の中のものを刺激しないようにしなければ、さもなければ跡形も無く呑み込まれてしまう。そう考えた私は全身の神経を張り詰める形でじっと座っていることに努めようとした。スタンドに乗った食べかけのソフトクリームをうっかり視界に入れてしまい、吐き気は更にひどくなった。昼間の彼を困らせるような粗相をしてはならない。澄ました顔をしていなければならない。この目の前にある、自分の唾液が付いた溶けかけの乳製品。ひどく気持ちの悪いものに思えた。こんなもの、もうテーブルから叩き落してしまいたい、自分ひとりだったらそれが出来るのに。そんなことを思ったら、心の底からフラストレーションが沸き上がって来た。マグマのようなフラストレーションは同時に怒りを連れてきた。日常の些細な怒りが合わさって、煮詰まり始めた怒りだった。得体の知れないどろどろした生物のような不潔なそれに抵抗することもなく呑まれることが悔しくて仕方がなかった。私は正体不明の怒りを宥めるために視線をテーブルの隅に逸らした。清潔に清掃された石畳が見えた。無機質なものを見ると一瞬、落ち着いた。でもそれは長く続かなかった。もしこの人がここの社員だとしたら、これはこの人が作ったものに他ならない。私はそんなものに心を癒されようとしている。…こんなことにもすぐに気づけないなんて、自分はなんて最低でバカなんだと思った。最低、バカ、という言葉が、私の脳内で点滅し、一人でに脳内を巡った後で悪酔いの後のように消えた。小休止の慈悲を与えられたようだった。
幸いなことに、昼間の私は、困った時には反射的に笑うことが出来た。どんなに追い詰められていても、笑うことが出来る。こういう時はとりあえず笑顔を浮かべれば丸く収まることを経験から知っているのだ。
だからこの時も笑った。顔の筋肉が張っているから無意識のうちに笑みを浮かべていたはずだ。作り笑顔を浮かべて彼の方を見ると、彼はその女性と和やかに談笑していた。私の動揺には全く気付いていないようだった。
妻です、と私を右手で示して言う彼の声で我に返った。
「あ、芹沢くん結婚してるって言ってたね」とあっけらかんと女性が言う。勝ち気な声が鼻についた。気が強い人のようだ。結婚という単語に全くひるんでいない。この人は独身なんだろうか、と思いながら立ち上がって機械的に頭を下げると、向こうもアナウンサーのように整った微笑みを打ち返すように返して来た。私が座る瞬間に、かわいらしいわねえ、とわざとらしいお世辞を言った。私は平均よりも身長が低いのがコンプレックスだ。彼と並ぶとアンバランスに感じるのが一番嫌だった。あと5センチ身長が高ければと常々思っていたものだ。
「結婚してどの位?」
「まだ一年経ってないです」
「へー、まだ若いよね?君」
「そんなでもないです。僕もう25ですよ」
「えー?何それ?私に対する当てつけ?」
「もう、先輩何でも悪く取るんだから。誤解ですよ誤解。全然そんなつもりないですよ」
テンション高めの大げさなリアクション。初めて目にする彼の姿だった。彼は、帆純は、職場ではこんな風に話すのか。部外者の私が入る隙もない会話を焦れる思いで聞いていると、「こちら取引先の部長さん。僕の大学院の先輩」とようやく彼が紹介してくれた。あの人じゃなかった、と思うと、気が抜けるほど安心したが、まだ平常心を取り戻すことは出来なかった。当たり前だ。この人が密かに帆純を狙っていないと言う保証はまだ、どこにもないのだから。
「お若いのに部長さんですか?すごいですね」
「そんなことないわ。社内ベンチャーだから」
「今日はどうしてこちらに?」
「ああ、仕事。接待よ接待。休日出勤でほんとやんなっちゃう」
「……じゃあ僕らがいつも先輩にしてることを先輩は今やってるわけだ?」
「ちょっと、嫌な言い方しないでよ。性格悪いわよあんた」
