転生大聖女の異世界のんびり紀行

四葉夕卜

第1章 居眠り大聖女

プロローグ


 彼女はふらふらと夜道を歩いていた。


(……疲れた……眠い……)


 理不尽なクライアントに怒鳴るばかりの上司。

 先輩、後輩も疲れ切っており、仕事に意義を見出すような空気はなく、ただ無作為に目の前のことに忙殺され、自分自身を摩耗させていた。


 月の残業は百五十時間を突破したところだ。


「……ふあぁ……っ」


 口から出るのはあくびだけ。

 花巻比留音はなまきひるねの人生は一言で言えば“疲労”であった。


 信号が点滅して赤に変わる。


(――癒やしが――癒やしがほしいよ)


 お日さまの匂いがするふとんで昼寝がしたかった。

 動物を飼って癒やされてみたかった。

 観光地で温泉に浸かって無為に時間を使ってみたかった。

 南の島でハンモックに揺られて何も考えずにぼーっとしてみたかった。

 寝ていれば勝手にうまい飯が出てきてほしかった。

 だらだらと映画を観ながらポテチを食べたかった。

 可愛い女の子とくすぐりあって、日向ぼっこをしたかった。

 一軒家の縁側で緑茶を飲みながらおじいさんおばあさんの昔話を聞いてみたかった。

 あてのないウィンドウショッピングをしてみたかった。

 見晴らしのいい丘で、ただ風を感じてみたかった。


 そして何より……平和で素敵な、自由な日常を送りたかった。


(……お母さん、疲れたよ)


 終電帰りの交差点。

 いつもより景色がどんより見える。


 女手ひとつで育ててくれた母の体調が悪くなり、他界した頃から、精神疲労はピークを迎えたように思う。治療費を稼ぐ、という目的があったからこそブラック企業の仕打ちにも耐えてこれた。目的を失ってから、自分が何のために生きているのかわからくなった。


(ダメだ……ここで……寝ちゃおう……)


 比留音は地面に倒れて、目を閉じた。


「癒やしが……ほしいなぁ……」


 つぶやきは夜空に消えていった。



      ◯



 ふわふわと彷徨っているような、それでいてどこかに引き寄せられている感覚を全身に感じた。


 視界がない。自分がどこにいるのか判断がつかない。

 でも、不思議と怖くない。


 久々にのんびりした気分だ。よくわからない状況でもほんわかした気持ちになってくる。私って働きすぎだったんだなと、比留音は他人事のように感じた。


『日々の人生、お疲れ様でした』


 ハープの調べのような、美しい声が響いた。

 光が差し込み、目を開けると、金色の髪を足先まで伸ばした美人が笑みを浮かべていた。


「……どちら様でしょう?」


 頭上には宝石輝くティアラをつけ、純白のトーガをまとい、女神だと言われても信じてしまう慈愛に満ちた表情をしている。瞳は吸い込まれそうなブルーだ。


『女神ソフィアです。あなたの人生をずっと見守っていましたよ、比留音』

「女神……さま? 私の人生を?」

『困難の多い人生でしたね』


 女神ソフィアの表情が憂いを帯びた微笑に変わる。


 すると、何もない空間に映像が浮かび上がった。

 比留音の人生がコマ送りで映し出される。


『お母様の離婚、裕福でない暮らし、上手くいかない人間関係……あなたは寂しさを抱えて生きる子どもでした』


 ランドセル姿の比留音が一人でとぼとぼ帰る映像が映し出され、次にセーラー服の比留音が同級生と口論する光景に切り替わる。さらに映像は街中へ飛ぶ。ショーウィンドウに展示された最新の洋服を見る比留音が、寂しそうに肩を落とした。


『高校生になってからは家計を助けるために毎日アルバイトをして……お母様と一緒にお金を貯め、勉強をし、有名大学に合格――。その際は私も嬉しく思いました。頑張りましたね』