女性は帆純の顔ばかりを見て会話した後で、ねえ、と同意を求めるように私に対して笑いかけた。困ったような笑みを浮かべると、女性は最低限の礼儀を果たしたとばかりの笑みを返した。帆純は返答とは裏腹の上品な笑みを女性に対して浮かべた後で、私を労わるような眼差しを向けた。少なくとも私にはそう思えた。帆純は上手く交わしているのかもしれないけど、この人は確実に帆純に気がある。笑った後に一瞬真顔になったのが、女の執念の現れのようで、ただ恐ろしかった。私には気を許していないのがあからさまだ。この人は、初対面の人に対してはいつもこうなのだろうか。違う。仕事で間接的に迷惑を掛けるかもしれない私に不愛想にする理由が無いし、現に帆純に対しては普通以上に愛想よく笑っている。この人の中ではもう私に対する宣戦布告は済んでいるのかもしれない。
女性は彼の方に向き直ると、じゃあ、新婚さんのデートの邪魔して悪かったわね、と爽やかに言って元来た方向に走り去っていった。7センチはあろうかと言う高いヒールのパンプスを優雅に履きこなしていた。私があの位のヒールを最後に履いたのは就職活動の時だ。今もしこの場で履いたらよろけてまともに歩けそうもない。そう思うと社会で働く女の余裕を見せつけられているようで恨めしかった。あっちはホテルがある方向だ、と意地の悪いことを思った。
ちょっとアクが強いけど、面倒見が良くておもしろい人だよ、と彼は言った。どの辺がおもしろい?私鈍いから、もっと具体的に教えてくれなきゃ分かんないよ。生暖かい風が私の焦りで火照った頬をわずかに冷ました。あの嫌な浮遊感はいつの間にか消えていた。俯いて、自分の間合いを取り戻すために唇を舐めた。
きれいな人だね、と褒めようとして、止めた。相手がいなくなった後でまで追いかけるようにお世辞を言う自分が惨めに思えたからだ。ソフトクリームは目の前で白い筋を流して溶けかかっていた。もはや食べ物とは思えない。ひどい有様だった。彼は自分のソフトクリームを片付けながら、早く食べないと溶けちゃうよ、という視線を向けて来る。私はそれに気づかないふりをして言った。
「あの人と、いつも仕事をしてるの?」
「たまに」
「接待って料理とか?」
「そうだよ。料亭とか。綾とも今度行こうか」
「……いい」
彼がソフトクリームを食べ終わると、スマホのバイブの音がした。彼はバッグからスマホを取り出すと、テーブルの上で両肘を付いていじり始めた。画面は見えないけど開いているのはLINEで、あの人がメッセージを送って来た。直感でそう思った。
「どうした?具合でも悪いの?」
私は彼のその言葉を心の底から、ずっと待っていたのかもしれなかった。
俯いて頷くと、彼は「どこかで休む?」と聞いてきた。あそこがいい。私はあの人が消えた先のホテルを指さした。いいよ、と彼は即答した。
自分から手を繋いでホテルに行くまでの道すがら、色々なことを聞き出した。
社内ベンチャーというのは、民間のDNA検査のこと。彼女はその営業企画を統括している部長。大学院で学んだ専門知識を駆使して働くバリバリのキャリアウーマンで、独身だけど、事実婚状態のパートナーがいる。押しが強い人だから、僕はちょっと苦手だ、という彼の言葉が、白々しく響いた。仲睦まじいカップルとして周囲に溶け込んでいるであろう私達の繋いだ手の中を、白い水のような嘘が伝う感覚が耐えられず、繋いだ手をわざとらしく解いて、握り直した。
はっきりと分かったのは、あの人に逆らうと、彼が職を失うことになる、ということだった。それは私達の生活の崩壊も意味する。思えば全部可能性があったことだし、いつ起こっても不思議はないことだった。取引先に女の上司が現れて、彼とやり取りをするようになること。女の先輩と仕事で再開すること。そのいずれか、そしてその両方。予測しようと思えば出来たことかもしれない。足りなかったのは、私の覚悟。それだけだ。結婚したから安泰と言う訳ではない。絶対にない。私も彼も、そして半分鎖に繋がれている、あの人も。でもあの人はそういうことを気にしない人のように思えた。法律は妻である私に味方する?実体の無いものに守られたとしても、それは透明なバリアで自分を守っていることに過ぎない。私が生きているのは人の世界。いくら法律でも、人の視線と噂話は避けられない。もし仮に法律を盾にやり込められたとしても、彼はいい見世物になるだろう。今の会社には絶対にいられない。もしそんな状況になったら、私は喜べるか。彼を見下して笑えるか。
……出来ない。愛する相手が苦しんで喜ぶのは鬼だけだ。浅ましい。私はそんなものにはなりたくない。
LINE交換をしていたとしても、別にいい。仕事でLINEを使う会社も多いって聞くし。女の先輩と仲良くしてても別にいい。何なら元カノだったとしても別にいい。付き合ってから一度も彼はあなたの話をしなかったよ。それは元カノだったとしても彼の中ではもう過去の人になっている証拠じゃないの。私が意識するあの人、あの人ほどじゃない、そうでしょう。
土日にも拘わらず、テーマパークのホテルのチェックインはあっさりと完了した。彼の会社の福利厚生で、優待枠があるらしかった。
今すぐに、記憶を上塗りしなければいけない、と思った。外界のメルヘンの延長のような内装のホテルの中で、私は彼に奉仕することだけを考えていた。
部屋に入るなり、私は彼のパンツに飛びついて、脱がしに掛かった。彼はわっと、慌てた声を出した後で、笑った。え?ちょっと、綾……何?どうしたの?急に?ああ、また笑い話にしようとしている。全部分かってるくせに。…本当にこの人は、どうしていつもこうなの?頭は妙に冴えているのに、はらわたは煮えくり返っていた。今頭の中で言った言葉が、自分の感性が言わせたものか、理性が言わせたものか、分からない。部屋の真ん中にはダブルベッドがあった。彼を半ば追いやる形でベッド脇まで追い詰め、動揺した彼の隙を突く形でありったけの力を込めてベッドに押し倒した。私は彼の腰の上に馬乗りになると、引っかかっていたパンツとその下のボクサーパンツをはぎ取って、彼の下半身を露出させた。とうとうやってしまったと、興奮していたのは私だけで、彼はこんなことをされても、心の底から冷静なように思えた。残酷な現実を目の当たりにしたことで、私は何かに追い詰められるような苦しさを感じた。逃れるために、ただ焦った。ここで初めて、自分が服を全然脱いでいなかったことに気付いた。家のベッドルームよりも明るい蛍光灯の白い光の下で、彼は観念したように自分の白いシャツを脱ぎ出していた。私はブラウスのボタンを急いで外しにかかった。手が震えてなかなか外せない。がちゃがちゃやっているうちにボタンが一つ取れて飛んでしまった。構うもんか、と思って脱いだスカートと一緒にすると、ベッド脇の壁目掛けて叩きつけた。自分の怒りを彼に示したかったからこうした。投げつけた服が当たった壁の近くにはテーマパークのメインキャラクターが水彩画タッチで描かれた絵画が掛かっていた。惜しい、あの絵にもろにぶつかれば良かったのに、と心の中で毒づいた。彼もベッド下の床に自分の着ていたセーターを放っていた。
私は彼の下半身に顔を埋めると、彼のものを口に含んだ。ひどく痺れるような苦味を舌の上で宥めながら、舌で彼のものをそっと撫でたり、包んだり、つついたりしていると、彼のものが膨らんで、口の中が圧迫されて苦しくなって来た。予想よりも早かった。怒っているから雑にすると思ったのに、予想が外れたから戸惑っているのだろうか、と思った。息が詰まらないように、鼻呼吸を意識した。ぴちゃぴちゃという、自分が舐める音を聞きながら、行為に集中した。彼は初めは大げさにくすぐったがっていたが、そのうち静かになって、ため息のような吐息を漏らし始めた。初めてこうした時、彼はほとんど声を出してくれなかった。それが寂しくて、自分だけすぐに声を出してしまうのが悔しくて、現状維持のままでいることがただ不安で、どんな風にすれば感じてくれるのか、一人でいる時に不安になって、及第点なんだから別にいいと開き直ることも出来なくて、情けなさを感じながら、毎日、調べたりもしたのだった。今では時折声を出してくれるようになった。不意に漏らす声が増える度に、彼が少しずつ心を開いてくれていると思った。作り物の声じゃ無いと感じるたびに、不安で押しつぶされそうだった過去の時が、白く上書きされて昇華されていく思いがした。彼の心を繋ぎ止められることほどうれしいことはない。繋ぎ止められたと感じた日には、彼への愛しさが心の底から自然と湧き溢れ、身体の中から溺れそうになっていた。