 カフェのチェーン店で働く高校生の比留音。

 貯金通帳を母と覗き込んで、二人でハイタッチをする。


 合格通知が届いているのを母と喜び、抱き合っている二人の映像は微笑ましかった。


『その後、すぐにお母様のご病気が発覚して……あなたは退学して働き詰めになりました』

「……」


 よれたスーツ、かかとの削れたパンプスで駆け回る自分の姿を見て、ああ、服を買う余裕もなかったな、と思い出した。やっと客観的に自分を見れたと言ってもいいのかもしれない。


『あなたは二十二年間、どんな困難にも前向きでした。小さな喜びを見つけて幸せになれる素敵な女の子でした。人のために自分を犠牲にしてしまうお人好しさんでした……。あなたの純粋な魂は、地球には適さなかったのかもしれませんね』


 女神ソフィアが比留音の頭へそっと手を伸ばし、大切なものを確かめるように、優しく撫でてくれた。


(そっか……私……死んじゃったのか……)


 女神の口ぶりからすべてを察し、比留音は目を閉じた。

 思えば疲れてばかりの人生だった。

 いつも何かに追われていたように思う。


『もう大丈夫です。あなたの魂はあるべき姿になりますよ……』


 比留音の悲しげな顔を見て、女神ソフィアが微笑を浮かべて手を動かす。

 伸ばしっぱなしの自分の黒髪がさらさらと動き、比留音は目頭が熱くなった。


「……あったかい……です……」


 女神ソフィアは何度も何度も手を往復させる。

 我が子のように愛おしんでくれる。


 比留音は自分の人生を肯定してくれた喜びに、涙が止まらなかった。


『次の人生ではもっと素敵な日常を送れるように――』


 女神ソフィアが比留音の額に口づけを落とすと、全身が光り輝いた。


『私の加護を授けましょう』

「……ありがとうございます。あの、私、やり直せるんですか……?」

『ええ、もちろんです』

「……嬉しいです……女神さま……本当にありがとうございます」


 金色の髪を揺らし、女神が一つうなずいた。


『さあ、自分の新しい姿を見てください』

「新しい……? これは……私、ですか……?」」


 空中に現れた鏡には、プラチナブロンドのストレートヘアをした、碧眼の少女がいた。


 年齢は八歳ぐらいだろうか。

 泣いていたのか、涙のあとが頬に残っている。


『日本人のあなたも好きでしたが、私の加護を授けたため……私と近い容姿になりました。加護を受け取れるよう、年齢も下げさせていただきました。比留音、大丈夫ですか? 元の姿に戻すこともできますが……』

「とっても可愛いです……それに……女神さまに包まれてるみたいで……安心します……」

『うふふ……よかったわ』


 女神ソフィアは嬉しそうに比留音を抱きしめた。

 美しい親子が抱き合っているようであった。


『記憶はそのままにしておきますね。聖魔法の適性も最大にしておきましょう。困ったときはいつでも私の名前を読んで、祈りを捧げてください……いつでもあなたを見守っていますよ……』

「女神さま……」

『もう時間のようです。あら……次の人生であなたはずいぶんマイペースな性格のようですね……ふふっ』


 未来を見たのだろうか。女神ソフィアが小さく笑った。


『この姿が本来のあなただったのね』


 女神がそっと離れ、さらりと比留音の髪を撫でた。周囲の空気がキラキラと輝いて星屑が舞った。聖句を唱えれば、星屑が比留音を祝福するみたいに躍り、光が大きくなっていく。


 比留音は眠気でまぶたが重くなってきた。

 気持ちがよかった。


『忘れないで……向こうの世界でもあなたはヒルネです……あなたは本当のあなた自身になるのですよ……』

「そ……なん……ですね……?」

『……ヒルネ……素敵な人生を――』


 女神が最後に微笑むと、彼女たちのいた空間がゆっくりと白んでいき、やがて消えた。

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