今日は彼を徹底的に気持ちよくさせてやる。もう嫌だって言う言葉を聞くまで、止めない。彼は全裸だったが、私は白レースのパンティ一枚だった。五十歩百歩でも同じ全裸じゃないだけ有利だと思った。小柄な清楚系と褒められるのは嫌ではない。でも外見そのままの性格だと、勝手に舐められて、好きなものを簡単に奪われてしまうことを私は学生時代の経験から学んだ。一度母に相談したこともあるが、抵抗しない方が悪い、と笑われた。やられたらやり返せばいいじゃない。情けない、と高笑いをする母を見て、この人のこういう所は一生嫌いだ、と思ったものだった。やり返したらただの女の罵り合いになってしまう。プライドの高い母は自分を客観的に見たことが恐らく一度もないのだ。こちらは人間だと思っていても傍から見れば二匹の猿の罵り合いにしか見えない。現に私がこれまでに目にした女同士の話し合いで、人間同士の話し合いだと感じたものは一つも無かった。
だから自分の武器で自衛する。自分の身体に自信がある女は痛いだろうか。でも私は、そんなの気にしてられない。私はこの白レースのパンティ一枚の格好が自分の性的魅力を一番自然に惹き立てることを、自覚している。男慣れしていない澄ました少女のような顔には、まな板のようなぺったんこの胸が似合うはずなのに、私には平均よりもワンサイズ大きな胸が付いている。食に興味が無い性格はダイエット向きだった。退屈な反復運動を日課にするのはずいぶんと苦労したけどね。ウエストはくびれていてお尻は胸と釣り合いが取れる程度の大きさがある。太ももから下は顔の印象と同じやせ型で、子どもの頃に少しだけバレエをやっていて、先生に足の骨格のラインを褒められたこともあるから、足の長さは高身長の子に負けても、形は悪くないと思う。肩までのストレートの黒髪と色白の肌も、学生の頃にきれいだから欲しいと思って努力で手に入れたもの。白レースはそれらを引き立てるから、自分で選ぶ時は、良く着ている。
初めて付き合った相手に下着姿でこの身体を見せた時、顔から胸、ウエストのラインを舐めるように何度も見られた。他の男の子なら構わない。同い年でものすごく気が合う、親友に近い友達だったはずの男の子が、欲望剥き出しの糸を引くような視線を至近距離で浴びせ掛けて来たことがショックだった。今思えばひどい話だが、裏切られたという思いもあった。
帆純と付き合った頃に、彼も同じような視線を向けて来るに違いないと考えた私は、先手を打って積極的に振舞った。ベッドに座るなり彼の首に自分から手を回して、自分からキスをした。出来るだけキスを長引かせたかったから自分から舌を絡めた。こんなキスをすること自体初めてだったが、ぼろが出る所まで自分がリードするつもりで行けばいいと思っていた。あの時、キスを繰り返しながら自分で服を脱いで、彼に跨った時に、彼が私の両ふくらはぎを撫でた。撫でられた所に電流が走るような快感が走って、私は思わず喘いでしまった。それがきっかけで理性がぐらつきだして、動きに隙が出来て、彼がその隙を突く形で私の胸を鷲掴みにして揉み始めたのが最後、理性が粉々にはじけ飛んで、あの後はされるがまま、最後まで彼の言いなりになってしまった。
思い出したくない初体験の記憶。後になって聞いたことだが、彼は最初は私を遊んでいる子だと思って警戒したけど、服を半分脱いだ辺りから無理をしていることが分かった。指摘するのもかわいそうだから、騙された振りをしていたそうだ。それを聞いた時にひどいと思った。そしてからかい上手の彼に対しても自分がこれ以上惨めにならないために、自衛が必要なことを悟った。
そして今は、ようやく対等になれていると思う。私達が一緒に過ごした時間を切り取って縦に並べてみる。彼が攻めた時と私が攻めた時の割合はほぼ同じになっているはずだ。
彼が歯の隙間から声を漏らした。苦しそう。男の人が昼間、こんな風に声を出すことなんて、めったにない。でも当たり前。だって彼が一番弱い裏側から先端にかけてを、さっきからずっと攻めてるんだから。
でもすっごくかわいい。ずっと聞いていたいから、もうちょっといじめてみよう。彼の下半身から身を起こすと、彼のものが重力に逆らうみたいに、シーツに垂直に屹立した。見てるこっちが恥ずかしくなるほどいやらしい、と思いながら、私はそれを右手で掴んで、人差し指でじらすように根元の周りを撫でた。手のひらで包み込んでひと擦りすると、二人分の分泌物が混ざった粘液がぐちゅっ、と音を立てた。思わず吐息を漏らしそうになったのを唇を噛んで堪えた。いつも私が彼に言われている気がする言葉、今日はどこまで楽しませてくれるの、その言葉を頭の中で唱えた。私の頬は自然に火照っていくだろう。そして彼はそんな私を恨めしそうに見て、また興奮する。しばらくぶりの奉仕させる側の快感に全身が包まれた。快感を確かめようと、速度や、指の絡め方でじらしながら繰り返した。繰り返す度に彼はベッドの上で苦しげな声を漏らして悶えた。
彼が寝返りを打つ度に、頑丈なはずの木製のダブルベッドがギシギシとしなる。今では室内の音の一つ一つに、彼の本心の動揺が伺えるようになった。本当なら、自分の力で起き上がって、すぐに私を攻められるのに、しない。こうやって責められるのが好きだから。攻めることしか知らなかった彼にその快感を引き出して教えたのは私だ。毎晩少しずつ、押したり引いたり。身体と精神がひりつくような長期戦だった。だからうれしくて仕方ない。私の眼前に映る今の彼は、まるで、女の小人にいたずらされている裸のガリバーみたい。そう考えると心の底から愉快になった。
右手を彼のものから離すと、川を遡るように彼の傍らにすり寄って、彼の耳元に口を付けた。
「今、一番やらしい音した」
「……」
「手べちゃべちゃになっちゃったよ、ほら」
「……」
私は彼の目の前にべたべたになった右手を広げると、人差し指の先を見せつけるように口に含んだ。わざとらしくならない程度に吐息を漏らしながら、爪の先を舐めてきれいにする。中指、薬指も同じように舐めながら、次の展開を考えていた。いやらしいのは彼だけじゃない。私だってパンティの下は彼と同じ位ぐちょぐちょになっている。我慢出来なくて、シーツの上で媚びるように腰が動いてしまっていたのを自覚していた。本当はパンティなんかはぎ取られてしまって、彼のもので後ろから、あそこが壊れるほど激しく突かれたいのに。でも今は、そんな願望を見透かされていなければいいと思っていた。
私は残りの指に残った粘液を、薄桃色に火照った乳首に擦り付けるように付けた。こうすれば自分が興奮するし、これを見た彼ももっと欲情するからだ。
「……綾、お前が怒ってるのは分かったよ……」
「……」
「……あの人はただの先輩だよ……俺とは付き合ってたとかないから……だから、…もういいだろ、もう我慢するの無理だよ……」
「…………だ、め」
言葉を切るようにして懇願する彼の要求を、私はじらして撥ね付ける。私は再び彼のものに手を伸ばした。自分のことを俺と言い始めたから、本当に限界なんだ、と分かった。今度は先端を頭を撫でるようにいじる。いじりながら、「そんなに我慢できないなら、一人ですればいいじゃん。目の前で見ててあげるよ」と諭すように言った。
相変わらず私の腰は擦り付けるようにシーツの上で動いていた。さっき移動する時に彼の腕に擦り付けておねだりしたかった。でも我慢したから、私はまだ大丈夫そう。だったら、させてあげない。一回目は中でなんか、させてあげない。
私は再び彼のものを右手で包み込むと、彼の苦悶の表情を鑑賞しながら、ゆっくりと右手を上下させる。徐々に加速を速めるが、彼がイキそうになったらわざと速度を緩めてお預けを食らわせる。悪魔みたいな生殺し。悶える彼の姿をかわいい、と思う度に欲求不満が募るのが切なく、こちらも右手を動かすたびに吐息を漏らした。気づけば右手を動かしながら、左手の人差し指を物欲しげに口に咥えていた。
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